水鳥の罠

 「第8象限のレラティビティ均一化の原因は、未だ発見できず」。それは、コンペで勝ち取った新規クライアントの多国籍企業ライズ・コンストラクションとの初回の仮想ミーティングでの弊社側の最終回答だ。それが三分前。二十六万のリアルタイム人格データを、千八百人の貸し脳インプラントによる分析で行ってきた結果がこれだ。この場合考えられる要因は二つ。一つは、ライズ社のプランが個性や環境差や文化的差延を超えてすべての人格の欲望を刺激するモノであるということ。この超多様性社会では極めて珍しいことだ。もう一つは、十五秒毎にランダムに選択されるサンプル人格の嗜好が均一化し始めていること。二十六万人のサンプルの中で象限1から7までに属する人々には滲みを伴う差延が認められるのに対し、第8象限に属する人格が均一化していっている。人格相対性が最小化していくというデータから読み取れるのは、彼らが、同一の人格に近づいているということだ。億単位の人格が均一化されている。本部長のクロキ・バラスキは去年の悪夢を思い浮かべる。現実に、レラティビティディレクターのサムロハ・コーマンと、サンプルの一部が何かの要因で均一消費行動に置き換えられていくのを目撃している。ライズ・コンストラクションの担当者からのメッセージがレチネットに届く。

「当社のマーケティング担当者による仮想会議の結果も、同じ意見」

 クロキはマーケティング本部のフェローに召集をかけた。

〈こんなケースでは、できるだけ多数の意見を参照しないとエラーを回避できない〉

 五分後、ハノイ郊外にある本社ビルのエグゼクティブプレゼンテーションルームには、社内のディレクター以上の部下八人と、ハイフォンとフエ、サイゴンシティの協力大学に在籍するフェロー5名、政府統計局の研究者1名がそれぞれのアバターにより集まり、大型の円卓を囲んでいる。実体で参加したのは、クロキとサムロハだけだった。

    *

「こちらが、現在弊社のレラティビティマーケィングセンターが収集中のデータを、可視化したものです」サムロハ・コーマンが左手に装着したデータリングで共用ホログラフィックボード上にサンプル群のライブの躍動データを投下する。会議参加者それぞれのレチネットを通し、8つの象限が円卓のセンターに成立し、現在進行中の異変が共有される。室内がざわつく。

 最上階にあるプレゼンテーションルームの天井は透明な硅素ナノ分子の結合体で、普段は、ガラスの天井のように開放的に空の光景を眺めることができる。流される電流の変化に応じてそれは結合を変え、ホログラフィックボードスクリーン、インプラント処理速刺激色によるルームライト、ハノイからはもう見上げることが困難になってきた星空、など様々なオプションに変化する。

 口火を切ったのは統計局研究者のタチバナだった。「均一化の事例は、ここ五十年で2例しかありませんよね。一つは、431のサイゴンシティでの暴動。つまりベーシックインカムで生活するスクワッター(無労認定者)たちによる人格仮想化に反対する暴動。まあ、人格仮想化というもの自体がまったくの事実無根で、悪意の嘘情報だったわけですが。いわゆる巡回性ブリスティン関数によるクラウドジャック事件ですね。ほとんどの犠牲者がクロポト中毒者で、巨大な幻覚、幻視のシンクロニシティが起こった状態ということが、十二時間分のリアルタイムデータから明らかになっています」スクリーンに資料ホログラフィが投影される。同時に、出席者の多くが目を伏せる。サイゴンシティ431の映像は、残虐性の高い自死が次々に差し込まれるからだ。ブリスティン関数の公共クラウド侵入による、共幻想による悲劇。それは、生体脳の皮質に大量の合法クロポトが介在している状況、公共クラウド上での検索条件が均一化する「噂」が虫によって浸透されたこと、そして、その虫が何千万人ものインプラント脳を貸し脳化して架空の人格仮想化処理という物語を超過負荷で長時間ロードさせてきたこと、その三点が原因で巨大関数がクラウドにへばりついた状況が約十二時間継続した。

「そして、もう一つが、御社が昨年しでかした人為的ミスによる大規模感情攻撃ですね」クロキの顔を見下げるようにしてタチバナはいった。

「人為的ミスって。虫による対応を行わなければ、それこそ431の悲劇が再び起こっていたかも知れないということは、当局もお認めになっていることではないですか」とクロキ。「……昨年の状況を前提にしているからこそ、昨年もお世話になったタチバナ研究員には、ことの端緒からのご参加をお願いしたわけでして」

 結局そうだ。国の奴らなんて誰の責任なのかということにしか関心がないんだ。何百年も昔からな。

「この際だから伺いますけれど、公共クラウドのアップデートは、何の問題もなく行われたのですかね」ハノイ工科大学の情報工学部長であるグエン・クアン教授が発言する。

「何を言いだすかと思ったら。アップデート作業のデータは、公開している通り。あなた方研究者が何重にも追試を行なって何の問題も発見できてないですよね」とタチバナ。

 確かに、国中のナノバイオ化学、情報システム工学、脳システム工学、のそれぞれの研究室と民間の研究機関、そしてクロキたちのような情報産業、人工知能産業などの民間企業が、統計局からの依頼で大規模な検証と追試を行なったが、何の問題もなかった。

「いえ、私は、やはり、あの噂が気になるだけなんですがね」とグエン教授は微笑みながら言う。美しい中部標準語だが、この会議のためにキャリブレーション調整をした自動翻訳システムは、その言葉の奥の皮肉まで翻訳してしまう。

「『シルヴィア介入』とやらの話ですかね」と笑いながらタチバナが言う。「あれは、431事案の際に巡回型関数が吐いた幻覚に過ぎないわけでしてね。そのくらいは共通認識の筈かと」

「我々には、時間がないんですよ」クロキは、こんな無意味な会話がいつまでも続くような気がして、あえて割って入った。クダラナイ公務員とクダラナイ研究者、こいつらは、何かがあった後に、こうすればよかったのだああすればよかったのだ、というようなことを言うだけだ。それがプロの仕事だと考えている。旧政権時代の亡霊。ドイモイの排泄物にわく寄生虫のような連中。

「そう、時間はあまりないんですよ。だから、緊急会議にご出席いただたわけです。この会議の目的は一つ。我が社の対処に対する承認を得ることです。現在、私の部下が、例の第8象限の変異を調査するための虫をプログラムしています。昨年のような直接感情攻撃型の虫ではありません。もっと、サンプルの知覚に近い部分から検査素子を打ち込むタイプのものです。このプログラムの役割は二つ。レラティビティ第8象限サンプルの均一化に影響している関数を求めることと、それが人為的な場合、つまりウイルスによるものである場合に、そのコード遺伝子を解析し、どの機関が放っているものかを突き止めることです」

 出席者たちは、ざわついた。責任の所在を探すのではなく、犯人を捜す。そうクロキは宣言したのだ。

「その後、もしも人為的なものであるならば、五秒以内にワクチンをプログラムし、公共クラウド全体に打ち込みます。ここまでを我が社は、九十秒以内に行います」

 出席している中で緊張の表情を保っているのは、クロキの部下のディレクターたちだけだった。彼らにしてみれば、昨年同様に、三十六時間は仕事にならなくなる。全員それぞれのすべてのクライアントに対してメッセージを投げた。

 ここまでが一秒程度。(それが、最適解だ)とクロキは部下たちのレチネットにメッセージを飛ばす。

「異論はないですね。みなさん」クロキは、施策実施許可をメインスクリーンに投げ、出席者それぞれのサインを記録する。統計局のタチバナもサインを返し、全出席者の許可を集めたところで、会議は解散した。

                  *

 レラティビティマーケィング部長に昇進したサリマハール・ジェのクラウド残脳が、前回の虫を改良したテストプログラムを送ってくる。クロキとサムロハは、インプラントから吸収してそれぞれのアイソレーテッドにロードする。幻惑、うつ因子、そして新皮質から浸透する超多様性対応済み倫理コントロールプロット。公共クラウド上の貸し脳を自在に使用したモニタリングのライセンスを持つクロキの会社だけの技術だ。連続して二十六万種類の人格コードがアイソレーテッドに打ち込まれる。

「よし、上出来だよサリマハール・ジェ。去年、お前を殺した犯人を必ず突き止めようぜ」

 アイソレーテッドから急速に揺さぶられる人格イメージの洪水の中、辛うじて理性を保ったクロキは、声に出してつぶやいた。

 サムロハ・コーマンはクロキのキューを待つ。

 全社のディレクターがクライアント企業のネットワークへの保護膜を張り、社内の処理ボードとレチネットを公共クラウドから遮断するのが一瞬だけ早かった。クロキのキューにより、虫が放たれる。

     *

 第8象限が揺れた。データサンプルの回収と解析はすぐに終わった。同時にワクチン投入。レラティビティデータが正常化し、431の悲劇の再来だけは防げた。

     *

 十五分後、統計局統計準備課内、クラウド破壊行為取り調べ室。クロキ・バラスキは、再び、この部屋に呼ばれている。前と違うのはサリマハール・ジェが隣にいないことか。

 本部が潰されても仕方ないと彼は思っている。ライズ・コンストラクションが今回コンペへの参加を求めてきたときから、シナリオは動かされていた筈だ。クダラナイ連中のクダラナイ自己保身。利益誘導。政治。統計局ってば、今度は、誰を切って終わる気なんだ。所詮はインドシナ、賄賂と握りの役人ども。


 今回は、サムロハの解析が早かった。クラウドへの介入に関するログを回収し、そのコード遺伝子を候補と参照し特定するまで一秒もかからなかった。ただ、コード遺伝子から判明した犯人はクロキたちの予想とは違っていた。統計局は関与していなかったのだ。それは、スクワッターたちの指導者のモノだった。サイゴン署の前科者データに保管されていたグエン・マットウという男。すぐに公共クラウド上のデータと照合したが、彼の実体は何十年も前にこの世にはなかった。アルバイトのウィザード級スニッピーを数百人単位で雇い彼の残脳に送って解析を進めたが、自我壁を越えた者は一人もいなかった。何者かわからない男の残脳による、何のためかわからない所業。

 それが、ライズ・コンストラクションという多国籍企業を動かし、クロキのチームにトラップを張り、国と主要研究者の前でいたずらに自己を顕にしただけ。

 タチバナが部屋に入ってくる。

「いやいや、今回は、物凄いモノを目撃させていただきましたよ」薄ら笑いを浮かべ、蔑む目。「しかし、関数による被害は最小限にとどめられましたし、私たちのサインの入った許可もご用意されたので、何のお咎めもありませんよ」

「カム・オン・オンジ(どうもありがとうございます)」とクロキ。

「国としても、我が局としても、レラティビティ調査を発明したクロキさん、そしてインプラント貸し脳システムを構築した御社の功績は非常に大きいと認めているのですよ。もちろん、これからも協力関係を深めていきたいと考えています」とタチバナ。

 これで、俺たちは統計局の飼い犬になるのか。

 こいつらの私利私欲を満たすためのデータを作り続けることになるのか。何百年もこんなことばっか続けて。

「お判りですよね」とタチバナはだらしのない表情で畳みかけてくる。

     *

 旧市街、ソフィテル・メトロポール・ハノイのカフェで、カフェを飲みながら、クラノは、この数時間の出来事を振り返っている。どこかに、この状況の「鍵」を忘れてきたような気がしたのだ。対処には間違いはなかった。予測も間違っていない。あらかじめ考えデザインした通りにことを進めた筈だった。マットウという人格だけが予想外だったわけだ。こうすれば良かった、ああすれば良かったという後知恵は、今回は浮かんでこない。

 レチネット越しの視界の端を、ホアンキム湖の水面から飛び立った一羽の水鳥が遮る。乾いた風がクロキの髪を揺らし、肌寒さに一瞬震える。そう、ハノイの2月は寒い。寒いと思えるくらいには、俺もインドシナの人間になっているということだ。(了)

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