第49話 千一夜のならい


 ああもう、またこのパターン……。


 どこか片隅でそんなことを考えながら、私はおそるおそる口づけを受け入れた。ちろりと触れたことに驚いてひっこめた舌が、軟体動物のようにぬるりと侵入して来たユージィン様の舌に追いかけられ、絡めとられる。耳の奥にぴちゃぴちゃ水音が響いて、どんどん回転が鈍くなって、ああ、もう。


「ん、」

「アリア……」


 わずかに離れ、また絡み合う。

 まずいな、このままじゃダメだ。

 どこかでそう考えているのに、触れあったところから熱に支配されそうになる。

 服の上から身体をなぞる掌がどうしようもなくもどかしい。

 至近距離で視線が合うと、ユージィン様は目だけで凄むような笑みをうかべ、ペロリと舌なめずりをした。

 その舌が、今度は首筋をゆっくりと舐める。


「ふ、やっ」


 だめなのかなんなのかわからなくなりながら、私は小さく首を振った。


「んっ!」


 次の瞬間、ピリッとした痛みが走り、私はびくんと背中を逸らす。

 さっき噛まれたところに吸い付かれた!

 ちょっとこれ、絶対食い破られている痛さじゃない?


「痛、いたい、もうっ……」

「見事に跡がついたな」


 少し掠れた声の色に瞬きをすると、ぼろぼろっと涙が零れた。

 なんで泣いているのか、自分でもわからない。

 傷の痛みが、溶けかけていた理性を急激に呼び覚ます。


「今日は抵抗しないのか?」

「理由がありません」


 だって、前とは違う。

 ちゃんと求婚してもらって、受け止めて、私はここにいる。

 結婚前なのは……、まあ、かなり、すごく、問題ありだと思っているけど、今の私にユージィン様を強く止めるほどの抵抗力はないもの。


「泣いているが」

「痛いからです!」


 わずかに眉を顰めた王子様は、もう一度私の唇にそっと触れた。


「ユージィン、様?」


 至近距離、蒼玉の瞳にゆらゆらと光が浮かんで、見惚れずにはいられない。

 ああ、ユージィン様だ。

 私の好きな人は、ここにいる。


「そうだな。俺はユージィン・パドゥラ・アシュトリアだ」

「この国の王子様ですわ」

「アリア、お前は俺の妻となる。そうだな?」

「はい」

「ではそろそろ覚悟を決めろ。順番は逆になるが、限界だ」

「ええっ」

「諦めて抱かれておけ」


 でも、でも、だけど!

 結婚式まで、最短でもあと半年はあるんだよ?


「嫌か?」

「嫌じゃないです、けど」


 何を言わせるんだ、何を!


「でも、もしも、今日、あの、あれですよ……、まんがいち、その、御子を授かったり、したら」


 恥ずかしい。

 何が楽しいのか、王子様は私を眺めて口元を緩める。


「したら?」

「結婚式のドレスを着ることは、できなくなります、よね?」


 口元の笑みが掻き消えて、ユージィン様は数秒、真顔で私を見詰めた。

 本能が勝つか、理性が勝つか、あとのことは神様にお任せすることにしよう。


 極度の緊張からようやく解放されて、私はぐったりと力を抜いた。






「絶対誤解されましたわ」

「させておけば良いだろう」


 ふてくされ気味の王子様は、それでもちゃんと返事をしてくれた。

 鏡を覗くと、首の付け根あたりに面白いくらいくっきりと歯型がついている。必死だったから気付かなかったけど、犬歯は皮膚を食い破っていて、けっこう出血していた。

 吸血鬼か!

 いや、どっちかっていうと大きい獣かな。


「しばらくは襟の高いドレスを着なくちゃ……」


 歯型の他にも、首から胸にかけて点々と赤い痣が残っている。これは、どこからどう見ても虫刺されで誤魔化せる状態じゃない。お風呂の世話をしてくれた年配の召使が、妙にいたわってくれた理由がようやくわかった。……ああ、恥ずかしい。


「お前の純潔は、お前自身が一番よく知っているだろう」

「勘違いしないで下さい。あらぬ誤解を受けるのは、ユージィン様も同じですわ」

「奥向きの使用人は俺のことは嫌というほど知っている、今更何があっても驚かん。口も堅いから、安心しろ」

「これじゃ人前に出られません!」

「跡が消えるまでここで暮らせば良い」

「ええっ」


 ここで、ということは、王宮の王子様のお部屋で、ということでしょうか。

 それこそ根も葉もない噂が、いや、根っこくらいはあるかな……とにかく、不名誉な噂が流れるに決まっていますわ!


「心配するな、部屋は別に用意させる。王子のこの俺が我慢を強いられているのだ、お前も少しは耐えろ」


 意味がわからない。


 だけど、ユージィン様が戻ってきたことが嬉しくて、鏡の中の私は勝手ににっこり微笑んだ。やだな、私、いつもこんな顔して笑ってるのかしら。

 デレデレじゃない?

 傍から見たら、リア充爆発案件じゃない?


「どうせ王太子妃として覚えなければならんことが山ほどあるから、丁度良いだろう。明日教育係を手配してやる。しばらく滞在して教えを仰げ」

「ええ~」


 もちろん王太子妃教育は受けなきゃいけないとわかってるけど、もう少し先でも良いんじゃないかなあ。そんな考えが顔に出ていたのか、王子様は少し顎を上げる。


「お前はいささか、向上心というものに欠けるな」

「そ、そんなことはありませんわ」

「面倒なことを後回しにする傾向がある」

「……」


 思い切り図星だったので振り返って睨みつけると、王子様は可笑しそうに唇の端を緩めた。


「いいから、傍に来い」


 傍にって、王子様は既にベッドの上だ。


「別室を用意していただけるのでは?」

「今日は駄目だ。簡単に寝かしてはやらんぞ」

「ええっ」

「お前の話を、前世の身の上話をあらいざらい、全部聞くまでは、眠る気はない」


 そうだった。

 勢いで色々口走ってしまったけど、あれで織田信長だったユージィンが納得するはずもない。私は覚悟を決めて天蓋つきの大きなベッドに近づき、端っこにそっと腰を下ろした。


「何からお話すればいいでしょうか?」

「まずは、お前自身の話だ」

「ええ、畏まりました」


 まるでシェヘラザード姫みたいだな、と考えてから、あれ、誰だっけと追い掛ける。

 そんな頼りない記憶をたどりながら、私は語り始めた。




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