いぬのかお(3/3)
おれはようやっと腹を決めて、そうっと立ち上がった。やっぱり誰に気遣うわけじゃねえが、覚悟ってもんがある。そりゃ、あいつは真っ黒だから顔についた血なんぞはっきりとわからねえだろうが、覗いたときにわっとこっちを振り向かれたりなんかしたら、気持ち悪いだろ。
みし、と痩せたおれの重さにも、畳はきしんだ。水っけのねえ、かさかさに乾いたおれの手は、馬鹿みてえに震えてやがる。その手でおれは壁の穴を探る。小せえ穴なんだ。おれの目じゃぼんやりとして――
みな子
母さんがあいつを呼ぶ声。ああ、どうして死んだ妹の名なんぞ呼ぶのか。ずうっと昔に、死んじまったあいつの名なぞ。
みな子
どうしてなんだ? 母さんはどうして死人を呼ぶ? いま生きている、おれの名でなく。
みな子、みな子……
指はようやく穴を探り当て、おれはのぞき穴に片目を当てる。ざらっとした土壁がぱらぱらと落ちる。中は暗い。目が慣れるまでは、このまま何も見えやしねえ。おれは辛抱強く待った。
そのとき、ばりばり、と音がした。ばりばり、ばりばり、ばりばりばりばり、ばりばり、ばりばりばりばり……
ひい、と声を上げて、おれは尻餅をついた。
骨だ。骨が砕ける音だ。
ふいに、みな子の骨が思い浮かんだ。火葬したあと骨を拾う、あの場面だ。若い方は、骨がまだしっかりしておりますね、なんて坊主が言いやがった、あのときだ。
何の話かって? あれだよ、あのときだ。みな子の骨は、骨壺に収まりきらなかったんだ。知ってるか? 年寄りの骨は大抵砕けちまって拾えもしねえが、若いやつの骨はまだ丈夫だ。だから、あんなちっせえ壺になんか、収まらねえんだ。
そうしたらどうするって、けど骨は壺に入れなきゃなんねえ。入らねえ分も無理矢理、こう入れて、係のやつが力でもって上から砕くんだ。そのときに音がする。
ばりばり、ばりばり、ばりばりばりばりばりばりばりばりばり……
その音は、あのときの音そっくりだった。いや、本当だ。ちっとも変わらねえ、それくらい似た音だ。その音が、土間の中から聞こえてるんだ。
犬は骨を食うだろう? 馬鹿、そんなこと言ってんじゃねえよ。あいつが骨を食うにしても、だ。それなら母さんの声はどうして聞こえるんだ?
おれはもう腰が抜けちまって、立ち上がれもしなかった。穴を覗く気? そんなもん、もう微塵もねえよ。
しばらくすると、ばりばりって音は止んだ。それなら、とこわごわおれは耳を澄ました。母さんの声が聞こえるかもしれない。一体この中で何が起こってるのか、母さんの声が――。
そりゃあ聞こえねえ方がいいさ。けど、土間の中を想像すること以外に――
みな子
嘘じゃない、やっぱり聞こえたんだ。恐ろしい、そりゃ恐ろしいに決まってる。
けど、家の中におれは一人だ。助けてくれる人もいねえし、恐怖を分かち合ってくれるやつもいねえ。じゃあどうしたかって? おれはそうっと布団に戻ったんだ。ぎしぎしと畳もきしんだ。目をつむると、やっぱり母さんの声と、ぐちゃぐちゃって肉を食う音が同時に聞こえた。
でも、おれにはどうしようもない。そうだろ? もうあそこじゃ何かが始まっちまったんだ。想像もつかないような、道理じゃ説明できねえようなことが。そうなったら、おれにはもう止められねえし、止め方もわかんねえ。
とにかく、おれは眠ろうとした、もちろん、眠れるわけがねえ。けど、おれは母さんが骨になるのを見届けなきゃいけねえ。だってそうしなきゃ、おれの番はこねえんだから。
ああ、そうだよ、そのせいだ、おれがこうして疲れ果ててるのは。妄想? 違うよ、みんな本当のことに決まってる。何だよ、そんなおっかない顔して。犬? あんたほんとに頭がおかしいな。おれの話を聞いてなお、犬のことが気にかかるって? 母さんのことを言うんじゃともかく、犬のことは心配いらねえよ。あいつはたらふく食って、いびきでもかいて寝てるだろうよ。
犬が? 本当に犬なのかって、あんた何を言い出すんだ。おれだって犬とネコの違いくらいわかる――近所で犬を見た人がいない? そりゃそうだろう。おれたちは近所からいないもんとして扱われてきたんだ。犬だって同じ扱いだろうさ。
幽霊屋敷。ったく、あいつらこっちが何も言わないと思って好き放題言いやがって。あんたあいつらの言うことを信じてるのかい。悪いものが憑いてる? そりゃそうだろうさ、うちには代々貧乏神様がいらっしゃるようだからね。
それで、あんたは何しに来たんだ? お祓い? そんなもんいらねえよ。話聞いてなかったのかい? うちにそんな金はねえんだよ。金はいらねえだなんて、初めはそんなこと言ってたって、あとでケツの毛むしってくんだろ、おれだってそんなことくれえ、知ってる。馬鹿にすんな。
……帰るのかい? 怒らせたようだな。いや、ちょっと待ってくれよ、いやいや、ほんとだ。おれだってうすうす気づいちゃいたんだ。けど、こんな話、誰が真面目に取り合ってくれるってんだ。
わかった。認めるよ。たしかに、あんたの――近所の連中の言う通りかもしれねえ。そうだ、信じてくれよ。何かおかしな事が起こってる。そう言ったろ?
けど、おれにはどうすることもできねえし、もう母さんはあいつに――いや、いいんだ。やめた。忘れてくれ。だって、どうせおれだってそう長く生きちゃいらんねえ。あんたのお祓いに効果があったって、おれが死ぬことには変わりがねえんだからよ。
けど、この話にはもう少しだけ続きがある。それだけ――このことだけ、あんたに知っておいて欲しいんだ。いいかい? これからおれがどうするのか? そうそう、それだ。そのことだ。
母さんとあいつが土間に入ってから、もうきょうで三月経った。
嘘じゃねえ。ああ、声だって毎晩聞こえてくる。肉を啜るような、骨を砕くような、そんな音もな。それで――その音を聞き続けるうちに、おれの中に妙な想像がふくれあがってきたんだ。
母さんはもう生きちゃいねえ。そりゃあそうだ。人間、三月も飲まず食わずじゃいられねえからな。だから、母さんはもういないんだ。
それならあそこにいるのは何だ? ああ、あいつだ。あいつしかいねえんだ。だから、おれの頭ん中の想像はこうだ――あの狭い土間の中で、母さんを食うあいつが、母さんの顔をして、母さんの声で、呼んでる。みな子、みな子、って何度も何度も、繰り返して。
おかしいか? おれの頭は狂っちまったのか? けど、そんな想像がだんだんはっきりしてくるのを、おれは止めらんねえんだ。けど、あいつが犬でも――お前さんの言うとおり、何かおかしなものでも、おれはそいつを見届けなきゃなんねえ。
そうさ、三月も経ったって言っただろ? 今夜あたり、おれも入ってみようと思ってるんだ。ああ、もちろんあの土間に、さ。だから、最初から言ってるだろう? おれもそのつもりだったんだって。
怖いか? そりゃあ、少しは恐ろしいさ。しかし――けど、おれは恐ろしいのを通り越して、実を言えば、少し期待してるんだ。
何をか、って?
おれがあそこの戸を開ける。そうすると、中にいるあいつが母さんの顔で、母さんの声で振り向いて、おれの名を――ゆうじ、そう呼んでくれるんじゃないかと思ってな。
【いぬのかお――完】
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