いぬのかお(2/3)
ああ、場所ねえ。場所は迷ったんだ。誰も訪ねてくる人間はいねえ。だから、外でもよかった。中途半端な田舎の土地だ。広い庭がある。庭木なんか手入れしてねえでぼさぼさだから、道路側からは覗けもしねえ。
けど、外にはハエがいるだろ。おれは、あいつが嫌いでね。ぶんぶんぶんぶんぶんぶん、ああ気が狂いそうなほどうるさいったらありゃしねえ。ハエ、あいつらがこの世に存在すると思うだけで虫酸が走る。……しかしだからといって、家の中? そんなもん、論外だ。
考えた末、おれは間を取った。土間だ。あそこなら少々散らかされても、掃除が楽だし、ハエも外よりはましかもしれないし、もしかしたら入ってこないかも知れない。だから、おれは嫌がる母さんを土間に入れて、それからあいつを――犬を放り込んだ。
人でなし? 仕方ないだろう。これ以上、おれたちが母子は生きられそうにない。それなら、たったひとりの母さんだ。おれが始末をしてやらなきゃならねえ。
それとも何だ? お前さんは、二人とも汁を垂れ流して死ねばいいとでも思ってるのか? いや、おれはそれだけはどうしてもいやだった。
最初のうちは、夜な夜な聞こえたよ。みな子、みな子、って。犬の頭でも撫でてんのかね、そんな声が。犬もわかってんのかね。大人しく外へ出ようなんてことはしなかった。母さんはあれを可愛がってたから、あいつもそれで満足だったのかもしらんがね。
何だい、その顔は。ははあ、あんた信じてるんだな? 犬も恩を感じるだとか、何だとか、そんなことを。だから、いくら腹を空かせてたって、母さんの肉を食うだなんて、そんなことはしないって。
そりゃ都会で犬用の何やらしか食ってねえ、人間様のような扱いを受けてる犬どもはどうだか知らねえ。けど、うちのは違う。生まれてこの方、死骸食ってきたような犬だ。そりゃ、食えるもんと食えねえもんの違いくらいちゃあんとわかる。獣の本能ってもんがあるんだ。人間に管理されて生きるしかねえ、骨の抜けた奴らと違ってな。
けど、こう考えるとあれだな、本能を封じ込められてオモチャみてえな
人間で言えばあれだよ、目の前に缶詰があるってのに、缶切りの使い方がわからねえまま死んでくようなもんよ。それでも飼い主がいるからいいだなんて言うやつらには、ヘドが出るね。何でって、てめえの都合で命をオモチャにしてるってことを、認めてるってことじゃねえか。
ま、そんなことどうでもいいんだ。おれは別にあいつらが好きなわけじゃねえ。土間の中が、おれの思ったような状態になってくれればいいだけだ。つまり、あいつが母さんの肉を平らげて、あとは骨って状態にしてくれれば文句はない。そこにおれの未来は見える。きれいまっさらな、おれと母さんの骨がな。
けれど、肝心の母さんだ。幾晩か経っても母さんの声は途絶えない。水や食料? そんなもんあるわけがねえ。それにそんなもんがあれば、大体おれたちは食い詰めちゃいねえ。おれはどうなってんのか不思議に思って、あらかじめ開けておいたのぞき穴を覗いた。
狭い土間だ。一畳あるかどうかの。そこに、放り出された母さんの足が見える。そのほかは犬に隠れて見えやしねえ。生きてるのか、死んでるのか――。そのとき、犬が何か気配を感じたのか、おれのほうを見た。
もちろん、畜生なんかに見られてまずいことはねえ。けど、おれはさっと穴から目を離した。母さんの生死はわからねえが、別段、悪いことにはなっていない、それだけ確認すれば十分だ。
きっと母さんはまだ生きてんだ、おれはそう思うことにした。そうしねえとやってらんねえ。それに、みな子、みな子、ってあの声を、また今夜も聞かなくちゃなんねえことには変わらねえ。
犬もおかしなもんでよ。生きてるもんにわざわざ食いつきゃしねえんだな。死ぬのを、こう、じいっと大人しく待つもんだ。あれも本能なんだろうな。言うだろ、ネコは殺したてを、犬は腐肉を食うってな。
その夜だ。時計の針は午前一時を指すころ。また、母さんがみな子を呼ぶ声が聞こえた。みな子、みな子、死んだ妹の名前を呼ぶ。
ああ、いやだ。おれはそう思って、布団を頭っからひっかぶった。この陽気のいいのに、だ。飲まず食わずのはずなのに、母さんの声は案外元気がいい。おれはもう何もかも嫌になって、黙れ、て叫んでやった。
ぴたり、と声は止んだ。しいんとした夜が戻ってくる。ああ、初めからこう言ってやればよかったんだ、おれはほっとして布団から顔を出した。そして、眠ろうとまぶたを閉じた。
すると、だ。そのとたん、何か妙な音が聞こえるのに気がついた。いや、声じゃない。音なんだ。おれは耳を澄ませた。
それは、ずる、ずる、と何かを啜るような音だった。それからぴちゃぴちゃ、と舐めるような音も聞こえた。おれはびくりとした。
食ってるのか? そろっと布団から這い出ながら、おれは壁に耳を澄ませた。ぐちゃっと何かがちぎれる音、こりこり、と軟骨をかみ砕くような音。
こりゃ、食ってるな。
おれは一瞬喜んだ。何って、肉の始末だ。これで母さんは腐ることなく、きれいな骨になる。面倒は何一つおれに残らない。そして母さんの次にはおれだって――。そこまで考えて、おれはふと首をかしげた。
さっきまでみな子、みな子、とうるさかった母さんが、いまはもう食われている? うるさい、とおれが怒鳴ったとき、それが母さんの死んだときだったとでもいうのか? そして、その死の瞬間から直後、あいつは母さんをむさぼり始めたとでも?
おれは時計を見た。時計の針は一時十分を指している。さっきまで妹を呼んでいた母さんが、いまはもうあいつに食われる肉になっている。おれは少し考えて、それからごろりと布団に横になった。
もともと面倒がいやなんだ。だからこうして、犬に始末を放ったんだ。その光景を確かめることはできるが、そんなことはしたくもないし、大体、して何になる?
おれは眠ることにした。四十キロの肉だ。食べ終わるまでに、あと何日かはかかるだろう。そうしたら次はおれの番だ。無事、すべてを食ってもらえたら、それが一番いい。
眠りは浅かった。けれど、先の心配がなくなったせいか、久しぶりにぐっすりと眠れた。
けど、次の夜に異変は起きた。聞き耳を立てている限り、犬は食っては寝、寝ては食っているようだった。全くうらやましい限りだ。おれの空腹に慣れた腹は、もう音を立てることさえしねえというのに。くちゃくちゃと音は続き、おれはぼうっとそれを聞いていた。そのときだった。
みな子
声がしたんだ。おれは一瞬ぎょっとした。けど、すぐに思い直して一人で笑っちまった。何を怯えてるんだ、母さんの声が聞こえるはずがない。おれは馬鹿らしくなり、笑うのをやめた。しかし、そのとたん――
みな子
今度は確かに聞こえた。どういうわけだ? おれは急に恐ろしくなった。ぺちゃぺちゃ、あいつが母さんの肉を食う音が続いている。つまり母さんは死んでいる。それなのに、一体これはどうなってやがる?
可能性はいくらだってある。だって、おれはあの土間を覗いていない。想像だけだ。だから、何だって起こりうる。わかるだろ? あのぺちゃぺちゃいう音は、あいつが自分の体を舐めてる音かもしれねえし、母さんはまだ生きてたってことだって考えられる――考えられる?
おれは固まって動かねえ首を回して、カレンダーを見た。カレンダーっても、おれの手書きの、暇つぶしに書いたような汚え字のやつだ。その二日の部分に赤丸がつけてあって、この日に母さんを土間に入れたってなことがわかるようになってる。
二日? そんならいまは何日だ?
おれみたいな生活をしてると、日にち感覚なんてもんは何もなくなっちまうんだ。おれには月曜も、土曜も、関係ねえからな。
バッテンをつけた日にちを数える。そうだよ。暇だけはある、一日一回バッテンをつけるのは忘れねえ。
そうすると――三十と四日。それだけは何度も数えたんだ、信じてくれねえと困る。三十四。それだけの日にち、母さんはあそこで生きてるってことになるんだ。
おかしい。ああ、おかしいことだ。このへんで、おれの背中は虫でも這ったみてえにむずむずしてきやがった。飲まず食わずで一月ちょっとだ。もちろん、あそこへ入る前だって、もう死にかけぎりぎりの状態だ。それをどうして、なあ? お前さんもおかしいと思うだろう?
どう考えたって、生きているはずがねえ。おれはやっとこさ、そう結論を出した。けど、そこでまた考えた。あいつのことだ、あのでけえ犬のことだよ。
あいつだって、一月も食わねえままでいるのは堪えるはずだ。いままで好き勝手に食ってたんだ。畜生に我慢がきくものとも思えねえ。目の前には肉がある。けど、その肉はまだ死んでねえ。となると、だ。閉じ込められてんだ、外へ出ようとする、それが普通じゃねえかい?
ああ、しかしあいつはじいっと母さんと土間に閉じこもっている。ぺちゃぺちゃ、なんて音が、何の音かはわからねえ。一度きり覗いたときには、あいつも、母さんも土間にいたんだ。けど、あいつが肉を食う音、それと母さんの声は重なるはずがねえ。
しかし、こうなっちゃ仕方がねえ。あののぞき穴を、おれがもう一度覗くほかはねえだろう。
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