第31話 昼下がりの襲来
クロスの刺繍は、順調に進んでいる。
「昨晩、久しぶりにお兄様と夕食をご一緒しましたの」
久しぶり、というのはどのくらいなんだろう。
思わず作業の手を止めて顔を上げると、悪戯っぽく笑うエヴァンジェリン様と目が合った。
「それで、ようやく先週の遠乗りのお話を聞くことができました。アリア様、釣りがお上手だそうですね?」
「まさか、普通ですわ」
遠乗りの話って、もうけっこう日にちが経過していますよ? それにしても王子と王女で釣りの話とか、ちょっと可笑しい。
「アリア様のほうが一匹多く釣ったのでしょう? お兄様ったら、本気で悔しがっていました」
「ええっ、たまたまです」
「次は負けないと嘯いていたから、きっと近いうちにお誘いがありますわ」
お姫様がクスクスと笑う。
エヴァンジェリン様はすっかり慣れた様子で、今ではちくちく針を動かしながらのお喋りも自由自在だ。縫い目も見違えるほど綺麗になって、既に私が教えることはなにもない。つまり、ただお喋りをしながら刺繍をするという、ありがちな光景となっている。
「そうそう、今日はお兄様から伝言がありますの」
「伝言?」
王子様は本当に忙しいらしく、遠乗り以来顔を合わせていない。教会への寄付のお礼と、花束のお礼もまだ直接は伝えていない。はやく会わないと忘れそうだ。ていうか、クロスが出来上がったら領地へ戻るという話もしなきゃいけないし、王子様の話が出た今がチャンスかもしれない。エヴァンジェリン様に切り出してみようかな?
そんなふうに迷っている間にも、王女様の話は続いた。
「なんでも、南方の珍しい布地が手に入ったとか。今日はお兄様がお戻りになるまでここで待っているように、とのことです」
「まあ、布地ですか」
「以前から、出入りの商人に頼んでおりましたの。お兄様にしては気が利いているでしょ?」
うふふ、といたずらっぽく笑うエヴァンジェリン様、マジ天使!
だけど口ぶりからしてイマイチ誤解が解けていない予感がしますわ。よし、今日ご兄妹が揃ったら、領地へ帰る話をしよう。絶対にしよう。二人きりより、三人のほうが少しは何かが拡散される気がする。
それにしても、南方の布地……前に市場で見た和風の織だと嬉しいな。このところばたばたしていて、市場にも行けていない。あの行商人のおばさん、まだ店を出しているかしら。
「アリア様をお待たせしているのですもの、今日はきっと急いでお戻りになります」
「まあ、……お疲れでないと良いのですけど」
「お兄様は、好きで働いていますのよ。なにもかも自分で手を出さないと気が済まないのですもの」
そういえば、ユージィン様ご自身もそんなことを言っていた。
うぅーん、王子様の下で働く人は大変だ……、元・織田信長のスイッチが入ってしまったとしたら私にも責任の一端がある、かも。
「お父様は手放しで喜んでおられますし、最近は宰相ともよく政の相談をしているご様子です。これでお兄様の代になっても国は大丈夫だと、大臣たちも安堵しているとか」
「ええ、ユージィン様はきっと名君になられます」
なにせ前世は織田信長。できる王様にならないわけがない。
お兄様が褒められることがよほど嬉しいのか、エヴァンジェリン様は頬を赤らめて何度も頷いた。王女様が嬉しいなら私も嬉しい。思えば妙な縁だったけれど、少しでも良い方向に変化したなら悪くはなかったと思える。
「あの、アリア様?」
「何でしょう」
「以前にもお話したかもしれないのですけど……」
エヴァンジェリン王女が何かを言い淀んだその時、ごく控えめなノックの音がした。この音は、少なくともユージィン様ではない。そもそも王子様はノックをしないか。
「あら、何かしら」
「エヴァンジェリン様、失礼いたします」
既に顔なじみの無口な侍女が、まずは王女に頭を下げ、次に私に軽く会釈した。
「お話中、申し訳ございません。王女にお客様がお見えです」
「お客様?誰?」
「ファビオ・ベアルツォート様が、是非王女にお会いしたいと……」
「まあ、宰相が?」
どうしましょう、と王女に目顔で問われ、私は小さく頷いた。
「では、私は席をはずします」
「いえ、ベアルツォート様はその必要はないとおっしゃって……実は、既にこちらに……」
侍女が珍しく困ったように視線を外すと、その背後からするりと長身の影が近づいて来た。
「エヴァンジェリン王女、失礼いたします」
聞き覚えのある、威厳たっぷりのバリトンだ。
「人払いの必要はございません。急ぎお知らせしたいことがあり、参上致しました」
「まあ、ファビオ様。ずいぶんとせっかちなご訪問ですこと」
うわ、宰相……?本物だ!
私は大慌てで立ち上がった。できることなら逃げ出したい。
こんなに近くで見るのは初めてだけど、ファビオ宰相はジュリエッタ様のお父様だけあって、なかなかに渋いオジサマだ。侯爵家の当主であり、先代国王の末の妹、つまり現国王陛下の叔母にあたる方を妻に持つ切れ者の宰相閣下。当然、エヴァンジェリン様ともそれなりに親しいのだろう、王女はまったく緊張していないご様子、さすがです。
「御来客中、重ねて失礼を」
「ええ、紹介いたしますわ。こちらは、私のお友達のアリア様」
「存じ上げております。マテラフィ伯爵令嬢ですな」
宰相は鷹揚に笑って私をちらりと見る。
切れ者の宰相が私の名前を知っていることが衝撃だ。動揺を隠すこともできず、どうにか礼に則って頭を下げた。
「はじめまして、宰相閣下。アリア・リラ・マテラフィでございます。エヴァンジェリン様とお話がおありでしたら、すぐに失礼いたしますわ」
「いや、気遣いは不要だ。じき公になる話、アリア嬢にも聞いて頂いたほうが良い」
ええ?
でも、私、完全に部外者だし場違いだし緊張するんですけど!
エヴァンジェリン様は興味をひかれたらしく、思案するように首を傾げてみせた。
「まあ、何かしら」
無邪気な問いかけに応えるべく、宰相閣下はわずかに顎を上げ口を開く。
「実は、王太子とジュリエッタが婚約する運びとなった」
「え……?」
王女様の大きな瞳が、丸く見開かれた。
咄嗟に理解が追いつかなくて、私はただ宰相の口が動くのを眺めることしかできない。
「お兄様と……、ジュリエッタ様が?」
漏れる吐息に乗せたような王女の声は、少し掠れていた。
「まだ内々ですが、昨日王太子から申し込みを受けました。国王陛下へはご報告済み、もちろん、ジュリエッタも承諾しています」
「でも……、でも私……私、兄からは何も聞いておりません」
「ですからこうして、一番に知らせに来たのですよ。王太子からも追って話があるでしょう」
宰相の視線が横にスライドして、ただ立ち尽くしている私を捉える。
そうだ。普通に考えて、宰相が私の名を知っているはずがないのだ。知っているのは、調べたからだろう。とるに足らない田舎貴族の娘の名を調べる理由なんて、ひとつしか思いつかない。
「アリア殿」
「……はい」
「じきに公表されるでしょうが、アリア殿も御立場を弁え、重々お心に留めておいていただきたい」
心に留めておく?
違う、これは警告だ。この話を本当に聞かせたかった相手は私だ。すうっと指先が冷えていくような気がした。教会で会ったときの、ジュリエッタ様を思い浮かべる。あの時、何か決まっていたのかな。『貴女が羨ましいわ』と言った笑顔が何故か鮮明に脳裏に浮かぶ。
「……、はい。もちろん、心得ております。どうぞご安心を」
「ふむ……話はそれだけです。王子が戻られるころ、もう一度きちんとご挨拶に伺うつもりでおりますが、今夜はお忙しいですかな?」
「ええ……いえ、」
困惑しきったエヴァンジェリン様の視線が、逆に私を落ち着かせてくれた。ゆっくりと左右に首を振ってみせると、小さな王女はようやく威厳を取り戻し、宰相に向き直る。
「わかりました。詳しいお話はそのときに」
「ありがとうございます。では」
最後に薄い笑みを浮かべ、宰相閣下はドアの向こうへと消えた。
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