理想のかがみ

二石臼杵

ルートピア・カフェ

【一号室】


 一人の男を中心に、人々であふれた街並みが広がっている。天を突かんばかりの高さを誇る高層ビルの群れに、見目麗しい観葉植物の数々、それに、一万人はくだらないであろう色とりどりの男女たち。

 黄金色の光が辺りを輝かしく照らし、男の周りにいる者はみな一様に笑顔で彼を崇め、服従する。

 男が踊れと言えば人はもちろん木々すらも身を揺らし、飛べと言えば誰もが喜んで宙を舞う。

 そこでは彼が唯一神であり、全てが彼のためだけにあった。

 金色に染まる景色の中、男は歩きながら次々とすれ違う人々から畏敬の念を向けられる。握手を求められてそれに応じたり、喉が乾いたら近くにいる者に適当な飲み物を買ってこさせたり、果ては気に入った初対面の美女と口づけを交わしたりもしていた。

 ここはまさしく、彼にとっての理想郷だった。

 そんな理想郷に、不躾な赤い闖入者が割り込む。「残り時間:十分」と表示されたそのディスプレイは、唯一神である男をも上回り容赦なくメッセージを伝えてきた。残り時間は次第に減っていき、とうとう最後の十秒間のカウントが始まった。

 一秒でも長く黄金郷を堪能しようと留まろうとしたが、そんな努力もむなしく世界はかき消えた。

「時間切れか」

 男はつまらなそうにぼやき、ヘルメットを外した。ヘルメットの裏面はぼんやりと青く発光していたが、徐々にその輝きを失っていく。

「これで、最低でも三十分は理想郷のお預けか。こればっかりは面倒だ」

 椅子に深く座ったまま、彼はまた黄金色の世界に行けるようになるまで待つことにした。傍らの電話で料理とドリンクを注文する。

 彼は真っ黒なタイツのようなスーツを着ており、体のラインがくっきりと浮き出ていた。そのスーツは指先にいたるまで彼の体をくまなく覆っている。スーツの表面には白く細い配線が血管のごとく走り、途中で枝分かれしたり、指先では指紋さながらに渦巻いたりしている。

 ここはルートピア・カフェの一室。彼は部屋代を払ってカフェの一号室に籠り、電想空間を満喫している。

 いま、世代を問わずひそかな娯楽としての地位を築いているのが、このルートピアという電想でんそう空間内での疑似体験である。利用者はヘルメットを通してそれぞれ思い描く世界を見、全身に纏うスーツから与えられる疑似触覚でその世界に触れる。

 ルートピアとは、一種の仮想空間だ。

 これは利用者が理想の世界を思い描く際に、脳から出る電気信号をヘルメット内部のコンピュータでデータとして具体的な形にして、全身のスーツに伝える。そして、五感の情報を肉付けされた思想を再び電気信号に変換してから、スーツ内で鏡のように反射して返すのだ。

 脳を直接コンピュータに繋いでいるわけではないので、万が一装置の故障などのトラブルが起こっても脳への負担は軽い。その代わり、他者との世界観の共有はむずかしいという面もある。

 だが、それは裏を返せば自分の思い通りの世界を独り占めできるということになる。椅子に座った状態でもイメージすれば歩いたり走ったりすることは可能なので、体の不自由な利用者にとってもおおいに魅力的であった。

 そんなルートピアへの入り口となるのがここ、ルートピア・カフェだ。各地に点在するビルにはいくつもの部屋が詰め込まれていて、電想世界を楽しむための装備一式を貸し出している。部屋自体は椅子と備え付けの電話機が置いてあるだけの、非常にシンプルな造りとなっているが、利用者はスーツとヘルメットを着用して椅子にもたれかかるだけでいいので、最低限のスペースさえあれば問題はない。

 ルートピアで問題視されたのは、利用者の現実離れだった。電想空間と現実世界との区別がつかなくなることや、あるいは逆転してしまう事態が危惧されたのだ。

 ゆえに、ルートピアへと旅立てるのはルートピア・カフェ内のみと限定されており、一般にスーツやヘルメットなどの装置の販売もいっさい行ってはいない。

 さらに、ルートピアに持続していられる時間を最大三時間と設定し、制限時間がくると強制的にスーツからの信号は遮断される。

 その後、再びルートピアへと行くためには最低でも三十分の間隔を空けることも義務付けられている。

 全ては、あくまでもルートピアは架空の世界であると思い知らせ、現実を忘れないようにさせるための措置だ。

 どこまでも理想は理想であり、夢は夢であり、現実は現実であり続けなければならない。それを踏まえたうえで男は休日にルートピア・カフェを訪れ、鬱屈とした日常からかけ離れた栄光にすがっていた。

 彼は運ばれた料理とドリンクで三十分を潰すと、ヘルメットをかぶり、再び仮初めの理想郷へと逃げ込んだ。



【二号室】


 ルートピア・カフェの二号室。

 そこでは、青年が散らかったオフィスで小間使い同然の扱いを受けていた。やれ書類をコピーしろ、やれ資料用データを作成しろ、社内の清掃を行え、お茶を出せと、さんざんいいように使われていた。

 青年は与えられたありとあらゆる雑務を、不平たらたらと片付けていく。その文句を耳ざとく聞きつけた者や、彼の仕事の出来にけちをつける上司たちによってさらに叱られ、小言を言われ、新たな厄介事を押しつけられる。

 だが、これこそが彼の望んだ世界であった。別に彼はマゾヒストではない。事実、仕事を押しつけられた際には心の中で強い抵抗と不快感を抱いている。ならばなぜこんな世界を望んでいるかと言えば――

「残り時間:十分」

 赤いディスプレイが視界の端に割り込む。それを見た青年は、心の底から安堵した笑みを浮かべた。残量時間が減っていくにつれ、彼は軽くなった手つきでと雑務をこなし、この世界が終わりを告げるまでのカウントを今か今かと眺めていた。

 やがて、うっとうしい上司も、煩わしい同僚も会社も、世界ごと消滅する。青年はヘルメットを外し、現実を噛みしめるかのように深呼吸をした。

 彼は若くして巨万の富を得た起業家であり、ほとんど働かなくてもいい立場にいる。しかし、そんな現実の幸福度の再確認と、彼の下で働く社員の気持ちを実感するために、わざわざルートピア・カフェで忙しない仕事の中に身を置いているのだ。

「あぁ、こっちが現実でよかった。これでまた僕は現状を維持しようと頑張れるし、下で働く者の気持ちを汲んでやることもできる。もっとも、僕の会社はあそこまで荒い人遣いはしないけれど」

 青年は一号室の男とは真逆の立場と用途で、ルートピア・カフェを利用している。これもまた、特異ではあるが一つの利用法だった。

「うん、社員の待遇についてよりよい改善点が浮かびそうだ。もしそれが成功すれば、僕自身の暮らしももっと潤うだろうな。よし、もうひと潜りしてくるか」

 三十分経ったあと、そうひとりごちてから青年はヘルメットを着け直した。ヘルメットの向こう側では、また仕事の波に追われる非日常が待っている。



【三号室】


 ルートピア・カフェの三号室。

 そこには、殺伐とした荒野と夜空が広がっていた。吹きすさぶ風すらもなく、生命の輝きも、人類の文明も見受けられず、そして何よりこれといった物音が聞こえない。

 その荒れ果てた大地の中に、一人ぽつねんと老人が座っていた。彼は名のある作曲家であるが、作品の完成ペースにむらがあるのが難点だった。だから、こうしてルートピア・カフェに通っては世俗の喧騒から切り離された場所に移り、次の作品への構想を深めているのだった。瞑想と言ってもいい。

 老人は、命の気配もなく広がる荒野と、頭上を囲む夜空が静かに星を光らせるさまを眺めながら、たった一人で考えを巡らせる。

 ここには何もない。人も、動物も、植物も、音も、文明も、私にとって煩わしいものは何もない。だからこそ、何かを生みだす莫大な可能性を孕んでいる。世間の者からどう思われようと関係ない。私はただ、自分の納得のいく作品が作れればそれでいい。

 老人は近くの手頃な岩を椅子代わりにして腰を下ろし、ゆっくりと物思いに耽る。

 彼はずいぶん前に視力を失っていた。しかし、ルートピア内では視力をいくらでも補正することができる。むしろ、こうして見たいものだけ見ることができる分、目で物を見て感じる利用者よりもずっとルートピアを満喫しているのかもしれない。老人はそのルートピアの中でも目を閉じる。

 頭の中で音楽が流れだした。最初は静かに、しかしだんだんと激しいテンポになっていき、思考を飲み込まんばかりの濁流となる。安らかなメロディーから、徐々にダムのゲートを開くように音を放流していく。

 聴く者を誘い引き付け、そして獲物を捕らえ食らいつくような曲調こそが彼の作風だった。頭の中に浮かんだ生まれたての曲を、老人は何度も何度も繰り返し脳に刻みつける。

 もっとだ。もっと私に音楽を。この静かな空間に響きわたる音楽を。彼がさらなる曲の完成度を求めて理想の世界に浸ろうとしたとき、心地よい暗幕を破る光が差し込んだ。



【四号室】


 ルートピア・カフェの四号室。

 ジャングルの中を突き進む女性がいた。木々に浸食されて空は見えず、生い茂る葉の天井をすり抜けて差し込む光が視界を照らす。見渡す限りの緑の景色からは、毒々しさを帯びた気配が伝わってくる。

 サファリジャケットに身を包んだ三十代半ばの女性は、槍を片手におそるおそる足を進めていく。顔には緊張が走り、槍を構える姿勢もお世辞にもさまになっているとは言い難い。しかし、彼女は一歩、また一歩と、自ら危険の宝庫へと歩み寄っていた。

 左側から物音がした。葉が小刻みに揺れ、表面に乗っていた露が雫となって弾け飛ぶ。草を乱暴にかき分け、緑の奥から姿を現したのは体長二メートルほどにもなるトカゲだった。トカゲというよりも、手足の生えた蛇と言った方がしっくりくるほどに胴体と尾は長く、頭には鳥のものに近いくちばしを備えていた。

 女性は悲鳴を上げそうになるのをとっさにこらえる。冷静な精神状態に留まり、相手の方へ素早く身構える。槍の切っ先をトカゲに向け、張りつめた生温かい空気が辺りを満たした。トカゲは二股に分かれた舌をちろりと出し、女性をガラス玉のような目で見すえる。

 お互いに敵を捉え合う視線が交差したのも一瞬。直後には、異形のトカゲが巨大なくちばしを開けて飛びかかってきた。口の中には細かい牙がびっしりと並んでいる。女性はトカゲの一噛みを横に走ってかわした。

 トカゲの顎が耳障りな牙の衝突音を鳴らして空気をかじる。そのすきを逃さず、女性は槍を獲物の脇に突き刺した。耳をつんざくような悲鳴が轟き、真っ赤な血が噴き出す。長い尾が振り乱れ、血飛沫が舞い散る。槍をさらに深くえぐり込ませると、トカゲはかん高い鳴き声を最後にぐったりと槍の柄にもたれかかった。敵が完全に息絶えたのを確認した女性は、槍を引き抜いて額の汗をぬぐう。

「ふう。現実じゃないと分かってるとはいえ、やっぱり怖いものは怖いわね」

 そう言う彼女の顔は言葉とは裏腹に、充実した潤いに満たされていた。彼女は充分な稼ぎのある夫を持つ主婦であり、日々に退屈したりストレスが溜まったりすると、こうして電想空間でのスリルを楽しむのだ。

 あるときは世界を滅亡から救う騎士になり、あるときは人心惑わす悪鬼を祓う妖魔ハンターとなり、今は未開のジャングルを進む冒険家となっている。

 夫が出社している間、彼女は日々の生活に足りない刺激を求めてルートピアを訪れる。

 浮気はリスクが大きすぎるし、ともに持て余す時間を埋める主婦同士の付き合いも面倒くさい。そんな彼女にとっては、リアリティのある安全な危険を手頃に感じられるここが理想的なのだ。

「そろそろボスが出てきそうね」

 女性が槍を握る手に力を込め、再びジャングルの奥へと足を踏み出したとき、さきほどのトカゲよりも数段大きな恐竜が現れた。

 女性が体を強張らせるや否や、恐竜の口から何十枚もの書類の滝が流れだした。



【五号室】


 ルートピア・カフェの五号室は少年が利用している。

 彼を囲むようにあふれ返る大勢の女性たち。その全員が目もくらむ美貌の持ち主で、男の描く異性の理想像と言えた。

 だれしもが少年に心と身を寄せ、自分以外の女性が一緒にいても機嫌を損ねることもない。彼女らは少年のためだけに存在するガールフレンドの集合体だった。

 学校では、誰もみな自分のことなんて気にかけてくれちゃいない。振り向いてくれる女の子もいない。

 そういった思春期につきもののコンプレックスと被害妄想を抱えた少年は、ルートピア・カフェで自分に都合のいい女性を作り上げていた。

 学校を休むほどの度胸はないので、休日に隠れてこっそりルートピア・カフェを利用することにしている。

 かくして、少年は貯めた小遣いで自分の思い通りの彼女との時間を買う。

 通貨で手にした幻想の恋人を抱き寄せると、女は少年に顔を寄せ、キスに応じて口を開ける。

 彼女の口内には、なぜか無数の牙が生えていた。



【管制室】


 ルートピア・カフェの管制室。

 ここは、各部屋の装置の動作チェックとモニタリングを行う部屋である。管制室内には二人の作業員がいた。

 一人は電想スーツの制御装置と測定機器を触っていて、もう一人は室内に並ぶモニター画面に目を通している。互いに、電想スーツが正常に作動しているかどうかをチェックしているのだ。

 ただし、この二人でも、利用者たちがどんな世界を見ているのかは知りようがない。個人の理想を覗くことなど、技術的にも倫理的にもできないからだ。

「こちらモニタリング。とくに異常なし。そっちはどうだ」

 大量の画面に目を配りながら、モニタリングは言った。

「こちらチェッカー。同じく異常なし。強いて言うなら退屈だ」

 ときおり、測定機器に異常のないことを確認しながらチェッカーは答えた。

「仕事だから仕方ないだろう。……お? 会員証のデータによると、五号室の客はまだ学生らしいぞ。どんな世界を見ているか、手に取るように分かるな」

 モニタリングは冗談をこぼした。同僚もそれに乗る。

「あぁ、あの年頃の思春期が考えることなんてみんなおんなじだからな。教育上よろしくない世界を作るのは禁止すべきだという声はあるが、そんなことできやしない。人様の頭の中にまで制限はかけられんよ。おれから言わせれば、規制だ規制だと騒ぐ連中が敏感すぎるのさ」

「まったく同感だ」

 モニタリングが肩をすくめると、チェッカーは声をひそめて言った。

「それはそうと、さっき、ちょっとした退屈しのぎを思いついたんだが」

「なんだ?」

 モニタリングは食いつく。彼もまた、退屈を持て余していたのだ。

「この電想スーツは、着用者の思い描く世界を電気信号に変換し、それを再び鏡のように反射して送り返している。そこで、だ。その反射角をずらしてみるのはどうだろう。そうすれば、思考の乱反射が起こる。一人のイメージは他の者へ送られ、互いに自分の理想の世界を送信し合い、それぞれの世界は混線するに違いない」

「面白そうだな。きっと利用者たちは大慌てすることだろう。その反応を見れば、少しはこの仕事の退屈さもまぎれるかもしれない」

「あぁ、彼らにはあとで誤作動のお詫びとして、サービスチケットを渡すことで手を打つとしよう」

「ちょうど単調な作業の連続にうんざりしていたところだったんだ。たまにはおれたちにも多少の娯楽はあったっていいだろう」

 モニタリングの同意を得ると、チェッカーは手もとの制御装置で電想スーツの思考反射機能を操作し始めた。



【一号室・転覆】


 一号室の黄金郷はたやすく崩壊した。金色の空に亀裂が走り、真っ黒な闇が押し寄せてくる。彼をたたえる者も、従う者も、権威の象徴である建物も、あっという間にどこかへ消えていった。

 闇と沈黙が世界を上書きし、塗りつぶす。男はたちまち孤立した。黄金の理想郷から一転、たった一人、真っ暗な空間に放り出されてしまったのだ。その落差は激しく、虚しさと寂しさが男の胸中を埋め尽くす。

「おーい、誰か返事をしろ。誰もいないのか。どうしたんだ、いきなりみんな消えてしまった。ここはどこだ。少なくともおれの世界じゃないぞ。冗談じゃない、こっちは高い部屋代を払っているんだ。早く受付に文句を言ってやらないと」

 ヘルメットを外そうとすると、三人の美女が闇の中に浮かび上がった。

「なんだ、ちゃんといるじゃないか。お前たち、おれの相手をしてくれ」

 美女たちはほほ笑み、その首を伸ばして蛇女へと姿を変えた。蛇女たちは男の体に四肢を絡ませ、まとわりついてくる。彼女らの瞳はみな、捕食者が獲物を見つけたときの色だった。恐怖のあまり、ヘルメットにかけた手から力が失われ、だらんと遣る方なくぶら下がる。

 何かが起こっている。いま着ている電想スーツは、故障などのトラブルを感じたら強制的にシャットダウンされるはずだ。だが、現にこうしてスーツは恐ろしい世界をいやおうなしに見せてくる。つまり、この状況は異常だと見なされていないということだ。これが異常でなくてなんであろうか。

 混乱しながらも必死に男が現状の分析をしていると、蛇女たちはほどけ、大量の書類の束になる。直後、彼にとって聞き慣れた、上司が部下を叱りつける怒号が鳴り響く。男は考えるのをやめ、ただ目の前で移り変わる世界を眺めることにした。

 すると、崩れ去った黄金郷のもろさが痛いほど伝わってくる。こんなもの、しょせんは夢と似たようなものじゃないか。夢を見るために毎週金を払うことの、なんと馬鹿馬鹿しいことか。

 俺は今まで何をしていたんだ。男がようやく客観的に自分を見たとたん、誰かの声がした。聞き覚えのある声の主に、全身を温かく包み込まれる。その手は柔らかく、男の心をほぐしていった。彼は、その温もりに身をゆだね、存分に甘えることにした。



【二号室・反転】


 二号室では、青年が黄金色のもてなしを受けていた。彼の口に高級料理が運ばれ、それを咀嚼する。味も食感も極上だが、彼は眉をしかめたままでいる。

 ルートピア内の食べ物が実際に胃を満たすことはありえないと分かっている。しかし、それ以上に彼を不機嫌たらしめているのは、この程度の贅沢など日常茶飯事だということだった。

 違う。僕はルートピア・カフェにこんな世界を求めて来たわけじゃない。せっかくの非日常を体験できる舞台で、日常を謳歌するなど馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 彼の口元に、ひとつまみのキャビアが運ばれる。キャビアは弾け、中から漆黒の闇が広がり、またたく間に青年から全てを奪っていった。抵抗する間もなく呑み込まれ、闇の中をさ迷うはめになる。完全なる孤独は、一人で起業したときの心細さを思い出させた。

 あのときは周りのみんなに助けてもらって、少しずつ成功していったものだ。みんながいたから今の僕がある。社員がいるから、自分は贅沢を日常にできるのだ。贅沢のありがたみすら忘れるほど、自分は情けない男になってしまっていたのか。

 仮想現実でいくら忙しさを味わったところで、それはただの自己満足だ。現実で社員たちと話をした方がよっぽどいいじゃないか。

 今度、社員たちの生の声を聞く、プライベートな話し合いの場を作ってみよう。そのときも、自己満足になってしまわないように気をつけなくちゃな。

 彼がヘルメットの中で笑みを浮かべたとき、甘い空気がやんわりとそれを引き止めた。

 正体不明の快楽に襲われるという異常。だが、どこか懐かしい。青年は仕事のことも忘れ、心地よい感触に胸が満たされるのを楽しんだ。



【三号室・共鳴】


 三号室。

 静寂に包まれた暗闇の中でひとり黙々と作曲に打ち込んでいた老人は、急に自分の作った曲が止み、邪魔をされたことに気がついた。

 やっと新曲が出来ようというときに何事だ。そう腹を立てて目を開けた老人は、いつの間にか辺りを満たしている緑一色のジャングルに視界を奪われた。怒りはしぼみ、代わりに驚きが押し寄せる。

「なんだ、ここは」

 見渡す限り一面の緑。街中では目にする機会も皆無な自然に包まれ、柔らかな大地の奏でるイオンの調べが耳をくすぐる。

 老人は常に自分を追い込み、ただひたすら己を見つめ続けて世に曲を送り出してきた。だが、彼は気付かされる。自分はいままで己を見るばかりで、世間や周囲の環境に目を向けていなかったのではないかと。いや、目を逸らしたいがために、創作という手段に逃げていたのかもしれない。

 これまで抱いてきた信念が揺らぎかけたとき、二足歩行のトカゲが姿を現す。トカゲは手に料理を載せた皿を持っており、それを丁寧に老人へと差し出す。老人は料理に手を伸ばし、ゆっくりと噛みしめる。口の中に甘い幸福感があふれ、彼は世界が広がっていくのを感じた。

 そうか、私に必要なのは、世界に目を向けることだったのか。狭い視野の中では満たされぬわけだ。

 老人は、新しく浮かんだメロディーをルートピアのBGMとして再生する。それは従来の彼の作風とはまったく異なり、聴いている者を強引に引き寄せる荒々しい旋律ではなく、聴く者に歩み寄り、優しく楽しげに語りかけるような音楽であった。

 老人は新曲の完成に笑みを浮かべる。そのとき、誰かの手が差し伸べられた。



【四号室・忙殺】


 四号室にいる女性はヒステリックにわめいていた。書類の作成、コピー、清掃、外回り。雑務、雑務、雑務。彼女は不満を抱きつつ、ひっきりなしに流れてくる仕事の波に呑み込まれる。なぜ私がこんな雑務をやる必要があるのか。こういうのは夫の仕事だ。

 そこまで考えたところで、ひたと思考の壁の前で立ち止まる。私がいまこうしてルートピアにいる間も、夫は仕事に身を削ってくれているのだと。

 それは分かり切っていたことだが、彼女は真に理解してはいなかった。生活を支えてくれている者のありがたみを。そして、そんな仕事に真面目に取り組む夫だからこそ、愛しているのだと。

 久しぶりに手料理でも作ってみようかしら。彼女は電想世界で働きながら、今晩のメニューを考え始める。メニューを決め終えたあと、どこからか聞き覚えのある声がした。



【五号室・目覚め】


 五号室では、少年が獣の群れに追われていた。少年は必死で巨大な二足歩行の爬虫類たちから逃げ続ける。

 なぜ。どうして。さっきまで理想の女だったものが、いまや自分に牙を剥いて襲いかかってくる。

 ちくしょう、なんでだ。頭の中を駆け巡る疑問に答えはなく、少年は走り続ける。大型のトカゲからはあちらこちらから黄金色のすらりとした女性の手足が生え、彼らが走るたびにぶらぶらと振り回され揺れる。それは見るもおぞましい異形の風体だった。

 彼はクラスメイトや教師など、とにかく気に入らない輩を思い浮かべた。この怪物はあいつらと同じだ。僕を見下し、攻撃してくる。なにがルートピアだ。何が理想郷を映しだす鏡だ。

 ……鏡? 少年は自らの言葉に引っかかりを覚える。鏡。もしやこれは、現実から逃げているという後ろめたさがそっくりそのまま反映された結果じゃないだろうか。

 現実からは逃げられない。目を逸らし続けていれば、必ずつけがくる。夢から覚めるときがきた。

 もう、目をつむってばかりではいられない。

 そう悟ると、世界は黄金に色を変え、少年を祝福するかのように輝きを放つ。理想郷にさえ付いて回る現実に、少年が立ち向かう覚悟を決めたことの表れのようだった。

 やがて、誰かがほほ笑みかけてくるのを感じた。



【管制室・閉店後】


 ルートピア・カフェの閉店の時刻が訪れた。

 客がみな帰ったあと、管制室に残ったチェッカーは同僚に打ち明ける。

「なぁ。いま気付いたんだが、そもそもおれたちのいたずらは実行できるはずはなかったんだ。さっきのように制御装置を勝手に操作しようとすれば、すぐさま異常と判断され、電想スーツは機能停止するはずだからな」

 モニタリングは驚きを声に混ぜた。

「でも、現に思考反射機能への介入は成功したじゃないか。どういうことだ」

「分からん。が、おれにはどうもこれがルートピアの本来の役目のような気がしてならない。ルートピアの発明によって個人の理想郷は実現したが、みな己の世界に浸り、他者との繋がりを蔑ろにしつつある。だからこそ、ルートピアはあえて世界を共有させることで、人々を繋げようとしたのかもしれん」

 推測に過ぎないがな、とチェッカーは付け足した。モニタリングもいぶかしげに口を開く。

「しかし不思議だ。画面の向こうで客が一斉に苦しみだしたときは、さすがにやりすぎたかとひやひやしたが、誰も文句一つ言わずに帰っていった。むしろ、いつもよりいきいきしているように見えた。正直、不気味だったよ」

 チェッカーは怪訝そうに答える。

「あぁ、そう言えば、おれも奇妙なものを見た。制御装置をいじってからしばらくしたあと、測定機器に表示された客たちの脳波は、ほとんど一致していたんだ。まるで、共通の理想郷にたどり着いたかのようにな。いったい彼らは何を見たんだろうか」

「とりあえず、お詫びの通知と、次回以降から使えるサービスチケットを渡すだけで済んだのだから、よしとしよう」

 管制室の二人はまだ知る由もない。そのサービスチケットは、使われることはないということを。今日の客は、もうルートピア・カフェを訪れる必要がなくなったことを。

 利用者たちは、今日体験した世界を思い出しながら帰っていく。

 どんな贅沢も許される金色。仕事に忙殺される社会。沈黙と闇が支配する無の空間。死の危険と隣り合わせの日々。性に憧れる時期。

 異性に興味を持ち、仕事に追われ、ときに遊び、いつ死んで無へと帰すか分からない。まるで人生の縮図、いや、人生そのものではないか。

 ならば本物の現実も、もっと味わってみてもいいだろう。この世界も理想郷も、たいして変わりはないと分かったのだから。

 そして、彼らは最後に見た世界に思いを馳せる。

 それは、人類の根底にある理想郷――幼き頃に母親に抱きかかえられる幸せの記憶だった。


 いってらっしゃい。


 そう告げる母の声を背に受け、子どもたちは歩みだす。

 現実への帰路につく彼らの目には、自信に満ちた光が宿っていた。



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理想のかがみ 二石臼杵 @Zeck

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