記念日には青い薔薇を(2/3)

 ……お嬢ちゃん、もう一杯、お茶はいかが? いらない? それならお菓子は――ああ、お母様に止められているのよね、年寄りは忘れっぽくって、ごめんなさい。では私はちょっと失礼して――うん、良く焼けているわ。良い出来ね。ええ、これは私が今朝焼いたのよ。バターと卵をたっぷり使って、薔薇のエッセンスを一滴、二滴。ほら、とっても良い匂いでしょう。ふんわりと甘くって蕩けるようで、まるで砂糖漬けの花びらを食べているみたい。これを食べると何だかとてもほっとして……夢見心地になってしまうの。とはいっても、本当にうっとりするだけで、夢を見るほど眠ることなんてできはしないんだけれどね。


 そうなの、困ったことでね。この何十年、眠れない夜が続いているの。もちろん、だからといって、昼間眠れるってわけでもないわ。けれど、お嬢ちゃんみたいに不意のお客様とお話しするほかは、この温室でこの子たちの世話をしているだけの生活なんだものね。不自由をしていないことに感謝するべきなのかもしれないけれど……。


 お薬? ええ、いただいているわ。睡眠導入剤――眠くなるお薬ね。でもそれにしたって効き目の軽いものじゃ役に立たないのよ。だから、とっても効くやつをもらっているの。けれど、いいえ、残念ながらその薬でも眠れないのよ。不眠症っていうのでしょうね、まったくしようがないものだけれど。


 それでも、若い頃は眠れないなんてことはなかったのよ。それでなのかしら、かかりつけのお医者様は精神的なものだろうっておっしゃるんだけど……ええ、それはその通りなのよ。それで……実は自分で原因もわかっているの。でも、原因がわかったからって、物事が解決するわけじゃない――そうでしょう? ええ、そうね、あなたの小さい弟と同じことね。あなたが苛立っているのは弟のせいだけれど、それがわかったところでどうなるわけではないものね。


 私が眠れないのも、それと同じなの。自分で原因を知っていても、どうしようもない――そう、話を途中でやめてしまったのだったわね。私の子供のお話よ。産声も上げることなく、死んでしまった私の子供のお話。


 あらいやだ、私ったら。こんな話、小さいお嬢ちゃんにするものじゃないのに、ごめんなさい。……まあ、あなたは優しいお嬢ちゃんね。そんなに私、悲しそうだったかしら。そうね。そうよね。子供を亡くして悲しくないはずがないのよね。……小さいあなたに気を使わせるだなんて、だめな老人だわ。……ええ、そうなの。それなら話してしまおうかしら。私は――死産してしまったのよ。


 死産、ってわかるかしら。いいえ、知らないのは幸せの証よ。あのね、赤ちゃんはね、親指の先くらいの小さな小さな卵から、十月十日をかけて人間の形に育っていくの。もちろん、初めはお母さんのお腹から外へ出ることはできないけど、大きくなるにつれて、お腹の外でも生きていけるようになるのよ。……そうして、それほど大きく育ったのに、お腹の中で死んでしまうのが死産というの。


 どうして死んでしまうのかって? そうね、理由はいろいろあるわ。もともと何かの障害があって、生まれても長くは生きられない子だったということもあるし、お母さんからの栄養がうまくいかなかったっていう場合もあるし……。私の場合は……お母さんと赤ちゃんと繋ぐ管――へその緒が、赤ちゃんの首に絡まってしまったの。ええ、まるで首を絞められてしまったみたいに、きつくへその緒が絡みついて……。


 何時間も陣痛に苦しんで、ようやく産まれるってときになって、突然よ。子供の心音が聞こえないってお医者様が焦りだしたの。嘘よ、と私は思ったわ。だって、気を失うほどの陣痛は、赤ちゃんが元気で生まれようとしている印だって、説明を受けたんだもの。だったら、赤ちゃんが死んでしまっていたら陣痛はなくなるはずでしょう? それなのに――。


 でも陣痛が去って気がつくと、分娩室はしんとして、とても静かだった。赤ちゃんの産声が聞こえないのよ。でも、どうか神様――祈るような思いで見ると、そこには、窒息して真っ青な色をした赤ん坊がぐにゃりと息絶えていたの。それはそれは青い肌をして、苦しそうに目を閉じたまま……


 可哀相に、どんなに苦しかったことでしょう。私は赤ちゃんを抱きしめて、泣き叫んだわ。そして生まれて初めて神様に祈った。私の命を差し上げますから、どうかこの子を救って下さい、どうかこの子の青い肌を薔薇色に蘇らせて下さい――。


 ええ、誰でも、親ならそう思うはずよ。特に母親ならばね。けれど、考えなくても当たり前のことね……私の赤ちゃんは息を吹き返すことはなかった。私は動かないその子と一晩過ごし、それから遺体と共に退院したのよ。


 ……こんなときにまでお菓子をつまむだなんて、食い意地の張ったおばあさんと思わないでね。ええ、悲しかったのは昔のこと。気が遠くなるほどの過去の向こう。けれどね、やっぱり思い出せば昨日のことのように蘇るのよ。この手に抱いた冷たい体、母の温もりも届かない遠くへ行ってしまったあの子のことを。


 だからそんなときは、この薔薇の匂いのお菓子を食べるのよ。どうしてかしら、食べている間はあの子は私の体へ帰ってくる、そんな気がするの。そりゃあ気のせいなんでしょうけどね。あの子はもう土へ還ってしまったのだから……。


 なあに? 子供のお父様は誰だったのか、ですって? ……あら、もしかして私に気を遣ってくれたつもり? ふふ、ありがとう。ええ、そうね、思い出すなら悲しいことより楽しいことがいいに決まってるわ。それに、恋物語はいつでも華やかな秘密と決まっているわ。


 あら、そう。あなたのお父様とお母様は、大学でご学友だったのね。いいわねえ。私は高等女学校を出ただけよ。そう、早くに死んだ私の父は昔気質でね、女が学問をするものじゃない、ってそう言ったものだから。それなら女性は何をするのかしらって? それはね、幸せな結婚をして子供を産むことよ。それが唯一無二の女の役割。もちろん、いまはそういう時代ではないのでしょうけれども。


 それなら、私が幸せな結婚をしたか? さあ、どうかしら……いいえ、お嬢ちゃんには秘密を打ち明けると言ったのだものね。はっきり言ってしまうと、私は結婚をしなかったの。なら、どうして子供ができたのかっていうとね……。


 そう、道ならぬ恋、とでも言っておきましょうか。いいえ、決して美化しているわけじゃないの。けれど、そう――若くて世間知らずだった私は、乗り越えるべき障害に愛を燃やしてしまったのよ。言っておきますけれど、お嬢ちゃんは決して見習ってはだめよ。障害を乗り越えた先に待っているものは永遠の愛なんかではなく、後ろ指を指されるだけの茨の道なのだから。


 相手の男性はね、既婚者だったのよ。そう、既に奥様がいらっしゃる方。よく知ってるのね……テレビドラマ? 私はあまり見ないけど、最近じゃそんなものがやっているの? まあ、不倫に嫁姑? すごいわね、いえ、もちろんあなたみたいなお嬢ちゃんが見るべきじゃないんでしょうけど。そう、最近の子が妙に大人びているのは、そういうドラマのせいなのかも知れないわね。いいえ、これは独り言。話の続きは、ええと――どこまで話したんだったかしら。


 そう、道ならぬ恋。その善し悪しは別として、若かった私はそりゃあ夢中になったものよ。イケメン? ふふ、そうね、彼はとてもハンサムだったわ。日本人の割りに彫りが深くて、瞳は焦げ茶色をしていてね。


 彼に奥様がいらっしゃるのは知っていたわ。左手の結婚指輪でね。おかしいでしょう、私と会うのに彼は結婚指輪をつけたままだったのよ。そういうことに頓着がない人と言ってしまえばそれまでだけれど、そうね――あの頃の私には、彼が自由奔放に生きているように見えたのね。左手のことなんてちっとも気にならなかったし、それどころか、彼が指輪をつけている方が、背徳感に溢れているとさえ感じていたの。ええ、悪いことをしているっていう快感のことよ。


 密会場所は決まって薔薇の咲く、この温室だったわ。ええ、両親を早くに亡くした私が、早々に受け継いだものよ。彼は夜な夜なここへ忍んで来て……むせかえるような薔薇の甘い香りの口づけをしたわ。まるで私は少女漫画の主人公だった。真っ赤な薔薇の咲き誇る中、彼と抱き合い、夜の明けるまで……


 いいえ、そうじゃないの。その頃、ここに植わっていた薔薇は赤い色をしていたのよ。情熱の赤、燃えさかる炎の色をね。けれど……それにしても、いま思い返せばひどいことをしてしまったのだとも思うわ。もちろん、奥様によ。だってお嬢ちゃん、あなた、考えられる? 愛し合い、一生を添い遂げようと誓った男性が、ほかの娘とうつつを抜かしているなんて。絶対、嫌? ええ、そうよね、その通りよ。まあ、相手をやっつけてやる、ですって? 勇敢なのね。私も、お嬢ちゃんの言うように、手ひどくやっつけられたほうがどんなによかったか。その真っ直ぐな勇敢さが、彼の奥様に少しでもあったら、といまでは思うわ。


 ええ、奥様はとても大人しい方だった。大人しくて、何もかも胸へ溜め込んでしまう方。あの方がお花を育てたなら、私のように薔薇でなく、しとやかな百合や蘭をお育てになったのだろうと思うほど。あなたのお母様は、あなたのように勇敢かしら? ああ、そう。それならいいわね。それに奇跡の青い薔薇を贈るほど、お父様と仲良くいらっしゃるんですものね。心配はないわ。


 けれど――そう、彼の奥様は違ったのよ。私と彼のことに気がついても、何にもおっしゃらなかった。それどころか、私たち二人のため、と身を引いてしまわれた。ええ、彼の元から去ってしまったのよ。打ちのめされる覚悟をしていた私は、肩すかしを食らって……けれど結局は抱き合って喜んだわ。だってそのとき、私のお腹には赤ちゃんがいた。十月十日後に死産してしまった、あの子がね。

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