第48話 私が私である意味を
つめたい手で心臓をきゅうと掴まれているように中心から冷えていく感覚。
「アリア」
名前を呼ばれ、身体がびくりと震えた。
「答えろ、アリア」
私がアリア・リラ・マテラフィであることは、ユージィン様だって理解している。
前世の私が、何者なのか。
つまり、そういうことだよね。
できることなら私の前世の話をしたくはなかった。でも、それは私のわがままだ。このまま私のほうだけ秘密を保ったままなんて、そんな都合の良い状態が続くわけがない。
私は大きく深呼吸して、王子様と向き合う覚悟を決めた。
「振り向くな」
だけど、牽制される。
王子様の腕ではなく、見えないなにかに束縛されて、私は動けない。
「先に答えてからだ、アリア。お前は俺を、『織田信長』を知っていたのだろう?」
「まさか……いえ、どうして?」
声が震えるのを抑えられなかった。
私を抱いているのは、誰なんだろう。
「お前に妹の話はしたが、その名を出したことは無い……言いたくなかったからだ。ずっと、今も、俺にとって、口にしてはならない名だからだ」
ああそうか。
気が緩んでいた。
馬車の中で寝起きの私は、知るはずのないお市の方の名前を出した。
「それだけではない。山中の物乞いの話を知っていたな? 弟の話を出した時も可笑しいほどに動揺が見えたぞ」
後ろから私を抱く腕に、ぎゅうと力が籠る。
ちっとも優しくない、力任せの抱擁。
「お前は誰だ?」
あなたは、誰ですか?
「記憶がないというのは嘘だ。お前の前世は、平民でもないな。『織田信長』に近しい者しか知らないことを、お前は知っている……つまり、俺をよく知る誰かだということだろう」
「……ちがい、ます」
「だが、わからん。前世の俺の所業を知っているのなら、そうそう傍にいたいなどと、ましてや妻になろうなどと、思えるはずがないだろうに」
言葉が通じる気がしない。
身体に絡みついた腕に、これまで以上の力が籠った。
抱え込まれ、首筋に吐息を感じた瞬間、がぶりと噛みつかれる。
「いっ、」
甘噛みという加減ではなく本気で痛くて、私は我慢できずに声をあげた。
だけど王子様は意に介さない。ちがう、今私の後ろにいるのは、ユージィン様ではないのかも。ゾクゾクと得体の知れない何かが背中を這い上がる。涙が滲んできたのは、きっと痛みのせいだ。
駄目だ、いま本当に泣きたいのは、私のほうではないはず。
「ユージィン、さま」
「お前はどうしてここにいる?」
どうにか逃れようと足掻いたけれど、あっさりと床の上にうつぶせに倒された。上から押さえつけられ身動きがとれないまま、噛まれたところをゆっくりと舌でなぞられる。
ああ……捕食される草食動物の気持ちって、こんな感じかな。
『油断しないで』
王妃様の声が頭の中で響く。
『ユージィンは、貴女が思うよりきっと手強いわ』
そう助言を貰っていたのに、私はすっかり緩んでいた。
油断して、安心して、間違えた。
秘密にしておくならお墓まで持って行く覚悟が必要で、打ち明けるのならとっくになにもかも話しておくべきだったのだ。
ああ、中途半端で、傷つけてしまう。
都合の良い時だけ前世の記憶を頼ってきた罰を受けている気がして、震えが止まらない。
「震えているな?」
むしろ楽し気にさえ響く声が。
「俺が怖いか?」
「ちがっ……」
「お前が誰だろうと、何を思って傍にいようと、どんなに俺を畏れようと、今更逃がす気はないぞ」
力を振り絞り無理矢理首だけ巡らすと、乱れた髪の間から私を見おろす王太子の顔が見えた。
表情はなく、青い瞳はガラス玉のように美しい。
『本能寺で終わることができたのは、幸いだったのかもしれないね』
唐突に秋山先生の言葉が浮かんでくる。
本能寺の変のあと、生き延びていたら。
その記憶を持ったまま、生きていたら。
織田信長は、その後、人を信じることができただろうか。
最後の最後、裏切られた記憶を抱えて?
ああ、忘れていた。
王子様はいつだって、危うい記憶を抱えて生きているのだ。
駄目だ、このままじゃヤンデレ覚醒してしまう!!
「――――、本能寺で信長を討った明智光秀は、中国から取って返してきた豊臣秀吉に処断されたといわれています。光秀の天下はわずか数日だったので、三日天下と揶揄されました」
意を決し、口を開いた。
できるだけはっきりと発音する。早口になってしまうのは、許してほしい。
でも、今の、織田信長に引っ張られているユージィン様に届くとしたら、これしかないはず。
「光秀……、を」
想像していたよりも、効果はあった。
そう信じて、私は信長亡き後の世界を語る。
「次に天下に手をかけたのは、光秀を討った豊臣秀吉でした。信長公が猿とか禿ネズミとか呼んでいた、農民あがりの、あの秀吉ですわ!」
織田信長については、ここのところの夢のおかげでけっこう詳しいつもりだけど、その後の日本史についてはかなりあやしい。それでも固有名詞を出したことで、王子様はひるんでいる。肩を抑える腕の力が緩んだのを逃さず、私はくるりと寝返りをうつ。
ようやく、まともに視線が合った。
息を吸って、呼吸を整え、すぐに続きを話し出す。
本当に伝えなければいけないことは、まだまだ、何百年も先の話だ。
「だけど、秀吉の死後、再び争いは起こりました。争ったのは、秀吉の重臣石田三成と、信長の盟友でもあった、徳川家康」
「家康……」
呆けたように繰り返す声から、触れれば切れるような鋭さは消えている。
私はかまわず畳みかけた。
「ふたつの軍が衝突したのは、関ケ原でした。勝ったのは徳川方。天下分け目の合戦だと、後世に語り継がれています」
「……」
「その後も豊臣と徳川の争いは続きましたが、大阪での2度の戦いで、結局豊臣家は滅ぼされてしまいました」
「では、天下を取ったのは……」
「徳川家康です。家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きました。これが、戦国の世の終わりと言われていますわ」
私を見詰めるユージィン様の目が、すうと細められた。
私を通して、何かを探るろうとする瞳。
だけど、あなたが望むものは、私のどこにもないのです。
「江戸幕府、徳川の時代は、その後……」
かろうじて覚えている年号から計算する。265年か、266年だったかな? ああ、もっと真面目に日本史を勉強しておけばよかった。
「その後、250年以上平和な時代を統治しました」
「250年……?」
数秒の沈黙のあと、理解が追いついたらしい青い瞳が、ゆっくりと瞬きをする。
そう、織田信長の時代に生きた人間ならば、知っているはずのない『歴史』。
ようやく私の話は、私の時代へと跳ぶ。明治維新も大正浪漫も昭和の大戦も、今は端折っても良いよね?
「私が生まれたのは、それからさらに100年以上後の世です。本能寺の変から、400年以上後の、未来です。織田信長と会ったことなんて、あるはずがありません!」
なるべく感情を抑えていたのに、最後はほとんど叫んでいた。
呼吸が速いのは、一気にしゃべったせいか、もがいて疲れたのか、それとも感情の高ぶりなのか。たぶん全部だよね、全然制御できない。
「……そんな突飛な話、にわかに信じられるとでも思うか?」
沈黙のあと、王子様の唇が、呆けたように動く。
言葉とは裏腹に、隠しようもなく浮かぶ迷いの色が私に勇気を与えてくれた。
「……この世界で、私たちが出会えたことのほうが、よほど突飛な話ですわ」
時代は違うけど、同じ国に生きていた記憶。
一生誰にも理解してはもらえず、一人で抱えて生き、死んでゆく覚悟はできていた。
それでよかったのだ。本当はそうあるべきだったとさえ思える。
「あなたは誰ですか?」
それでも、この記憶が私と王子様を近づけてくれた。
だから……、だからね、ユージィン様。
「……」
「記憶のこと、黙っていて……本当に申し訳ありません」
「アリア、」
「だけど、いま、ユージィン様の傍にいることを望んでいるのは私です。他の誰でもなく、ただのアリアですわ」
泣きだしてしまわないように、私はそこで息を継いだ。
―――― 私が愛しているのは、ユージィン様が、ユージィン様だからです。
織田信長という前世も、王太子という肩書も、今となってはどうでも良い。
ただ、その気持ちだけ。これからどんなことになろうと、それだけは伝えたいと決死の覚悟をしたというのに、言葉にはできなかった。
いえ、胸がいっぱいとかそういうことではなく、物理的に。
口を塞がれたのだ。
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