第4話 記念日には青い薔薇を
記念日には青い薔薇を(1/3)
お嬢ちゃん、それに触っちゃいけないわよ。
……あら、ごめんなさい、つい大声を出してしまって。いいえ、脅かすつもりはなかったのよ。ただ、美しく見えても、薔薇の棘はとっても危ないものなの。刺せば指に赤い血が滲むし、青い薔薇は赤く染まってしまう……いえいえ、そんなに謝ることじゃないのよ。私もちょっと驚いただけ。だってこの温室に私以外の人がいるだなんて、思ってもみなかったから。
でも、それにしてもお嬢ちゃんはどうしてここへ入って来られたのかしら? 家の周りには生け垣を並べてあるし、温室はフェンスで囲ってあるはずよ。……ああ、そう。そういえば、少し破れていたかも知れないわね。あなたのようなお嬢ちゃんがやっとくぐれるほど、小さな穴が。あなた、そこをくぐってきたのね。
ほらほら、謝らないでって言ったでしょう? 私、ちっとも気にしてないのよ。それどころか年甲斐もなくうきうきしているの、あなたがここを訪ねてくれて。この辺りの子じゃないでしょう、ええ、簡単にわかるのよ。だって、あなた、私をちっとも怖がらないじゃない。それなら怖がるべきかって? さあ、どうかしら。ふふ、こんな答えじゃ、何だか少し恐ろしいみたいね。
ここへ入る前に、私のお家を見なかった? ええ、古い洋館なの。ずうっと昔に建てられたのを、修理しながら住んでいる――だからかしら、この辺の子たちは、私のことを魔女だなんて呼んでいるのよ。そして私が魔女なら、この温室はさしずめ秘密の薬草園。夜には、この温室を人魂がたくさん飛び交っているんだって噂なのよ。魔女の生け贄になった、哀れで悲しい人魂がね。
何ですって、燐? あなた、もしかして燐ておっしゃった? ……まあまあ、これは物知りで勇敢なお嬢ちゃんだこと。お墓で人魂が出る理由は、人間の骨に含まれる燐が発光するから、ですって? 自由研究で調べたの? ええ、それで? それなら、薔薇の肥料分に含まれる燐が光ってるんじゃないか? まああ、これはこれは……ええ、私、何度でも驚いてみせることよ。だって、そんなことを話してくれたお客様は、あなたが初めて。本当に素晴らしいわ。
さあさあ、お客様にはおもてなしをしないとね。いつまでもそんなところに立っていないで、せっかくだからゆっくりしていってちょうだい。ほら、おやつにと思って、お菓子と紅茶を用意してあるのよ。どうぞ、気にせず召し上がって――。
え? まあ、わたしったら。そうね。そうよね。ええ、もちろんそれはあなたのお母様が正しいわ。知らない人からは、物をもらっちゃいけない、それだけは気をつけなくっちゃいけないわ。特にあなたのような、可愛らしいお嬢ちゃんは。いいこと、見た目は優しそうに見える人でも、中身はまるっきり違うだなんてこと、よくあることよ。それが男性ならなおさらのこと。力任せにねじ伏せられたら、女の力じゃどうしようもないわよ。
でも、気をつけなくちゃいけないのは、私のような白髪のおばあちゃんでも同じ。ご存じかしら、力のない女性や老人が使うのは毒、と昔から相場は決まっているのよ。その上、年寄りは長く生きている分、手練手管にも長けているわ。自分の身を守るために、よおく覚えていないとね。
だけど――それでも、このペットボトルのお茶ならいかが? これなら、お店から買ってきたそのままで新しいから、何か入っている心配はないし、お茶くらい飲まなくっちゃ、温室の中なんですもの、少し暑いでしょう。それに今日はまたとない秋晴れで、ご覧なさいよ、あの空の青いことといったら、見上げているとそのまま吸い込まれていくよう。今朝開いたばかりのこの薔薇と、青さを競い合っているみたい。
あら、そう? それならお茶を差し上げましょうね。はい、コップは綺麗に洗ってあるわ……さあ、どうぞ。まあ、いい飲みっぷり。よほど喉が渇いていたのね。汗で、額に髪が張りついているわ。さ、遠慮しないで、もう一杯。あなたったら、本当に喉が渇いていたのね。いいえ、いいのよ。何杯でもお飲みになって。
……それにしても、長く生きるうちに物騒な世の中になったものね。知らない人と話をしてはいけないとか、お菓子をもらってはいけないとか――でもそれも当然よね。最近は、誘拐だの連れ回しだの、親御さんの心を痛める出来事がごまんとあるのですもの。きっと神経を休める暇もないんでしょうね。……ええ、このあたりもね、毎年行方不明になるお子さんがいるんですって。皇族もいらっしゃる行楽地ですからね、お休みが続くと家族連れが多くなって。あちこち観光するうちに、小さいお子さんがはぐれてしまって。
お嬢ちゃんも東京からいらしたの? あらそう、ご両親と、弟さんがいらっしゃるの? 弟さんはまだ赤ちゃんなのね。そう、白い肌に薔薇色の頬をした……生まれて三ヶ月。そう、じゃあ静養にいらしたのね。風が丘のペンション……ええ、丘の上の白い建物ね。ここからもよく見えるわ。あら、どうしたの。そんなに悲しそうなお顔をして。いいえ、いくらおばあちゃんだってお嬢ちゃんくらいの年頃だったこともあるのよ。よおくわかるわ。お母様が赤ちゃんにかかりきりで、お嬢ちゃんはそれが悲しいのね。
ふふふ、悲しいんじゃなくて、むかつく、ってあなたはおっしゃるのね。ええ、ええ、わかりますよ。私の言葉に言い直すなら、憤懣やるかたないといったところですわね。ええ、簡単にむかつく、でもよろしくてよ。
一人で遊んでいてもつまらないから、ここにいらしたんでしょう。おやおや、私も一人きり? そうおっしゃるの? いいえ、けれどそんなことはないのよ。この温室は決して私一人きりってわけじゃないの。だってほら、ご覧なさい、この子たちがいるでしょう?
ここに咲く薔薇を、この子って呼ぶのはおかしいかしら? けれど――薔薇にはいろいろな言い伝えがあるのをご存じ? ええ、薔薇の棘に指を刺したら、薔薇は赤くなってしまう、さっきそう言ったわね。それも薔薇に関わる言い伝えの一つよ。
そもそも、なぜ薔薇は赤いのか、あなたはご存じかしら。いいえ、色素がとか、遺伝子が、とかそういう身も蓋もないお話ではなくて。そう、伝説。そう言った方がよろしいのかもしれないわね。
古くはギリシャ神話の美の女神、アフロディテ。薔薇はその誕生を祝って創られたの。そして、その花びらが赤いのは、アフロディテが瀕死の恋人の元へ駆け寄ったとき、その棘に血を流し、その血の色に花が染まったからだと言われているわ。だから、薔薇の赤は、女神の血の色。
言い伝えはそのほかにもいろいろあるわ。例えば――薔薇の花の下で話すお話は、秘密のお話。そんな言い回しを知っている? これはローマ帝国の時代のお話。薔薇の花を吊した天井の下で会議をするときには、その話の内容は秘密にしたところから、そんな言い回しが生まれたらしいわね。
ええ、そうなの。ここは秘密の花園。だからお嬢ちゃんにだけは、この薔薇の秘密を教えてあげようかしら。ちょっとこちらにいらっしゃい……お耳を貸して。まあ、小さなお耳だこと……あのね、ここに咲いている青い薔薇は、実は私の子供たちなのよ。
ふふ、驚いたかしら。それとも――あら残念、お顔を見るとそうでもなさそう? ええ、まあ、そうよ。そういう意味もあるわね。あなたのおっしゃる通り、薔薇は――この子たちは、それこそ人間の子供と同じくらい、とっても手がかかるものね。毎日お水をあげるのはもちろんのこと、きちんとした剪定に、温度管理――肥料だって特別なものをあげているのよ。ふふ、そうね、人魂が出るような肥料ね。でもそうしないと、この美しい青は咲かないのよ。
あら、驚いた。あなたって、本当に物知りなのね。ええ、青い色の薔薇は、とっても珍しいの。世界中の園芸家――園芸家はわかるかしら? お花や植物を育てたり、新しい品種を生み出す人たちのことよ――その園芸家、あらゆる薔薇に通じた彼らに、作り出すのは不可能とまで言わしめた色が、この青い色。青い薔薇を生み出すことは、気が遠くなるほど昔からの園芸家たちの夢だったのよ。
ええ、もちろん彼らはまるっきり青を生み出せないわけじゃなかったわ。青は青でも、紫色に近い青は創り出すことが叶ったの。けれど、やはりそれは本当の青だなんて呼べない代物。でも、ご存じかしら? 何年か前に、日本の企業が青い薔薇を生み出すことに成功したのよ。何でも、青いパンジーから取り出した遺伝子を薔薇のそれに組み込んで……。
難しいことはわからないけれど、とにかく喜ばしいことに、園芸家の長年の夢は叶ったとされたわ。だけどそれも……あら、その奇跡の青い薔薇を、結婚記念日にお父様がお母様に差し上げた? まああ、素敵。お母様はさぞかしお喜びになったでしょう? そうでしょうねえ、うらやましいわ。女性は花だなんて食べられもしないものを喜ぶ、だなんておっしゃる殿方がいらす中で、いいわねえ、ご両親はきっと仲むつまじくいらっしゃるんでしょう。でも、あなたのような可愛らしいお嬢ちゃんがいらっしゃるんだもの。それも当然なのかもしれないわね。その上、可愛い赤ちゃんまで生まれたなんてことになれば、また……。
私? ええ、いいえ私は――いえ、そうじゃないの。そんな顔しなくっていいのよ。そうなの、残念なことに、私には子供がなくって……いえ、そんな言い方はおかしいわね、この薔薇たちは私の子供なんだから。けど――
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