人形屋(2/2)
もともと勉強についていくことも大変な学校生活に刺繍が加わり、私は以前より忙しくなった。けれど、刺繍に誘ってくれたバーバラ、クレア、キャサリンの三人と友達になった私は、そんなことが気にならないくらい浮かれていた。
それもこれも、アビーのおかげだ。
私はそう思い、アビーを決して粗末にすることはなかった。私たちは毎晩一緒のベッドで寝たし、朝食には彼女を連れ出して一緒に食べた。
「聞いて、今日、クレアがね……」
友達との会話を報告するのを忘れなかったし、宿題の合間にも話しかけた。
そうするうちに、私はアビーが人形ではなく、本当に一人の人間であるような気がしていた。というのも、思い過ごしだろうが、私の話を聞く彼女の表情は、話題によって微笑んだり怒ったりしているように思えるようになってきたからである。
奇妙な話を聞いたのは、そんなときだった。
「ねえ、ライラのおばさま、やっぱりいけないみたいね」
「あら、そうなの? 元気におなりになったって聞いたけれど」
「ええ、けれど、実はそうじゃなかったのよ」
「そうじゃないってどういうこと? 元気になったというのは嘘だったの?」
「いいえ、違うの。元気にはおなりになったのは、おなりになったのよ。けれど、その理由がね……」
「なあに? もったいぶらないで教えてちょうだいよ、バーバラ」
刺繍の手を止めたキャサリンが聞くと、バーバラは私たちを見回し、声を潜めた。
「亡くなった赤ちゃんの代わりに、おじさまったらお人形を差し上げたんですって」
「人形?」
馴染みのある言葉に、私はつい反応した。「ライラのおばさま」も、その「おじさま」というのも初めて聞いた言葉だ。しかし、私が事情を把握していると思っているのか、バーバラはうなずいて続けた。
「おじさまも酷なことをなさるわ。そうお思いにならない? だって、おばさまは赤ちゃんを亡くしたばかりなのよ。それなのに人形なんて……おばさまが可哀想」
「でも、お人形をいただいて元気になられたなら、それでいいんじゃなくって?」
キャサリンが首をかしげる。しかし、バーバラは、
「違うのよ。元気になられたって言っても、おばさまは人形を本当の赤ん坊だとお思いになってるからなの。ご自分の産んだ子供だと思い込んで、毎日お世話をしてるそうなのよ」
「それは……可哀想ね」
クレアがため息をついた。
「そんなお人形、早くどこかへやらないと。おばさまが現実を見られなくなってしまうわ」
「ええ、おじさまもそう思ったらしくて、引き離そうとしたんだけど、ダメらしいのよ」
「ダメ?」
「おばさまの言うことには、そのお人形が本当に動いたり声を上げたりするんですって。もちろん、そんなはずはないけれど、おじさまも買った場所が場所だからって悩んでらして……」
「買った、場所?」
「ええ、ご存じない?」
バーバラはアビーに似た青い目で私を見た。
「ロンドンのどこかに、不思議な人形を売る店があるんですって。何でもその店には気味の悪い人形がずらりと並んでいて――人形が買う人間を選ぶんだとか」
ぞっと身震いをするように、腕を組む。私が黙っていると、続けてクレアが、
「しかもそのお店、返品しようと思って訪ねても、同じ場所にはないんですって。不気味じゃない? それに買った人形も決して捨てられないって言うし……」
「捨てられないってどういうことなの?」
情が移ってしまうという意味だろうか。しかし、今度はキャサリンが首を振った。
「違うのよ。いいこと? 人形は捨てても捨てても、戻ってくるのよ。買った人の元にね。どんなに遠くに捨てても、例え火にくべてしまっても……」
炎に溶けた人形がよちよちと歩いてくるさまを思い浮かべて、私は思わず青ざめた。すると脅かしすぎたと思ったのか、嘘よ、バーバラが笑った。しかし、すぐに真顔に戻り、
「おじさまが買った店も、見つからなかったらしいけど……」
そうつぶやく。
私たちはそれから何となく黙り込み、今日の分の刺繍を進めた。
「ライラのおばさま」がその人形を抱えて橋から飛び降りたというニュースを聞いたのは、その次の日だった。
アンダーソン伯爵、自殺――大きく新聞に取り上げられた記事を見て、私はこれまでにないほど青ざめた。
「お姉様、今日はあの気味悪い人形は?」
少し遅く起きだしてきたベティが、席に着きながら尋ねる。
「一緒に食べないの?」
「……別に」
私は新聞を押しやると、食堂を出る。
「あら、その顔! どうしたの、具合でも悪いの?」
すれ違った母親が驚いたような声を上げたが、私は返事すらしなかった。私の頭からは、新聞に載っていた顔写真が離れなかった。
自殺した、アンダーソン伯爵。
私は彼の顔に見覚えがあった。というのも、彼はあの日、私が人形店の前ですれ違った紳士に他ならなかったのだ。
アビーを手に入れたあの日、赤ん坊のような人形を抱いていた、あの紳士の顔に。
「……アビー、ちょっとお出かけしようか」
私は出かける支度を調えると、アビーを抱え、馬車に乗った。もちろん、行き先は学校ではない。あの店だ。あの、路地裏に佇む店――。
御者に行き先を告げると、有無を言わさず、貯めた小遣いを押しつける。そして、馬車に揺られた。
アンダーソン伯爵、彼はどうして自殺なんかしたのだろう――胸の中にはそんな思いが渦巻いている。
バーバラたちの話では、「おばさん」、つまり、伯爵夫人が人形に入れ込んでいるということだった。伯爵がプレゼントした人形を本物の赤ん坊だと思い、毎日世話をしていると。しかし、夫人ののめり込みように憂いた彼は、人形を取り上げようとしていた。その結果――。
私はぎゅっと口を結んだ。
結果、取り上げられることを嫌がった夫人が自殺した、というのならまだわかる。しかし、死んだのは伯爵のほうだ。なぜ伯爵は死ななければならなかったのか。
『捨てても捨てても戻ってくるのよ』
キャサリンの言葉が脳裏をよぎる。
捨てても捨てても戻ってくる人形。夫人から人形を引き離すには、買った自分が処分するしかない、そう思い詰めたのだろうか。人形に選ばれた人間の命をもって処分を行うしかないと――。
考えすぎだろうか、私は首を振った。あの店に行けばすべてがわかる。あの老婆に会って、どういうことなのかと事情を聞けば、そうすれば――。
「別にあなたをどうするってわけじゃないのよ」
道すがら、私は弁解するようにアビーに話しかけた。
「だって、私はあなたのことをとても気に入ってるんだもの。だって、友達でしょう? いつまでも友達でいるって約束したものね」
言いながら、ごくりと唾を飲む。
いつまでも友達? いつまでもって、それはいつまで? 私が大人になって、結婚して、子供が生まれて――何もかもが変わったとしても、いつまでもアビーは傍にいる友達? それは、本当に?
無意識に、アビーを抱きしめながら、私はおののいた。
私は、どんどん変化していく。私を取り巻く環境も、すべては変わっていく。なぜなら、私は人間だからだ。生きているからだ。
だから、この短期間にもいろいろなことが変わった。マダム・エイムズには気をかけてもらったし、三人の新しい友達もできた。私は先へ進んでいく。
けれど、アビーは変わらない。だって、アビーは人形だ。だから少しの変化もないまま――「友達」のまま、「仲良し」のまま、私の傍にいるだろう。いつまでも、いつまでも。
――いつまでもって、いつまで?
私は胸の中で繰り返した。そうすると、突然、アビーの存在が耐えがたくなった。この、いつまでも変わらず、いつまでも傍にいる人形が恐ろしくて堪らなくなった。そうして、ちら、と人形の顔を見ると、彼女は怒ったような顔をしていた。
「ごめんなさい、違うの、別にそういうわけじゃなくて」
思わず悲鳴を上げるように言いながら、私はいまかいまかと外を眺めた。
外は霧で煙っている。
あの日、母と行った通りはもうすぐだ。そこで馬車を降り、あの日のように歩いてみよう。そうすればすぐに見つかるはずだ。あの店が、あの気味の悪い人形が並んだ店――。
と、自然に飛び出した単語に、私は自分で驚いた。
気味の悪い人形?
ガタン、馬車が止まる。礼も言わず、転げるように道に下りる。方角を見定め、駆け出す。
私はもう無我夢中だった。早くこの気味の悪い人形を手放したい、そんな思いで胸が破裂しそうだった。呼吸が荒い。そのせいか、思うように足に力が入らない。まるで悪夢の中にいるみたいだ。
見覚えのある靴屋の看板の下まで来る。
ああ、ここだ。ここで向こう側から同級生が来るのに気づいた。それで、私は曲がってこの路地に駆け込んだ――。
白い霧のかかった路地。私は呼吸を整えるようにしばらくそこに立ち尽くし、一歩踏み出した。
この通りの三軒目……いや、四軒目だっただろうか。とにかく、すぐにあの店が現れるはずだ。
あの大きなショーウィンドウを探して、私は注意深く歩いた。一軒目、二軒目、三軒目……ない。それなら四軒目……ない。しかし、その先は記憶にない狭い十字路だ。
――見逃したのかも。
そんなことはないとわかっていながらも、私はゆっくりと引き返した。そして、それを何度も繰り返した。どうしても見つからないとわかると、その一本奥の路地を。それから、その先の路地を。そのもっと先の路地を。ここにはあの店がない、そう自分が納得するまで。
「お嬢ちゃん、こんなとこうろうろしてたら、危ねえよ」
下町訛りに気がつくと、教会の鐘が鳴っていて、空は薄い紫に染まっていた。見上げると、汚いシャツにズボンをはいた、体格のいい男が見下ろしている。
「あんたみたいな嬢ちゃんが来る場所じゃねえ。大通りは向こうだ。わかったら、さっさと帰んな」
そう言うと踵を返す。私は思わずその背中に、
「おじさん、これ!」
抱いていたアビーを差し出した。
「人形、あげます!」
「あ? 俺に?」
男が怪訝な顔で振り返る。私は、
「娘さんとか、いらっしゃいませんか? だったら、その子に――」
必死さが伝わったのか、男はふっと笑みを浮かべた。
「娘さんはいらっしゃらねえけど、姪っ子はいるよ。だからありがたく、もらっとこうか」
そして、差し出したアビーを受け取る。
「事情は知らんが、ありがとな、嬢ちゃん。用が済んだら早く家に帰んな」
「……はい」
男の大きな背中が遠ざかっていく。
私はその背中から目を離すことができず、その場にじっと佇んでいた。いまから恐怖で足が震えている。
あの男の姪がどこに住んでいるのか、どんな子なのか、私は知らない。けれど、バーバラたちの言ったとおり、どんなに遠くにもらわれてもアビーは絶対に帰ってくる――予感ではなく、強い確信が私を怯えさせている。
なぜなら、男の手に渡ったときのアビーの表情。
あのひどく怒ったような表情は、私がアビーの逆鱗に触れたことを如実に物語っていたからだ――。
【人形屋――完】
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