第36話 雨に囚われる

 水気を帯びた物音がだんだん近づいてくる。


 ひょっとしたら誰かが私を探しに来たのかも……?

 一瞬浮かんだ楽観的な想像は脳内BGMの効果かもしれない。穴から顔を出してみようかと考えて、すぐに思い直した。普通、人が人を探している時は名前くらい呼ぶだろう。しかし、物音の主は無言だ。繁みをかき分けるような音と、ぬかるんだ地面を移動する鈍い音だけが、ぐるぐると迷いながら少しずつ近づいてきている。

 ……これ、けっこうホラーじゃない?

 ひょっとしたら、絶体絶命のピンチではなかろうか。何か武器、投げるもの。手だけで地面を探るけれど、枯葉と小枝と石くらいしか落ちていない。手の届く範囲で一番大きな胡桃大の石を握りしめ、私はその時を待った。先手必勝、狙うのは眉間だ。びっくりして逃げてくれれば良し、怒って襲われたら……、うん、熊って確か雑食だから、……あああ!

 パニック寸前、私の神経は研ぎ澄まされている。近づいて来たなにかが、すぐ傍で立ち止まる気配。私は汗と湿気でじっとりした小石を投げるべく、身構えた。

 黒い影がぬっと現れ、外からこちらを覗く。


「きゃああぁっ」

「イテっ」


 やみくもに投げた小石は、どこかに命中したらしい。

 イテって聞こえたもの、当たったってことだよね。

 ……え、喋った?

 てことは、熊では、ない?

 おそるおそる顔をあげると、熊よりも恐ろしい顔がこちらを覗き込んでいた。目があったら殺される。私は慌てて顔を伏せ、殺人ビームを浴びないように防御した。


「見つけたぞ、アリア」


 怖っ!

 逃げたい。

 というか、石を投げてしまった。

 どこかに当たったのは間違いよね……、怪我はなかっただろうか。

 ああ…自国の王子に石を投げるなんて、これでもう処刑されても文句は言えないかも。

 私は途切れそうな息に、素直な疑問を乗せて吐きだした。


「……どうして、ここに」

「それはこっちの台詞だ。どうしてこんなところでうずくまっているのか、まったく意味がわからん」

「隠れているんです」

「泥だらけだな」

「そっちこそ」


 くそう、悔しいけど王子様は泥だらけでも麗しい。

 雨が降っているんだから、屋敷でじっとしていればいいのに。

 私は身体を丸めて膝小僧に顔を埋めた。どろんこで泣いている顔なんて見られたくない!

 パタパタパタ、と雨音がしばらく響く。


「……どうして逃げた?」

「逃げてません。戦略的撤退です」

「理由を言え。どうして突然王都を離れたのか、あんな手紙じゃ納得できん」

「ユージィン様には関係ありませんわ」

「お前な」


 しゃがんだのだろう、ユージィン様の声が近くなった。私はますます頑なに、丸くなる。


「俺がどれだけエヴァにちくちくいじめられたか、教えてやろうか?」


 エヴァンジェリン様……、いったい何をなさったのでしょう。

 愛らしい懐かしい大好きな、小さな王女様。ああ、会いたいなあ。あのクロスの刺繍は、ちゃんと進んでいるのかしら。私の心が動いたことを察したのか、王子様の声がわずかに柔らかくなった。


「宰相の件は、後から聞いた。その、……お前が嫌な思いをしたなら謝る。俺の配慮が足りなかった」


 配慮が足りない……、王子様の口からそんな言葉が出るなんて!

 泣いているのに、笑っちゃいそうだ。

 いや、ダメダメ、顔は上げないから。


「わかっているなら、帰って下さい。これ以上宰相に睨まれたら、うちの伯爵家なんてひねりつぶされます」

「そんなことにはならん。俺がさせないから、安心しろ」


 バッカじゃないの。

 王子がそういうことを言うほど、余計なヘイトが集まるんじゃないか。

 どんなに言われても、今の私には王都へ戻る勇気はない。いくじなしの自覚はある。ジュリエッタ様のことは心から敬愛しているけれど、ユージィン様とジュリエッタ様のご婚約でお祝いムードの王都なんて、とても平常心では過ごせない。どう伝えたらいいんだろう。


「……ジュリエッタ様は、私たちのあこがれなんです」

「ジュリエッタ?」

「だから、私みたいなのが王子の周りをうろちょろしてちゃダメなんです」

「ジュリエッタとは、きちんと話をしたぞ。あれは父親と違って、なかなか面白い女だ」


 そうでしょうとも。だからはやく帰れ!ここに来ていること自体まずい気がします。


「だが、婚約は取りやめだ。断られた」

「……は?」


 あやうく顔を上げてしまいそうになった。

 その手には乗らない、乗らないぞ。けど、いったい何を話したら一度は陛下にまで報告した婚約を断られるんだろう。


「ジュリエッタなら家柄も能力も申し分ない。だから、王妃になってほしいと頼んだ。王妃になれば、一生尊敬と親愛をもって、大切にすると」


 それを世間ではプロポーズと呼ぶのです。

 王子にしては気の利いた台詞だとも思える。なのに断られたって、どうして?


「しかし、ジュリエッタを女性として愛することはできん。俺の心は、俺のものだ。それだけは許してくれと、そう伝えた」

「はあ?」


 意味がわからん!

 それはあれですか、ジュリエッタ様に形だけの王妃になれと?

 そんな失礼な話、ある?


「バカなんですか!?」

「そうだな、ジュリエッタもそう言って大笑いしていたぞ」

「大笑い……」

「それで、話が決まりかけたところで、お前が逃げた」


 ええ? その流れで話が決まりかけたって、どういうこと?

 私が逃げ出したことがどこに繋がっているのか、見えてこない。言うべきことが何もないので、私は丸まったまま王子様の言葉を待つ。


「ことが済んだらお前にも説明するつもりだったんだが、ジュリエッタはどうしてアリアに先に話をしておかなかったのかと激怒してな……ついでに言うと、エヴァも臍を曲げている。口も利かない、目も合わせない、俺のことを完全無視だ。お前のせいだぞ」


 私が逃げたせいで?

 そっか……私のせいなのか。じゃあ、怒られても仕方ないのかもしれない。

 え、でも、なんか話がおかしくない?


「しかし、ジュリエッタはなかなかの器だな。美人だし、度胸もある。惜しいことをした」

「その通りです。さあ、はやく王都へ戻って謝って下さい、まだ間に合いますわ! こんなところで何をやってるんですか、何を」

「うるさい。だから、お前のせいだと言っている」


 あ、今あきらかにムっとした。

 どんどん機嫌が悪くなっていくのが空気で伝わってくる。さすが殿下、わかりやすい。


「アリア、そこから出て来い。帰ろう」

「…………いや、です」


 絞り出した私の声のあと、長い沈黙。

 指先が小刻みに震えるくらい怖くて、立ち上がるなんて到底無理だ。


「わかった、もういい」


 ようやく返ってきたのは氷のような声だった。

 ああ、嫌われちゃった。だけどそれも覚悟の上、素早く頭を切り替える。どうかはやくお帰り下さい。今度こそさようなら王子様、お元気で。私は尼寺へでも参ります。

 王子様が帰ってくれたら思い切り泣くんだから、はやく行ってよ!


「どけ」

「え?」

「そちらに詰めろと言っている」


 私の願いとは裏腹に、ユージィン様は隠れ家に侵入してきた。

 ちょ、狭いからやめて!ぎゅうぎゅうになる、ぎゅうぎゅうに……っ!

 もちろん立ったままは無理なので、ユージィン様はどうにかこうにか身体を折り曲げて、私の隣に収まった。無駄に長い脚が窮屈そうだ。

 笑える……いや、今は笑えないけどさ。


「だいたい、一国の王子をいつまで濡れ鼠で放っておく気だ」

「だから帰って下さいと、何度も」

「本当に頭にくる女だな」


 う。

 これ、相当怒ってるな。

 いよいよ私も終わりだろうか。お父様には絶縁していただこう。

 今後の身の振り方を考え始めた私の真上から、この上なく尊大な声が告げる。


「いいから、顔を上げろ」


 はは~!

 ……という空耳が聞こえたような気がした。これって、逆らえない系の台詞じゃない?

 くそう、仕方ない。仕方ないけど、嫌だ。仕方ないけど、きっと顔を見られたら、虚勢なんてたちまち見破られてしまう。

 頑張れ、私。ちゃんと王子を見て、とりあえずごめんなさいで、帰って下さい、だ。

 ……よし。


「ユージィン、様」

「……」


 だけど顔を上げ、王子と目が合った瞬間、私は何も言えなくなった。

 いえ、胸がいっぱいとかそういうことではなく、物理的に。

 口を塞がれたのだ。





 幼いころ、同じようなことがあった。森で迷って、私はここで泣いていた。見つけてくれたのは、お父様かお兄様か、それともアルだっけ。

 あの時はキスはされなかった。ただ抱きしめられただけで。


 ……なんてことをのんびり思い出している場合ではない。


「んっ」


 息、息が苦しい。

 しかしユージィン殿下は離れてくれる気は全然無いようだ。角度が変わり口の中に王子の舌が入ってきてようやく、私はことの重大さに気付いた。


「おう、じ、ふっ」


 喋ろうとしたらさらに侵入されました!

 どこを舐めているんだ、どこを。言っておくけど、私はファーストキスなんだからね!

 かろうじて自由な左手でユージィン様の金髪を掴み、思い切り引っ張る。当然の正当防衛だと思うの。


「いっ、お前な……」

「なななな、何を」

「ふん」

「ふん、じゃない!何するんですか!」

「面倒だ。ここで既成事実を作って、お前を連れて帰る」

「既成事実!?」

「まあ、こう狭いというのも悪くない」


 なにその発言!一国の王子でしょう。実は隠れて遊び放題なの?そうでなければどうしてこう、色々手慣れているんでしょうか。こら、ヘンなところを触らない!


「なっなんてことを……」

「一応言っておくが、こんな無体はしたことないぞ……この世界では」


 あ、そっか。

 この人、前世は戦国時代だった。信長様はいろいろアレそうだもん、妻は10人以上だし……じゃなくて!


「はっ、離してください」

「駄目だ」

「お願い、しますから」


 また涙が出てきそう。もう駄目だ、泣いていい?

 私がへにょりと情けない顔をしたせいか、ユージィン様は眉を顰めて小さく舌打ちをした。

 ええ、この場面で舌打ちってあり?


「くそ、泣きたいのはこっちだぞ」

「絶対違います」

「少しは俺の話を聞け。どうしてこう頑固なんだ」

「ユージィン様に言われたくありません!自分勝手だし、時間守らないし、デリカシーは無いし、スケベだし!」

「うるさい。いいから、黙って俺のものになれ」

「意味がわかりません」

「愛していると言っている」


 言い切られて、息が止まった。

 息は止まったけれど、代わりに涙が溢れてきた。

 どうしよう。私は愛していませんって言って、ごめんなさいで、帰って下さい、かな。きっとそれが正しい。


「ユージィンさま、わたし、は」

「聞かん。お前にとっては、ただ同じ前世を持つ仲間かもしれんが、俺は違う。お前を愛している。お前がいない時間の長さを、これ以上耐えられる気がしない」


 何なの、ここに来てその殺し文句。

 駄目だ、私はただの小娘だ。

 王子様とは器が違う。

 でもひとつだけ、相手を想う気持ちは同じだと信じてもいいのだろうか。

 ぱたぱたぱた、と雨粒が大きな音をたてて地面を叩く。


 どう表現しても足りない気がして、応える言葉を探しながら顔を上げると、青い瞳に私の姿が囚われていた。


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