【短編】 記憶のトンネル

塩沼 哲(しおぬま てつ)

第1話(完結)

 流れゆく景色。途切れることのない世界。

 単調なリズム。断続的な振動。


 列車の窓から見える景色を眺めながらぼんやりと考える。多分最初から分かっていたのだと思う。

 あれから30年の歳月が流れた。長くて、短い30年。


 世界は変わった。

 iPS細胞の発見から始まる再生医療の発達。ヒッグス粒子の存在証明によってもたらされた素粒子物理学、そして宇宙物理学の著しい発展。15年ほど前に端を発するこれらふたつの出来事が世界を大きく変えた。

 こういう世界が来ることを誰が予測できただろうか。どんな天才にも間違いはあるということか。


 夕暮れ時。目の前を流れるオレンジ色の世界。時々自分の顔が浮かんでは消えていく。

 連続的な世界と不連続な自分。なかなか面白い喩えではないか、と思う。

 車窓に映る自分の顔が30年という時間の長さを物語っているように感じる。長い長い30年。そして短い30年。


 そう、最初から分かっていたのだ。


 彼に最初に出会ったのは30年前だ。

 それは僕が10歳になる誕生日の夜だった。母とふたりきりで過ごすバースデーだった。

 父は物心がついた時からいなかった。病気で死んだと母からは聞いていた。いつ死んだのか、何の病気で死んだのかは教えてくれなかった。でも僕の事をとても大切に思っていたことは確かだと言っていた。

 死んでしまったけれど、いつか出会えたら良いなと思っていた。


 誕生日の夜、僕は母に連れられて家の近くにあるファミリーレストランへ行った。ささやかな食事だった。

 その日、母は僕に手袋をプレゼントしてくれた。茶色の毛糸の手袋だった。手首のところに小さく僕のイニシャルが縫い込んであった。サイズもぴったりだった。

 「ありがとう」 と言いたかったけれど恥ずかしくて言えなかった。


 寒い夜だった。家に帰る時に早速その手袋を使った。母がプレゼントしてくれた手袋はとても暖かかった。心も温かくなった。

 母と一緒に食事をした時間を思い出す。初めての外食だった。お金持ちになった気分だった。それがとても嬉しかった。

 暗い夜道を歩きながら僕は興奮していた。世界が少し違って見えた。いつも歩いている道だけど、この日は別の道を歩いている気分だった。


 彼は家の前に立っていた。

 ふと夜風の冷たさを感じた。

 知らない人だった。

 手には大きな花束を持っていた。淡い青色のダウンコートを着ていたのを覚えている。コートの色を覚えているのは僕の好きな色だったからだ。

 彼は花束だけでなく、もうひとつ何かを持っていた。

 スケートボードだ。水色のリボンが付いていた。

 「あの人は誰?」

 僕は母に聞いた。

 「知らない」

 母が答えた。その声は驚いたような困惑したような感じだった。


 彼が僕の前に歩いて来る。

 「誕生日おめでとう。10歳になったね」

 水色のリボンが付いたスケートボードを差し出しながら彼が言う。

 どうして僕の誕生日や年齢を知っているの・・・ と思う。不思議だけど・・・ まあいいや。それよりもスケートボードだ!前から欲しかったんだ!

 でもどうしてスケートボードが欲しかったことを知っているんだろう。僕が公園で滑ったり飛んだりしている人を眺めていたのを見ていたのかな。

 「知らない人から物をもらっちゃダメよ」

 母が言う。

 「そうだよね。でもこれはどうしても受け取って欲しいんだ」

 彼がスケートボードを差し出しながら言う。

 彼の顔が僕の顔に近付いてくる。

 「10歳の誕生日おめでとう」

 ニコっと笑いながら彼が言う。

 穏やかで優しそうな表情。でも僕を見つめる眼は力強い。力強くて、そして綺麗な目だ。


 ガタンと列車が揺れる。

 ふっと意識が戻る。

 だんだんと暗さを増していく外の世界。

 車窓に写る自分の顔を見る。今の僕はどういう眼をしているのだろうか。あの時のあの彼のような目をしているのか。吸い込まれそうなほど綺麗で強い意志を持った目をしているのだろうか。

 彼の眼を見た時、僕はああいう眼をした大人になりたいなって思ったんだ。


 意識がまた遠い過去へと引き戻されていく。

 力を感じる眼。優しそうな笑顔。年齢は母と同じくらいか、それよりも少し上くらいだろうか。

 何となくだけど、どこかで彼を見たことがあるような気もする。

 どこで見たのかな。やっぱり僕がスケートボードをしている人を眺めている時に、彼が近くにいたのかもしれない。


 彼の顔が僕から離れる。

 母の方を向く。

 「10歳まで育ててくれてありがとう。感謝しています」

 大きな花束を差出しながら母に言う。

 ふと感じる違和感。

 変な事を言う人だな。

 母は冷静を取り戻していたけれど、その言葉を聞いてまた困惑してしまったみたいだ。

 最初から彼が不思議な目で母を見ていたことには気付いていた。母を知っている人なのだろうか。でも母は知らない人だと言っていたっけ。いったい誰なのだろう。

 まあいいや。それよりもスケートボードなのだ!


 そう、あの時僕は考えることを止めてしまった。10歳だったし、分からないことを考えるよりもプレゼントの方が大事だった。

 もし彼をもっとよく観察していれば何かに気付いたのかもしれない。そんなことを考えても仕方のないことではあるけれど・・。


 スケートボードに付いているリボンを外している時、彼が母の耳元で何かを囁いたような気がした。

 困惑している母の表情が一瞬だけ凍りつく。

 いや、見間違いだったのかもしれない。そういう気がしただけだ。

 母は呆然とした様子で花束を受け取る。

 「また来るね」

 僕の方を振り向いてそう言うと、彼は去って行ってしまった。


 ほんの数分間の出来事。30年前に起こった数分間の出来事だった。


 それから彼は毎年僕の誕生日に来るようになった。

 その度に母は困惑したような表情をしていた。

 いつも大きな花束と色違いのスケートボードを持っていた。スケートボードは溜まる一方だった。置くところに困ったけれど嬉しかった。

 回を重ねるたびに色々な話をするようになった。

 歌や音楽の話。僕は楽器に興味を持つようになった。

 宇宙の話、未来の話、技術の話。僕は物理学が好きになった。

 恋愛や友情、そして人生の話。幸せとは何か、そして人間として生きることの意味を教わった。

 本をプレゼントしてくれることも多かった。どれも面白い内容だった。

 読む本がない時は近くの図書館や学校の図書館で借りるようになった。

 高校生になってアルバイトを始めてからは、本屋に行くのが楽しみになった。

 自己紹介をする機会があるたびに、趣味は読書です、と言うようになった。

 本の中で僕は色々な世界を体験した。本は先生であり、冒険の舞台でもあった。

 彼がいなかったら本を好きになることも無かったのかもしれない。

 僕は毎年彼が来る日を楽しみに待つようになった。


 でも20歳になる誕生日を最後に彼は来なくなった。

 理由は分からなかった。母は何かを知っていたのかもしれない。

 いや、知っていたのだ。最初から全てを知っていたのだ。今ならそう言い切れる。

 僕もそうではなかったのか?最初から分かっていたのでは?

 そう、本当は分かっていた。最初から分かっていたのだ。彼が誰だったのかを。


 列車は間もなく長いトンネルに入る。


 世界は変わった。この15年間の出来事によって。

 2013年に物質に質量を与えるヒッグス粒子の存在が確認され、その後の更なる研究で粒子に質量をもたらす一般的なシステムが解明された。

 それまでの物理学では質量を持つ物質はどんなに速度を上げても光の速度に達することができないと言われていた。速度が上がれば上がるほど質量が増し、光速では無限大になってしまうからだ。無限大の質量に更に速度を加えることは不可能であり、質量のある物質が光速に達し得ないことはアインシュタインの一般相対性理論からも導き出される当然の帰結であった。

 しかしヒッグス粒子に関わる研究はこの光速と質量に関する問題を解決した。

 それ以前にも質量ゼロの粒子が存在することは知られていた。光子と呼ばれるフォトンと陽子内で強い力を伝えるグルーオンだ。

 ヒッグス粒子の研究者たちはこのふたつの粒子が質量を持たない理由を解き明かすことに成功した。

 その研究をもとに全ての粒子からその状態を変えずに質量だけを取り除く方法が発見された。

 それは世界を揺るがす発見だった。

 質量が無くなればどんな物質でも質量無限大という特異点を超えて 「光の速度に達する」ことができるからである。

 アインシュタインの相対性理論とヒッグス粒子に関わる研究が導いたこの新たな理論は 『質量ゼロ特化理論』 と呼ばれた。

 その後の研究で、ある一定条件のエネルギーを与え続ければ物質が 「光の速度を超える」 ことができることも判明した。

 この更なる発見に全世界が震撼した。

 すぐに国際的なプロジェクトが組まれ、科学者および技術者数百名による共同研究が始まった。

 『質量ゼロ特化理論・超光速度実用化プロジェクト』 と命名されたこのプロジェクトのメンバーたちは数年後、実用に足りうる質量除去装置を開発した。

 その後数年間に及ぶ安全評価でその装置を人体に使用しても問題がないことが実証された。

 光速に達するため、またそれを超えるための障害であった質量。その質量を人体も含めたあらゆる物質から取り除くことができる装置の完成。それが意味するものは 『人類はついに光の速度を超えて移動する方法を手に入れた』 ということであった。


 世界は変わった。これから人類はどんどん宇宙へ旅立って行くのだろう。

 宇宙以外の場所にも・・・ か。そう、30年前に出会った彼が最後に話してくれたように。


 ガタン。

 大きく電車が揺れて物想いから現実の世界に引き戻される。

 車窓から見えるオレンジ色の世界。

 唐突に視界が真っ黒になる。トンネルの中に入ったようだ。何回目のトンネルだろうか。

 「記憶のトンネル」 または 「想い出のトンネル」 と呼ばれる一連のトンネルである。

 このトンネルを抜けると目的地に着く。そろそろ降りる準備をしなければ。


 アインシュタインの一般相対性理論は速度による時間の流れの変化を利用して未来に行く可能性を導き出した。しかし質量による光速の壁があるため過去へ行くことは不可能だというのが一般的な理解だった。


 車内アナウンスが聞こえてくる。


 ヒッグス粒子から始まる一連の研究開発はその光速の壁を打ち砕くことに成功した。

 人類の叡知によりもたらされた未来だけではない過去へのタイムトラベル。


 「・・・間もなく30年前。30年前」


 そう、最初から分かっていたのだ。彼が誰だったのかを。


 僕は列車を降りるために網棚の上に置いていた花束、そして水色のリボンが付いたスケートボードを手に取った。



 (了)

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【短編】 記憶のトンネル 塩沼 哲(しおぬま てつ) @Tetsu_Shionuma

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