第35話 最後の逃亡

 乱暴に開かれたドアは全開だ。背の高い人影が部屋を見回し、私を見つける。


「……見つけたぞ、アリア」

「…ひっ、」


 心臓が止まるかと思った。ていうか、確実に数秒、止まっていたと思う。

 現れたのは、見まごうことなく我が国の第一王子、ユージィン・パドゥラ・アシュトリア様だ。しかし顔が怖い。表情は乏しいのに、目だけがぎらぎら光ってこちらを睨んでいる。第六天魔王の異名は伊達じゃない…まぁ、前世の異名ですけどね。


「こんな片田舎までご足労頂き光栄です、殿下」


 私が述べるべき口上を、アルが肩代わりしてくれた。なるべく眼光を浴びないように、アルの影に隠れる自分が情けない。でも動けない。ていうか、もうアルにしがみついていないと立っていられない。なんで、どうして、王子様がここにいるの?アルが受け答えをしているということは、幻じゃないんだよね?

 つか、あのは殺る気満々な目つきはなんなの!?


「貴様を訪ねてきたわけじゃない。どけ」


 押し殺した低い声が空気を震わせる。しかしアルは空気の振動なぞものともせず、王子の前に立ちはだかった。すごいわ、アル。やっぱり私の従者は優秀で、幼馴染は勇敢だ。


「どきません。殿下といえど、取り次ぎもなしに未婚の女性を訪ねてくるのは、少しばかり行き過ぎた行為ではありませんか?」

「使用人のくせに主の娘と茶を飲むのは行き過ぎではないのか?」


 視線がテーブルの上の二つのカップをチラリと舐め、王子の声が一段と低くなる。


「今は使用人ではなく、友人として接することを許されています」

「ごたくは良いから、そいつから離れろ。俺はアリアに話がある」


 話?

 何をいまさら話すっていうの?


「だ、そうですが、……お嬢様?」

「アリア」


 王子が一歩こちらに近づく。

 怖い、無駄に綺麗な顔が怖い。頭の中が真っ白になった。駄目だ、もう会っては駄目なんだ。話しては駄目。王子様はもうじきジュリエッタ様と婚約するのだ。宰相に釘を刺されて、私は逃げてきた。王子だって、順当な人選だとあっさり納得してたじゃん!


「こ、こっちに来ないで下さい!」

「……アリア」

「何を話しにいらしたか存じませんけが、私には何もお話することはございませんからっ」


 私はアルにしがみついていた手を離して、じりじりと後ずさった。


『いざとなったら、裏の森に逃げて下さい』


 アルが目だけを動かして小さく頷く。

 近づいてくるユージィン王子の靴のつま先を見た瞬間、どこかのタガがはずれそうになった。泣いてしまいそう。なんだろう、怖いのかな。


「落ち着け。意味がわからん」

「意味がわからないのはこっちです!」


 尊大で気まぐれだと思えば妙に人なつっこい。わかっている。そんな王子様の興味を惹いていたのは『私』ではなく『私』のなかの前世の記憶。全部を打ち明けなくても、ユージィン様は鋭く察していた。この国に生きる田舎貴族の娘なんて、最初から彼の視界に入るはずが無い。

 なのに私は甘えてしまった。だってこの国の王子様で、前世は織田信長だよ。そんなヒトと親しくなれて、やっぱり嬉しかったのだ。特別扱いされたような気がして、いい気になって舞い上がって。だからあのとき、あっさりジュリエッタ様との婚約を認められたあの時、私は勝手にショックを受けた。逃げだしてしまった。恨んでしまった。王子の顔なんて、もう2度とみたくないって、泣いてしまった。


 ああ、今なら明智光秀の気持ちもわかる気がする!!


「これまでの非礼については、心からお詫び致しますわ」


 せいいっぱいの虚勢で、王子様を睨みつける。

 驚いた顔で、王子様は私を見ている。

 おねがい、どうか震えませんように。ちゃんと別れを言えますように。


「どうかご多幸を。遠くから祈っておりますわ……さようなら、王子様!」


 光秀ほどの野望も度胸も執着も持っていない私の選択肢はあいかわらずひとつ、逃げるが勝ちだ。私は素早く窓枠を飛び越えた。きっとアルが時間を稼いでくれるだろう。無理はしないでねと祈りながら、まっすぐ裏庭を突っ切り、生け垣の抜け穴から森へと抜ける。とにかく、逃げる、逃げ切ってみせよう。卑怯者でも良い、もうこれ以上みっともないところを見られたくはない。

 駆けていく。子供のころから毎日のように遊んだ森。ここは私の庭、いかに体力差があろうと負ける気はしない。





 転がるように森を駆ける。

 ようやく生えそろった下草は柔らかく、木々の枝には花が咲き、長い冬から目覚めた生き物たちが一斉に動きだしている。それぞれの生を謳歌する春の森。


 そんな素敵な景色に目もくれず、私はただ慣れた木立を駆け抜けていく。

 抜け穴をくぐったときにドレスの裾を破いてしまったけど、かまっている暇はない。

 池へと続くルートをあらかじめ迂回し、ぐるりと外周を回って奥へと進む。低木の繁みをすり抜けてさらにしばらく行くと、ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。森が深くなり、見上げるような巨木が並ぶ。私は記憶をたどりながら、一本の大木に目星をつけて近づいた。


「あった……」


 幼いころ、道に迷って潜り込んだ大きな木の洞。

 子供のころは、私の『秘密の部屋』だった。近所の友達と、こっそりお茶会をした場所だ。

 ずいぶん久しぶりだというのに、あのころと変わらない。

 だんだん雨が強くなってきていたので、私は転がるように『秘密の部屋』に潜り込んだ。


「は、もう……」


 最悪かも。

 ていうかこれは現実?

 どこかでひっかけたのか、むこうずねに大きな擦り傷ができていた。今更になってひりひり痛む。洞の入り口は地面よりも少し盛り上がっているので、雨水が流れ込んでくる心配は今のところなさそうだ。どのくらいここにいれば、やりすごせるかな。気候は温かくなってきたとはいえ、まだまだ夜は冷えるもの。雨も降っているし、下手をすると凍えるかもしれない。いやっ、近所の森で凍死とか笑えない。

 私は膝を抱えて丸くなった。


「どうしよう」


 声に出しても、誰も答えてはくれない。

 だいたい、ユージィン様は何しに来たんだ?なんであんなに怒っているわけ?思い出しただけで体がぶるぶる震えた。確かに帰郷は急だったけど、手紙は置いて来たし、一応の礼は尽くしたつもりだ。王子だって、婚約ともなればますます忙しくなるだろう。にもかかわらず王子様自らこんな田舎まで来た理由……、うん、ひとつしか思いつかない。


 エヴァンジェリン様だ。


 王子様が溺愛する、天使のような妹君。動転していたとはいえ、エヴァンジェリン様との約束を破るかたちになってしまった。一度引き受けたからには、せめて王女様にだけは、直接事情を話して、謝ってから帰るべきだった。大事な妹君との約束を反故にしたのだ、ユージィン様の怒りも納得できる。


 あれ、まずい。

 私が悪いのかな、これ。

 いや、私が悪いよね。


 謝らなきゃ……だけど、あんな怖い顔しなくてもよくない?

 あんなふうに睨まれたら、熊だってはだしで逃げ出すと思うの。

 そういえば、春先には冬眠から覚めたばかりの動物たちがお腹を空かせているから、気を付けないとなあ……、なんてまたもや現実から目を逸らした瞬間、どこかでガサリと低木をかき分ける音がした。

 どくんっと心臓が跳ねる。

 音でわかる、あきらかに小動物ではない。もっと大きななにかが近くにいる。最悪、熊だったらどうしよう。私はなるべく人の匂いを拡散しないよう両手で口を押え、さらにぎゅうっと小さく丸くなった。もしも熊だったら、見つかったら終わりだ。イノシシもやばい。死んだふりは都市伝説だというし、逃げ場がないじゃん!


 すっごく焦っているというのに、森で熊さんに出会う曲の楽し気なメロディーが、頭の中で脈絡もなく流れ出した。




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