第51話 決意の意味は


 角を曲がると、懐かしの我が家が見えてきた。

 門の前には案の定、あたりまえのような顔をしてアルフォンソが待っている。


「お前の従者は、あいかわらずだな」


 憮然とした王子様の声にどう答えようか迷っているうちに、馬車がこの上なく滑らかに停車した。こちらを見上げるアルが一瞬だけ目を細めて、ほっとしたように微笑う。

 不機嫌な王子様は、それでも紳士らしく馬車を降りる私に手を貸してくれた。

 恭しく頭を下げ、アルフォンソは畏まった声を作る。


「お嬢様、お待ちしておりました」

「ただいま、アル!」


 長かった。

 あやうく抱き着きそうになったけれど、アルフォンソの身の危険を察知して自重する。だけど、久しぶりの幼馴染に、顔が勝手に笑顔になっちゃうくらいは許して欲しい。


「予定より遅くなってごめんなさい」

「いえ、知らせは受けておりましたから……お元気そうで何よりです、お嬢様」

「ええ、なんとかね」


 王宮への滞在は一週間ほど。

 もちろんその間、遊んで過ごしていたわけではない。

 有言実行の王子様がすぐに教育係を手配してくれたので、私は朝から晩まで宮廷行事のお作法を叩きこまれていたのだ。


 これが、想像していたよりずっとハードで、もう……。

 正直、伯爵家が懐かしくなって、何度も夜逃げしようかと考えましたわ!


「確かに送り届けたぞ、農民」


 未だ憮然としている王子様の尊大さに、アルは鉄壁の慇懃さで応える。


「お嬢様が大変お世話になり、恐縮です、殿下」


 アルは王子に頭を下げてみせてから、私を頭からつま先までゆっくりと眺めた。


 え、何、どうしたの?

 きょとんとしていると、アルフォンソがすいと指を伸ばし、襟元にひょいと触れる。


「おや、虫にでも刺されましたか?」


 ぎくう。


 例の噛み跡はもちろん、まだうっすらと残っているのだ。そうそう簡単にきれいさっぱりというわけにはいかないのだ。だから一応襟の高いドレスを着てきたのだけど、いつだって目ざとい従者の目を逃れるのは難しい。


「それとも、王妃様はご静養先で犬でも飼っておられるとか?」

「ええっと、……まあそんなところ、かな?」

「おい、」


 何か言いかけたユージィン様に、アルフォンソがいっそ清々しい笑みを向けた。


「お畏れながら殿下、お嬢様はご婚約前の大切なお身体でございます。滅多なことがありませんよう、ご考慮頂きますようお願い致します」

「……」


 うわあ、アルがものすごく、無駄に、バカにしてるのかというくらい丁寧だ。

 ってことは、怒ってる……、絶対怒ってる!

 なんとか止めようと口を挟もうとした私などものともせず、アルは立て板に水のごとく続けた。


「女神リューネアの御前で婚姻を誓うまでに何か過ちがあっては、そもそもご結婚自体が成立しなくなります。王太子殿下におかれましては、どうぞ節度というものをお忘れになりませんよう」

「貴様に言われるまでもない……、いや」


 売り言葉に買い言葉で尖りそうになった台詞を、ユージィン様は空気とともに飲み込んだ。


「そうだな、アリアを傷つけたのは俺の落ち度だ。悪かった」


 ……嘘でしょ。

 王太子殿下が、ユージィン様が、私の従者に頭を下げた。

 私も驚いたけど、謝られたアルフォンソ本人が一番びっくりだろう。


「しかし、お前の主は未だ清い身体だ。リューネアに恥じることなど何もない。安心して良いぞ、農民」


 恥じるところはなにもない、なにもない、ですか、王子様?

 色々危うかったような気がしないでもないけど……まあ……うん、今問題なのはそこではない。本人を前にしてそういう話題、いたたまれないからやめて欲しい。


 今ここでどんな顔をしていればよいのか、誰か最適解を教えて下さい。


「それはそれは……殿下の忍耐力をいささか侮っていたようです。出過ぎたことを申しました」


 ほんの数秒でたてなおして、真顔で受けるアルもアルだけどさ。

 なんだろう、これ。微妙な三角地帯はさしずめバミューダ・トライアングルだ。


 あら、バミューダって何のことだったかしら?


「かまわん。ここまで俺にはっきり意見できるとは、なかなか面白いな」


 王子様はいつものように顎を上げて、尊大な笑みを浮かべる。


「アルフォンソ、だったか?」

「!」

「!!」


 ユージィン様がアルの名前を!?

 ていうか、覚えていたんだ……。

 私も驚いたけど、呼ばれた本人は今度こそ衝撃を受けたらしく、さすがに固まっている。


「貴様、一生伯爵家の従者でいるつもりか?」

「え?」

「有能な農民なら化ける可能性がある。我が城でも歓迎するぞ。せいぜい励むが良い」

「はあぁ?」


 アルの呆けた声にひやりとしたけど、ユージィン様は含みのある笑みで余裕綽々だ。うん、これ、絶対本気だな。なにせ前世での成功例がありますものね。


「ではな。アリア、今日はゆっくりと休め」


 あっけにとられた主従にそう言い残して、王子様はひらりと馬車に乗りこんだ。

 いつだって嵐のようなのに掻きまわすのに、去り際だけは潔い。

 馬車が見えなくなって隣を見ると、私の従者はまだ微妙な表情で前を見据えていた。


「アル?」

「……あれ、どういう意味ですかね?」

「そうねえ、お城も人手不足なんじゃない?」

「なるほど」


 アルフォンソはひとつ頷いて、ようやく見慣れた顔で笑う。


「お変わりないようで何よりです、お嬢様」






 私の無事を祝ってなのか、その日の晩餐は好物ばかりがテーブルに並べられた

 おそらくトマスが私の帰宅を知らせたのだろう、お父様が珍しく夕食の席についている。


「カルヴァは楽しかったかい?」

「ええ、お父様」


 私の婚約はもちろん祝福してくれているけれど、マイペースなのはあいかわらず。アルに聞いた話では、お父様はごくごく忙しく自分の職務をこなしているらしい。


「王妃様のお加減はいかがかな」

「思っていたよりお元気そうでしたわ。春先はあまり調子が良くないとおっしゃっていましたけど、夕食の席には必ずご一緒してくださいました」

「それは何よりだ」


 陽気に頷いて、お父様はワインを一口飲んだ。


「やはり王妃様は王都にいていただかなくては。陛下の士気にかかわる」

「あら、そんなふうには見えませんけど」


 ムラっけのある王太子殿下とは違い、陛下は性格も行動も非常に穏やかで、安定している。どちらかといえば王室のご兄妹は王妃様の性質が色濃く出ている気がしますわ。


「そういうふうに見えなくても、そういうものなのだよ。男は単純だからね。大事な女性が傍にいれば、頑張れるものだ」


 お父様は、わずかに懐かしむような笑みを浮かべる。


「私だって、ディアナがいたころは、もう少しぴりっとしていたからね」

「まあ……、」


 意表をつかれた。

 お父様がお母様の名を口にするのはとても、とても久しぶりな気がする。

 向かいの席に座っているアルも驚いたらしい。お父様の顔を見て、私を見て、それからもう一度お父様に視線を移す。


 挙動不審よ、アルフォンソ。おかげで私は少し落ち着きを取り戻せましたけど。


「彼女のことを話したことはなかった、かな」

「ええ……いえ、小さいころは、ときどき、お話して下さいましたわ」


 それは私がねだったからだ。

 母親の顔もほとんど覚えていない私は、時々お父様に思い出をねだった。お父様はいつだって優しく私の願いをかなえてくれたけど、だけど話が終われば、お母様はもうどこにもいなくて、お父様も私も寂しくて。


 いつのころか、私はお母様の話をせがまなくなった。

 いつのころからか、お父様はお母様の名前を呼ばなくなった。

 だから本当に久しぶりだ。


「ディアナは私に色々なものを残してくれた。クラウスもアリアも、私たち二人の大切な、自慢の宝物だ。それに彼女との思い出は、ずっと、美しいまま心に残っている」


 お父様の声は、穏やかで優しい。


「だけどね、やっぱり時々―― いや、いつでも、かな。ディアナに会いたいと願ってしまうんだ」


 どうしてお父様がお母様の話をしているのか、理解した。

 理解したとたん、ちょっと泣きそうになる。


「私はね、未だに彼女に甘えているんだよ。いくつになっても、男というのはそういう生き物だ」


 だけど涙が零れる前に、お父様は悪戯っぽく笑った。

 瞬きの間に、愛した妻を懐かしむ夫の顔から、娘を見守る父親へ。


「だから、君は長生きしなさい」

「お父様は、難しいことをおっしゃいますわ」


 人の寿命なんて、自分でどうこうできるものではないもの。

 せいぜい食事に気を使って、適度な運動をして、ストレスを溜めないように……って、何の話だっけ?


「王太子殿下は有能だが、あのご気性だ。誰かが見張っていないと、どこへ暴走をはじめるかわからない」

「まあ、ご慧眼ですわ」

「だからアリア、君が傍にいてあげなさい」

「……」


 驚いた。

 今日は驚くことばっかりだ。

 お父様、意外とユージィン様の本質を見抜いていらっしゃいますのね?


「なに、殿下と喧嘩でもして、どうにも辛くなったら羽根を伸ばしににおいで。我が家はいつでも歓迎だからね」

「お父様ったら……、結婚式まで、まだ半年もあるんですよ?」

「はは、少し気が早かったか」


 まだ正式に婚約を発表してもいないのに夫婦喧嘩の心配とか、先取りしすぎです。

 なにしろあの王子様のことだもの、すんなり結婚式までたどり着けるのかいまひとつ自信が持てません……あれ、マジで不安になってきた。


「結婚式は通過点だからね」

「通過点?」

「長い人生の、イベントのひとつに過ぎない。しかし、それを決めたことには意味がある。アリアには、相当の覚悟が必要だっただろうから」


 言葉の重さとは裏腹に、お父様の声は軽やかだ。


「おめでとう、アリア」


 そう言って、いつものように悪戯っぽく肩を竦めて、笑う。


「さて、相手が王太子だと知ったら、ディアナは何と言ったかな」

「あら、きっと喜んで下さいますわ」

「うん」


 お母様のことは覚えていないけれど。

 お父様が愛した女性なら、お兄様と私のお母様なら、笑って祝福してくれたはず。


「そうだね。アリア、君はディアナによく似ている」

「え?」

「彼女も君と同じように――好き好んで私のところへ嫁いで来るような、勇気ある女性だったよ」




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