第44話 記憶はあれど術は無く
王妃様は外へは出ない。
日当たりの良い窓際のソファに腰掛けて、エヴァンジェリン様と3人で刺繍をしたけれど、決して窓を開けようとはしなかった。海風が身体に触るというのだ。
ここ2日ほど動いた疲れのためか、昼近いというのに、今日はまだお休みだという。
王子様も王女様も、少し心配そうだった。もちろん私もだ。
「日によって違うけど、春は特によくないんです」
紅茶のカップが空になると、エヴァンジェリン様はぽつりぽつりと王妃様の話をはじめた。
「外に出たり、窓を開けたりすると、具合が悪くなるのですわ。咳やくしゃみが止まらなくなったり、微熱が続いたり、一度倒れたときには、呼吸が苦しそうで、咽喉がひゅうひゅうと鳴っていました」
「まあ……」
怖い思いをしたのだろう、エヴァンジェリン様は少し怯えたように眉を顰めている。
それにしても咳、くしゃみ、微熱、呼吸困難……。
それって何かのアレルギーじゃないかな。
だけど、そう思いついても薬を出せるわけではないし、対処法だって外出時にはマスクをかけるとか換気したあとは水拭きをするとか、そのくらいのことしか言えない。せっかく医療が発達した世界の記憶があるのに、役にたつ専門知識があるわけでもない。これまでの人生でも何度かあったけれど、こういうときはもどかしいし情けない。この情けなさとは、たぶん一生付き合うことになるんだろう。なにせこの世界の人生で最高に役立ってくれた『前世の記憶』のは花札の絵柄だもの……、前世の私ってホント何もできなかったんだな、と時々反省はする。
だけど今更だ。
今は王妃様の症状をなるべくやわらげて差し上げたい。この季節のアレルギーならやっぱり花粉かな? そういえばミキは花粉症だったっけ。中途半端な知識をどう伝えればいいか考えながら、私は話を続けた。
「風に乗って、王妃様の身体に障る何かが飛んでいるのかもしれません」
「え? でも、ここに住んでいる者は、皆平気ですよ」
「私の田舎では、糸杉に近づくとくしゃみが止まらなくなる友達がいました」
本当は『友達』は前世のクラスメイトだ。アレルギー体質の子はけっこういたけれど、ミキはけっこう重症だった。小さいころアレルギーで気道が炎症を起こしたという話が、ふわっと浮かびあがってくる。呼吸困難って、その状態じゃないかな。
「糸杉?」
「他の子は皆平気なのに、その子だけくしゃみが出て、具合が悪くなるんです。悪くなるのは決まって春なので、花粉が良くないのかもしれないと、この時期はなるべく糸杉に近づかないように気を付けていました」
「よくなったのですか?」
「ええ。くしゃみは止まりました」
「そんなことがあるのですね」
「なにせ、田舎ですから。ほとんどの人には無害なものが、人によっては毒になることもあると、お医者様は言っていましたわ。お妃さまのご病状は、私の友達によく似ています」
「ええ、春先が一番悪いのです。糸杉はこの辺りにもたくさんありますし……、花が咲いているのは、知りませんでしたけれど」
「お身体に障るのが花粉だとしたら、窓を開けた後は念入りに床の水拭きをすると良いかもしれません。外出後は着替えをして、できればお風呂に入るとか。あとは、布で口と鼻を覆うマスクを作ってみたらどうでしょう」
「まあ、口と鼻を? お医者様がするようなマスクということですか?」
王女様は目を丸くする。
無理もない、この世界でマスクといえば、どちらかというと仮面舞踏会の仮面だもんね。
お医者様だって、流行り病の患者を診察するときくらいしか『マスク』はかけない。
「ええ、そうです。王妃様の御身体に障るような何かが風に乗って飛んでいるなら、身体に入らないようにするしかありませんもの」
「そうですわね。私からもお医者様にお話してみますわ」
藁にも縋りたい思いなのだろう、エヴァンジェリン様は私のあやしげな進言に大きく頷いてくれた。とたんに不安になる私は、やっぱり小心者だ。
「思いつきですから、あまり期待はしないで下さいね」
「まあ、ご心配には及びませんわ。お母様の御身体が楽になる可能性があるならどんなことでも試してみるというのが、王家の方針なのです」
そう言って、王女様ははにかんだように笑う。
ああ、アシュトリアの天使の二つ名は伊達じゃない。今すぐ抱き締めたい衝動をどうにか抑え、私はにっこり笑みを返してみせた。
ああ、今は自分の自制心を褒めてあげたい。
私が内なる衝動と小競り合いを繰り広げている隙に、エヴァンジェリン様はついと窓の外に視線を移した。窓の外には、凪いだ海が広がっている。
「あの、アリア様」
「はい」
「せっかくだから、今日は海へ行きませんか?」
「海に?」
「お母様は夕方まで起きてこないと思います。せっかく天気が良いのですもの、海岸へ行ってみたいと思って」
エヴァンジェリン様がそう提案したとき、はかったようなタイミングで前触れなくドアが開いた。ノックがないから、王子様だとすぐにわかる。ある意味わかりやすい。
「ここにいたのか。アリア、出かけるぞ」
あいかわらずの唐突さにももう慣れっこなので、私はおっとりと首を傾げてみせた。
「まあ、どこへですか?」
「海だ」
得意げなユージィン様を数秒眺め、私とエヴァンジェリン様は思わず顔を見合わせる。丁度良かった、王子様も一緒にいらしてくれるなら安心だ。
奇跡的なタイミングの良さに免じて、ノックが無かったことは不問にしておきますわ。
夕食になってようやく姿を見せた王妃様は、思ったよりお元気そうだった。生まれてはじめて浜辺で砂遊びをした王女様のはしゃぐ声に、相槌を打つ笑顔も楽し気だ。傍で見守る王子様も、どうやらひと安心したらしい。
デザートの皿が下げられると、ユージィン様はいつも通り、唐突に切り出した。
「母上」
「なんですか、ユージィン」
「我々は、明日王都へ帰るつもりです」
我々って誰!?
もちろん何もきいていない。
王子様に連れて来ていただいている身だから、日程に口を挟める立場ではない私はともかくとして、エヴァンジェリン様も寝耳に水だったご様子だ。
「まあ、聞いていませんわ!」
「エヴァが滞在を延ばすなら、護衛は置いていこう。俺はそうそう王都を空けておくわけにはいかないからな」
おお、王子様が王子様みたいなことを言っている!
思わず感心したのは私だけではなかったらしい。
「驚いた。まるで王太子のようね、ユージィン」
王妃様の声は、からかい半分、本気半分だ。
本気が半分も含まれているあたり、今までの行いが窺われますわ。
「割と前から王太子です、母上」
ものともせず唇の端を上げて不遜に笑うと、ユージィン様は真顔になった。
「さておき、婚約発表は来月の朔日。日程に余裕があるわけではありません。アリアには準備があるし、母上にも体調を整えていただかなくては」
「そうねえ。少し張り切ったせいか、今朝は身体が重くて起き上がれなかったわ」
「ふだん屋敷に籠り切りだからでしょう。少しは身体を動かさないと、どんどん弱る」
「お医者様のようなことを言うのね」
言葉とは裏腹に王妃様はにっこりと微笑んだ。
「母上に、是非とも元気になって貰わなくては」
「ありがとう、ユージィン」
エヴァンジェリン様を見ると、小さな王女様は少しうつむき加減で何かを考えている。急に帰ることになったのだから無理もない。王妃様と刺繍をご一緒して、あんなに楽しそうだったんだもの。
「お母様、お兄様」
「なにかしら、エヴァンジェリン」
やがて顔を上げた王女様は、まっすぐに王妃様を見た。
「私はもうしばらく、ここに留まりたいと思います」
「あら、良いのですか?」
「はい。クロスの刺繍ももう少しで完成しますし」
エヴァンジェリン様が、私の顔をちらりと見た。
「それに、お母様がお元気になるよう、一緒に過ごしたいのです」
ああ、ひょっとしたらお昼に話したアレルギー対策を実践するおつもりなのかな?
王妃様の不調が本当にアレルギーに因るものなら、症状はかなり重い。呼吸困難はあれだ、なんだっけ……アレルギーって、ひどくなると何とかいうショック症状を起こすことがあったよね。出てこないのが情けないけど、このさい名称は関係ないか。
くれぐれも無理だけはしないように、もう一度助言はしておこう。
「まあ、嬉しいわ。では、そのようにはからいましょう。陛下には私から手紙でお知らせします。良いかしら、ユージィン」
「二人が決めたことなら、俺に異論はありません」
王子の視線が私に移動してきた。
「アリアも、それで良いか?」
「はい」
事後承諾だとしても、ちゃんと確認してくれた。王子様はきっと、少しずつ変わってきている。できれば先に相談してほしいと思ってしまうのは、過ぎたわがままなのだろう。
ふと視線を感じて顔をあげると、こちらを見ていた王妃様が少し困ったように微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます