衝動

糸目

衝動

 それは雨の日に起こった出来事。

「だからきっと六月。だって、いっぱい、雨が降るでしょ? 六月って。確か、つゆ、って言うんだよね。私知ってるよ。この前学校で習ったんだ。えへん、偉いでしょ」

 少女は胸を張る。その幼い動作に愛らしさを感じて、男は胸がいっぱいになる。同時に、ある衝動が芽生える。その衝動は、一度起これば発作と同じで、やり過ごすのを待つことしか出来ない。冷静を装い、深呼吸をする。変な汗が大量に流れても、気にしない。心を無にする。そう、無いことにする。無かったことにする。

 そう、無かったことにする。

 男は少女と同じ目線になるようにしゃがんだ。笑顔を張りつけながら。衝動は未だ、猛り狂って男の中で暴れている。

「おなまえ、なんて言うの」

「あかり」

 少女は、あかりと言うらしい。男は心の中で唱える。あかり、あかり、あかり。

「あかりちゃんは、雨、嫌い?」

「ううん。好きよ。大好き」

 案に相違して、少女は大好きだと言った。それは男にとって予定外で、男の衝動にとっては都合が良かった。雨だろうが槍が降ろうが、男に巣食う衝動は、ある一つのことのみに限られる。

「雨の、どんなところが好きなのかな」

「えっとねー、ぜんぶ!」

 無邪気に答えるあかりちゃん。男は張りつけた笑顔を更に無理やり引き伸ばし、おそらく満面の笑みを浮かべた。

「そっか。全部かー」

 男は考える。どうやってこの衝動を抑え込もう。しかし考えたところで、その対処法は二つしかない。嵐が過ぎ去るのを待つように、じっと我慢をしているか、衝動のままに動くかだ。

 その衝動に身を預けたことは、まだ、ない。それが男にとっての唯一の救いである。かと言って、これまで衝動を抑えられたことを誇りに思ったことも自信に繋がったこともない。乗り越えるだけで精一杯だからだ。それ以外のことは、何も考えられない。

 そんな考えられない中でも、心の中心だけは冷やかだ。冷徹だ。衝動に身を任せた結果のことを、冷静に見極めている。そしてその冷静な部分が言っていた。

 衝動に身を任せたら、人間廃業だよ。

「ねえおじさん。合ってるでしょ。雨がいっぱい降る日は何だって。六月で、合ってるでしょ」

「そうだね。大正解」

 言葉を探して答えながら、自分があかりちゃんと何の話をしていたのかを思い出す。そうだ。俺は問題を出したのだ。雨に関する問題を。そしてあかりちゃんは答えた。六月と。梅雨があるから六月なのだ。そう、答えた。

 だが、その問題に何の意味も無い。男はただ聞きたかったのだ。衝動がそうさせていたのだ。だから男は、たまたま下校途中の小学生に話しかけた時点で、衝動に負けていることになる。何故なら、それは男が抑え込みたい行動の一つだったからだ。

「正解? やった!」

 あかりちゃんが飛びあがる。大人から出された問題に正解した、というのが嬉しいのだろうか。どうしてそんなに喜ぶのか聞きたかったけれど、そんな相手をしている暇はない、と衝動が男を操ろうとする。主導権を、握ろうとする。

 衝動にとっては、問題などどうでもいいのだ。それはただの質問に過ぎない。そして大事なのは、それにどのように答えたか、なのだ。衝動が知りたいのはつまりこうだ。雨が好きか、嫌いか。

 そしてあかりちゃんは、まさに衝動が好む答えを出してしまった。雨は、大好き。

「あかりちゃん」

「なあに」

「おじさんのこと、怖い?」

 男はあかりと同じ目線でしゃがみ込んでいる。だから面と面が向かい合っている。見ず知らずの男と顔を突き合わせる状況。それはよっぽどの事が無い限り、不快な状況だ。

 それでも少女は言った。

「ううん。全然怖くない」

 そう言うのと一緒に、満面の笑みを見せた。それは男が作りだした歪んだ人工物ではなくて、無垢な無邪気な無菌室から培養された、天然な笑みだった。それを見て男は、あかりから目を逸らす。直視出来ない、と思ったのだ。こんなにも自分を明るく照らせる子どもという存在。その神々しさに、男は完全に怯んでしまった。

 しかしそれを、衝動は許さない。

 だからそれは、自然な動作だった。全ては衝動が作り上げた言動だった。男は抗えた、気でいた。抑え込んでいる、気でいた。あくまでそれは、気、で、その気はきっと、気のせい、の、気、だった。

 その動作は滑らかで、疑問を挟む余地もないほどに自然だった。男の両手が、するりとあかりちゃんの首を包み込む。警戒心など露ほども見せないあかりちゃん。そもそもその動作の意味するところが分からないし、あまりに自然な動きだったので、警戒を抱く間すらなかった。

「俺はね。雨が嫌いなんだ」

 男は話す。穏やかな声で。それに反し、手に、力が籠る。

「嫌い。嫌い。大嫌い。こんな衝動を抱きこむことになっちまったんだ。雨のせいで」

 喋っているのは男だ。喋らせているのは衝動だ。だけれど男は自分の言葉だと思っている。自分の本心だと信じている。それすらも、衝動に操られていることに気付かずに。

「だってさ、雨降るとさ、手、塞がれるじゃん。傘持たなきゃじゃん。それが嫌なんだよ。だってさ、絞めるなら両手だろ。こうやってガチっとさ、絞めたいわけじゃんか」

 あかりの声がか細く聞こえる。きっと助けを呼んでいる。きっと疑問符を振りまいている。どっちだろうと男には関係ない。

「だからさ、雨が好きって言う奴がどうしても嫌いでさ。だってそれって、俺を否定してるってことだろ。この衝動に抗うなってことだろ。おかしいじゃんそんなの。なあ、なあ、なあ、おかしいよな、こんなの」

 男の手には青筋が浮かぶ。幼い少女の首など簡単だ。赤子の首とおんなじだ。

 男はゆっくりと手を離す。離したら、衝動が離れていくのが分かった。男は手を見る。小学生の女の子の首を絞めた、その手を。

 震える。手が震える。それがどうして震えるのか、男には分からない。きっと衝動が過ぎ去った安堵感から。きっと力を入れ過ぎたせいで感覚がおかしくなっているから。きっと、怖いから。

「いや、違う」

 それは雨の日に起こった出来事。

「雨の中で傘を差さなかったから、寒がっているんだ」

 その雨は、ちょうど今、降り始めた。衝動に身を委ねている間、一滴も降っていない。それでも男は納得した。衝動を上手く抑え込めたことにした。

 立ち上がる。下に目をやれば、二度と立ち上がらないあかりちゃん。

「……あかりちゃん?」

 それは雨の日に起こった出来事。

「傘も差さずにそんなところで。そっか。あかりちゃん、雨が好きって言ってたもんね」

男は雨に打たれながら、鼻唄混じりに、その場を離れた。もうそこに、衝動は無い。

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衝動 糸目 @itome

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