第32話 逃ぐるに如かず
宰相が出ていった後、情けないことに私は何度も針で指をついた。隣でエヴァンジェリン王女が心配してくれているのをわかっていても、ちっともしゃんとできなかった。ジュリエッタ様が承知したというのなら、家柄、能力ともに理想の王太子妃だ。王子とご婚約されるとなれば、こんなにめでたいことはない。
だけどその場合、私の立場はちょっと微妙になる。舞踏会の一件や、王女と頻繁に会っている事実から、ユージィン殿下の結婚相手として私の名前が噂されているからだ。モニカやお父様の話から推測すると、かなり広まっているのだろう。宰相自ら、わざわざ釘を刺しに来たのが何よりの証拠だ。
てことは、どうなるんだ?
私、ここに居たらまずいんじゃない?
王子に会わずに帰ったほうがいいんじゃない?
宰相はまた来るって言っていたもの、さっさと帰らないと本格的に抹殺される!
まわらない頭でようやくそう思い至って、王女様にどう暇を告げようか考え始めた時だ。
「待たせたな、アリア」
タイミング悪く、くだんの王子が何食わぬ顔で現れた。
待たせたなですって? いいえ、待ってなどいませんわ。
顔を見てしまったからには、事情を聞いたほうがいいだろうか。ていうか、今後の身の振り方を考えなきゃいけないし、聞かないとダメだよね……。
しかし私が意を決して口を開く前に、隣に座っていたエヴァンジェリン王女がぴょんと立ち上がった。
「お兄様!」
「ああ、エヴァ、今戻った」
「お兄様、ジュリエッタ様とのご婚約が決まったというのは本当ですの!?」
「なんだ、耳が早いな。話がついたのは今朝のことだぞ」
「本当かと伺っているのです」
文字通り、可愛い妹に詰め寄られて王子は困ったように私を見た。
いや、どちらかというと、困ってるのは私のほうだから。全然思考がまわらなくて、王子から目を逸らす。
「まあ、そうなるだろう」
お天気の話をするような調子で、王子は妹君の質問にそう答えた。
「宰相の娘なら、家柄的にも釣りあいが取れるからな」
「お兄様!」
よーし、落ち着こう、私。
深呼吸をして針を止め、手早く道具箱を片付ける。エヴァンジェリン様の困惑しきった様子が、逆に私の平常心を繋いでくれていた。
「エヴァンジェリン姫、刺繍はここまでに致しましょう」
「アリア様……」
そんな顔をしなくても、大丈夫。
大丈夫です、王女様。
でも、何が大丈夫なんだろう。なるべく何も考えないようにして、私は王子に向き直った。
「ユージィン様、先ほど宰相がお見えになりましたわ」
「宰相が?何の用だ?」
「王子と大切なお話があるとか。ですから私、今日はこれで失礼いたします」
そう宣言すると、王子は何故か不満そうに唇をへの字にした。
……なんだよ、その顔は!
誰のせいだと思っているんだ……はあ、もう、わけがわからない。考えたら負けだ。
「それは、帰ると言うことか?」
「はい」
「久しぶりに、仕事を切り上げてきたんだぞ」
「ええ、そう伺っています」
「南方から取り寄せた布地がある。見ていかないのか?」
見たいです。
だけど、布地はもちろん見たいけど、どういうわけかそれどころじゃないの。
このままここに居たら、きっとみっともないことになっちゃう。そうよアリア、しっかりしなさい。想像しなさい。宰相がもういちどここに来たとき、私が何食わぬ顔で居座っていたら、ましてや王子と呑気に布地なんて眺めていようものなら、警告くらいじゃ済まなくなるかもしれない。私だけの問題ではない、お父様はもちろん、領地を守っているお兄様の今後にもかかわる。
「宰相にもご迷惑になりますもの。これ以上、お邪魔はできません」
「アリア様……」
心配そうに私を見上げるアシュトリアの天使様に、私はにっこり笑ってみせた。
「ユージィン様、布地の件は、心から感謝しております。色々と落ち着いたころに拝見したいと存じますわ」
「俺は落ち着いているぞ」
「ご冗談を」
「……どういう意味だ?」
私の言葉を普段の軽口だと受け止めたのか、ユージィン様が少しだけほっとしたように口元を緩めた。
そう、いつもの私、いつもの私です。
せいいっぱいのハリボテで、私は落ち着き払ってお別れの言葉を口にした。
「ではユージィン様、エヴァンジェリン様、ごきげんよう」
馬車に乗りこんで、ようやく私は大きくため息をついた。
ごちゃごちゃした感情も、アルの呑気な顔を10秒ほど眺めていたら落ち着いてきたみたい。
「今日はずいぶん早いお帰りでしたね、アリア様」
「あら、ビアンカさんと話し足りなかった?」
「いや、今仲が良いのはテレーゼです。……ていうか、何かありましたね?」
断定か。
さすがアル、付き合いが長いだけのことはある。
でも、テレーゼって誰? ビアンカちゃんは? ったく、これだから男ってやつは!
「……王子が婚約するの」
ストレートに言葉にすると、アルは軽く目を見開いてみせた。
「は? お嬢様とですか?」
「そんなわけないでしょ! ジュリエッタ様よ、ジュリエッタ様」
「ああ、『赤薔薇の君』ですか」
「そう」
頷いて肯定すると、アルフォンソは瞬き二回分だけ沈黙する。どうやら相当びっくりしたみたいだ。従者モードのときには、ほとんど隙をみせないのに、珍しい。
「……良く受けましたね。ずっと王子を避けていたという話でしょう?」
「ええ、そうね」
「やっぱり王太子が働き者になったから……ですか。そういう即物的なタイプには見えませんでしたが」
「ジュリエッタ様のお気持ちはわからないけど、宰相が乗り気なのは間違いないわ。今日わざわざ私のところに釘を刺しに来たんだもの」
「え、宰相が?」
「そう、宰相が」
「……そりゃ、よほどお嬢様が目障りってことですね」
身もふたもないけれど、その通りだ。
可愛い娘と結婚しようという相手が、妙な田舎娘と仲良くしていたらどんな父親だって面白くはないだろう。相手が一国の王子ならなおさらだ。さらに悪いことに、私は王女たるエヴァンジェリン様と一緒にいるところを抑えられた。
宰相から見たら、アリア・リラ・マテラフィは王子の妹君にまで取り入っている図々しい田舎娘だ。うわあ、排除されても仕方ないんじゃない?
こういう時は、アレだ。
アレしかない。
「アル」
「はい」
「領地へ帰ります」
「……」
「あら、驚かないの?」
「いえ、まあ、予想通りというか……」
「わかってくれているなら良いわ。屋敷に戻ったら、すぐに支度して」
三十六計逃ぐるに如かず。
これ以上王都にいても、何も良いことはない。私だけならともかく、家族に迷惑をかけることになったらどうしよう。もう、手遅れかもしれないけど……。
「明日の朝……、いえ、今夜には出発したいわ」
「お嬢様がそう仰るなら、努力します」
努力なんて言ってる場合ではない。
今はただ、一刻もはやく王都から離れたいと、私はそればかり考えていた。
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