第2話 人形屋

人形屋(1/2)

 その店の前で足を止めたのは、いま思うと偶然ではなかったような気がする。


 カランカラン、ドアベルの音がしたと思うと、中から赤ん坊を抱いた紳士が急ぎ足で通り過ぎた。こんな場所に似つかわしくない、フロックコートを羽織り、手袋をした男性。


 男の人が赤ん坊を抱いている、それだけで驚くべきことなのに、その高級な身なりは彼の不審さをさらに際立たせている。


 と、そこで私の目は店のショーウィンドウを捉えた。そして、彼の行動に納得まではしなくとも、少しの理解を得た気になって安堵した。


 ガラスの向こうには、たくさんの人形が並んでいた。つまり、ここは人形店。赤ん坊がたっぷりとしたフリルのついたドレスを着ていたことにも、これでうなずける。


 あれは人形だったのだ。多分、彼は娘か、それとも妻へのプレゼントを、ここで一体求めたのだろう。


 私はしばらく店を見つめ、それからゆっくりとドアを押した。カランカラン、ドアベルが鳴る。薄暗い店内には、外から見るよりもたくさんの人形が所狭しと並んでいた。


「……いらっしゃいませ」


 姿も見えないというのに聞こえた声に、私は思わずびくりとする。


「ここですよ。お嬢さん」


 声のほうを振り向くと、高いカウンターの向こう側に、老婆の顔が半分だけ覗いていた。何か作業をしているのだろうか、せっせと手を動かしている。


「こんにちは……」


 おずおずと近づくと、老婆の手元が見えた。


 ――人形の服だ。それも豪奢な。


 私が思わず見とれると、老婆はふん、と鼻を鳴らした。


「それで? いいとこのお嬢さんが何の用だい?」

「いいとこ?」


 下町訛りを聞き取れずにいると、老婆は面倒くさそうに、


「パブリック・スクールの子だろう? じゃなきゃ、雇い主がその髪ひっつかんで作業場に放り込んでるはずだからね」

「そう……なんですか」


 戸惑いながら、私はコートの袖を握りしめた。


 パブリック・スクール貴族学校どころか、普通の学校にも行けない子供がいることは知っている。けれど、それがどういうことを意味するのかは知らない。


 知らないけれど、私はもし、自分がそういう境遇に置かれたらうまくやっていけただろうかと考えた。貴族子女のあの人を寄せ付けない雰囲気よりは、きっと下町でも働くほうがマシなんじゃないだろうか。


「ろくでもないこと考えてるね?」


 老婆の目がピカリと光った。


「あんた、何かに悩んでここに来たんだろう? いいや、そうでなきゃ、こんな気味悪い店に入るもんか」

「気味悪い?」


 私は顔をしかめて聞き返した。


「ここは人形を売っているんじゃないんですか?」

「売ってるさね」

「じゃ、どうして気味悪いだなんて、そんなこと……」

「そんなこと言うと、商売が成り立たないだろうって? はん、お嬢さまは言うことが違うね。人の心配してるひまがあったら、自分の心配をするんだね」

「自分、の……?」


 老婆は呆れたように目を上げたが、針を動かす手は止めなかった。そして、


「だからさっきから言ってるだろ? あんた悩みがあるんだろうって。ああ、待った。どうしてわかったかなんて、馬鹿なことは聞かないでおくれよ。あんたみたいなお嬢さんが一人で路地に来るなんて考えられないし、大体、この店に入ってくるのは、みんな悩みを抱えた人間ばっかりなのさ」


 一気に言うと、私を睨むように目をすがめる。


「何に悩んでるんだい。言ってごらん」

「私……」


 勢いに押されて、私は思わず口を開いた。


「私、いいところのお嬢さんなんかじゃないんです」

「ふん。あたしらにとっちゃ、いいと悪いの区別しかないけどね。ま、続けて。それで?」

「それで……私はパブリック・スクールなんかに入るべきじゃなかったんです。だって、あそこはもっとお金持ちの人が入るところで、本当のお嬢様ばっかりで、私みたいな貧乏男爵家の娘なんてどうでもいいみたいで、その、友達もできなくて……」


 告白してしまうと、胸が軽くなった気がした。


 そう、私には友達がいない。毎日学校で肩身の狭い思いをしている。だから、今日も母に連れられて買い物に来たというのに、通りの向こうからやってくる同級生お嬢様を見つけて、思わず逃げ出してしまったのだ。こんな薄暗い、路地の裏まで。


「……つまり、あんたは友達が欲しくてここに来たのかい?」


 少しの沈黙のあと、素っ気ない調子で老婆が聞いた。


「人形を友達にしようとでも思ったから、ここへ?」

「いえ、それは……」


 赤ん坊を抱いた紳士を見かけたから――そう言おうとして、私は口を閉じた。


 それでは理由になっていない。彼はこの店の客だった、それだけ。私は赤ん坊と見間違えたその人形が欲しいと思ったわけでも何でもない。


「引き寄せられたんだね?」


 言い淀む私に、老婆が言った。そして、「それじゃあしょうがない」、意味不明な言葉をつぶやいた。それからやっと手を止め、縫いかけの服をカウンターに置いた。


「じゃ、探してごらん。あんたを呼んだ人形を」


 老婆は、有無を言わさぬ口調で言う。その強さに、意味もわからないまま、私はぐるりと店を見回した。と、一体の人形と目が合った。


「あの子……」


 思わずつぶやく。


「あの子です、あの子にします」


 どうしてそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。けれど、見た瞬間この子だ、そう思ったのだ。


 おかしなことを言ったかも知れないと思ったが、老婆は気にしていないようだった。踏み台を乱暴な足音で登ると、その一体を抱えて下りる。抱かせてくれるのかと思いきや、そのままカウンターの中に入っていった。


「……言っておくけど」


 人形を抱いたまま、私を睨み付ける。


「これは玩具じゃないよ。クマの縫いぐるみでも、ガラスのバレリーナでもない。


 なんて奇妙なことを言うのだろう。私はうなずきながらも、首をかしげた。けれど、心はすでに老婆の抱いた人形に囚われていた。


 ブロンドの髪に白い肌。ガラスの瞳は見たこともないくらい青く、いまにも瞬きしそうなくらい生き生きとしている。アビーだ。この子の名前はアビーにしよう。触れてもいないのにそう思う。


「お嬢さん、聞いてるかい? 人形ってのは特別なんだよ。何せ、人の形をしてるんだからね。そういうものにはどうしても魂がこもっちまう……」

「おいくらですか? お金が足りなければあとで届けさせるので、どうか……」


 堪えきれずに言うと、老婆は首を振った。


「あんたは何もわかってないね。いや、さっきの男だって何にもわかっちゃいなかったんだから、あんたみたいなお嬢さんに言ったって無駄なんだろうけど。……いいかい? これは人形だって言っただろう? 魂を持った存在なんだ。あんたは自分が産んだ子供を、お金でやりとりするのかい?」

「そんな……でも」


 ただでいい、そう言っているのだろうか。戸惑う私に、老婆はアビーを押しつけた。


「いまはわからなくてもいい。けど、理解しないままでいると痛い目に遭うよ。あんたがその子を選んだように、その子もあんたを選んだんだからね」


 彼女はそう言うと、ため息をつき、縫いかけの服を手に取った。そして、口を閉じる。


 老婆の言葉などちっともわからなかった私は、ためらいながらも、


「……ありがとうございました」


 お礼を言って、外へ出た。カランカラン、ドアベルが鳴る。私は腕の中のアビーに微笑むと、彼女をぎゅっと抱きしめ、表通りに向かって走った。




「お姉様、なにそれ、気味悪い」


 母と合流してようやく家に帰ると、開口一番、妹のベティがそう言った。


「大きい赤ちゃんみたい。どうしてそんなものを買っていらしたの?」

「この子はアビーよ。人形店でいただいたの。こんなに可愛らしいのに、気味が悪いだなんてよく言えるわね」


 ベティは人の悪口を言うような子ではない。けれど、だからこそ私はむっとして、意地悪く言い返した。


「わかったわ。きっとベティはアビーみたいに綺麗じゃないからひがんでるんでしょう。みっともないわよ」


 すると、ベティはみるみる顔を真っ赤にした。


「お姉様、ひどい! 気味が悪いものを気味悪いって言って、何が悪いのよ!」


 母へ言いつけようというのだろう、はしたなくも駆けていく。


 その後ろ姿に背を向けると、私はさっさと部屋へ戻る。ベッドの上にアビーを置く。


「アビー、今日からここがあなたのお家よ」


 語りかけながら、髪を撫でる。柔らかく腰のあるブロンドは、何できているのだろう、人間の髪にそっくりだ。よく見れば、青い目を縁取るまつげまで本物のようで、いまさらながらに私はその造りの美しさに見とれた。


 大きな目。ピンク色のくちびる。微笑んだような表情は、私の話をよく理解してくれているような気がする。


「私、あなたと友達になれてとっても嬉しい……」


 恍惚として、私はアビーにぽつりとつぶやいた。そうして語りかけているうちに、言いたいことが次から次へと溢れ、話題も家のことから学校のこと、同級生のことまで広がった。


 それでもおしゃべりは留まるところを知らず、私は結局、夕飯に呼ばれるまでの長い時間をアビーとのおしゃべりに費やした。それでもまだ物足りず、話し疲れた私が眠ったのは、もう夜も明ける頃だった。


      


「あなた、最近明るくなったわね。いいことよ」


 マダム・エイムズに指摘されたのは、アビーを手に入れて二週間も経たない頃だった。


 彼女は数学を教えている、若く聡明な女性で、女生徒たちの憧れの的だった。


「何か心境の変化があって? いいえ、これまでのあなたが悪いというのじゃないのよ。そうではなく、周りとうまく溶け込めないことを悩んでるのではと心配していたの。けれど――もう、大丈夫みたいね」


 マダム・エイムズの視線が私から外れ、肩越しに何かを見た。振り返ると、同級生が私に手を振っていた。


「あなた、私たちと刺繍をする気はなくって? 今度の校内展示会に出品しようと思っているの。もちろん、よろしかったらなんですけど、あなたは手先が器用そうって以前から思っていましたの」

「わ、私なんかでいいの?」


 戸惑いながら言うと、


「お誘いしているのは、こちらですのよ」


 彼女たちはにっこりと笑った。それは純粋に好意の笑みだった。


「もちろん、あの、私からお願いしたいくらいで……」

「それなら決まりね。さっそく図案を見ていただきましょう?」


 花のような匂いがする彼女たちのあとを、夢見心地で私は歩いた。これは大事件だった。帰ったらアビーに報告しなくちゃ、そのときが私には待ちきれなかった。

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