ホラー短編集 いぬのかお

黒澤伊織

ホラー短編集

第1話 いぬのかお

いぬのかお(1/3)

 母さんは、そりゃひどく嫌がったさ。


 けど、おれは結局そうすることに決めちまった。なんせ、いくら年老いて痩せた体だっていっても、軽く四十キロはある肉だ。おれだけじゃ、どうも処理できる気がしねえ。


 それに母さんは、あとにおれが残るのだからいいさ。けど、そのあと、このおれはどうすりゃいい? いくら田舎のボロ家とはいえ、腐汁で汚すのは忍びねえし、なによりそれを見つけるやつと、それを掃除しなきゃなんねえ役目――そんなやつらの心中は察してあまりある。


 無職が一体何を言い出すんだって? おれだって、生涯無職だったわけじゃない。そりゃきちんと雇ってくれる人があれば、おれだってちゃんと働ける。


 その証拠に、おれはいまでも何だってできるぜ。


 若いやつらが悲鳴を上げるほどのでっかい魚だって捌くことができるし、それから土壁だってコテ跡ひとつなくきれいに塗れらあ。毎日の料理だってそれなりに食えるもんを作れるし、手のひらくらいでっかいクモだって、ひょいと掴んで外へ投げるくらい、なんでもねえ。


 けど、そんなことはどうしてか、いまの世の中の役には立たねえ。ああ、それくらいおれだってわかってる。


 それでもこの年になると、誰だって昔の方がよかったって思うもんさ。


 このへんだってずうっと向こうまで田んぼでよ、近所の人間もあったかくって、食いっぱぐれることなんぞあり得なかった。水だってその辺の沢から流れるのを、適当に口に入れりゃいい。それが、金を払わねえと水も飲めねえだとか、最近は馬鹿らしいことばっかりだ。


 近頃じゃ、お日さんがよく出たから米がよく実った、なんてえ物の道理は、どうだっていいことなんだろうな。


 いまはお日さんが毎日出なくたって、せっせと稲を植えなくたって、どっかの工場やなんかからどっさり食いもんが出てくる。何の、田んぼなんぞ馬鹿らしいってことになるだろうよ。


 ……ま、田舎も変わったよ。うちは古くからの木造だが、周りはよそ様には知らんぷりのコンクリート造ばっかし。時代が変わったんだろうな、時代がな。


 それで、ええと、何だったかな。そうそう、仕事の話だ。掃除の、腐汁の。


 掃除ねえ。その掃除のお役目に同情するのはさ、実は、おれも昔、そんな仕事をしていたことがあるからなんだ。ま、仕事だなんて偉そうに言うが、もちろんそれはアルバイトって身分で、扱いなんぞ、この世の最下層かってくらい、ひどいもんだったがね。


 お役所? そうそう、ありゃ市役所かなんかの下請けの下請けのような仕事だった。いつだって、金に困っていたおれは、その仕事にネズミみてえに飛びっついた。そう、ネズミネズミ。あいつらも飛ぶのよ。これでもかってほど、追い詰められるとな。


 まあ、それでただでさえ、生ゴミの臭いだらけのきったねえ団地。そこを巡るのがおれの仕事だった。


 そりゃただ回るわけじゃねえよ、一軒一軒回って回って――青い扉に郵便受けがあるよな? そうか? なぜだかおれが回ったとこはみんな青い扉だった。ほら、あの白い粉ふいたみたい色だ。それで、郵便受け。あの細い隙間から、臭いを嗅ぐんだ。簡単だろ?


 冬場はちっとわかんねえことがある。けど、夏場はてきめんだ。それどころか、近所からの苦情がくるくらいだ。


 何がって、死体だよ。腐ったやつ。自殺かどうか? そんなもん知らねえ。孤独死ってやつか? どうでもいいけどな。


 まあ、言い表せないほど中はひどいもんさ。どろどろのぐちゃぐちゃでさ、ありゃどうして、死んだもんは汁になるんだろうな? 何が肉を溶かしてるんだ? 腐るってことはそういうことだ、なんて知ったかぶりしちゃあいけねえ。


 けど、本当か嘘か……昔猟師から聞いた話があってね――イノシシを撃つだろう? そうすると、猟師はいの一番にそのはらわたを出して、冷たい沢水につけるんだとよ。何でかわかるか? まあ、若いあんたにはわからんだろうな。


 死んだイノシシは、その瞬間にかあっと体を熱くして、そのままにしておくと内臓も肉も、その熱でみんな煮えちまうんだとよ。獣ってのは、大体生肉を食うだろう? だから、猟師が言うには、肉を食われないようにするためだってんだが……不思議な話だろ?


 となると、人間も死ぬと何かおかしな力が働くってことは考えられねえかい。人間の肉を汁にする、そんな力よ。ええ、気味が悪い? これくらいで音を上げてもらっちゃ困るよ。まだ話はこれからなんだ。


 で、その汁よ。それが何ともやっかいで、拭いても何しても取れねえし、臭いだってそのまんま。まったく、どうしようもねえもんなのよ。まるでそいつがここにいたことを、永遠に残そうとするみてえに――ほら、自意識ってやつか? おれだってこのくれえの言葉は知ってるさ。なんたって、毎日母さんに新聞読み聞かせてたんだ。


 その自意識ってやつだ。イノシシが何も残さねえようにする一方で、人間は死んでも何かを残そうとする。いや、知らない間に残っちまうんだろうな。汁? それだけじゃねえよ、その人間の、感情っていうのか? そういう、どす黒い何かがそこを離れないのさ。


 はは、何だ、そんな怯えたような顔しやがって。白内障? ああ、そんなもんがあっても見えるこたあ、見えるさ。真正面にいるお前さんの顔くらいはな。


 ま、それで少しはおれも言うだろ? 学歴だと? そんなもんはおれにはねえが、学なんかで人をはかっちゃいけねえよ。とんだところでしっぺ返しを食うからな。


 そのいい見本がこの世の中だ。そうは思わねえか? 察しが悪いな。この世の中だよ。一生懸命本にかじりついて、丸暗記なんぞしちまったやつ――つまり学のあるやつが、この世の中をつくってる。だろ?


 それなのに、どういうわけだ? 学のあるやつは自分のお仲間ばっかりを引き上げて、おれたち母子が生活に困ってたって何の助けもよこさねえ。おれが見たこともねえような金を稼いでおいて、それでも自分たちは慎ましい生活をしてるとさえのたまうってなもんだ。


 何が慎ましい生活だ。新品みてえなバッグさげて、子供にぱりっとした服着せてよ。おまけにちっこい犬にまで服着せて、靴まで履かしていやがる。犬に靴だぞ? あれを見た日にゃあ、勉強のしすぎで頭がいかれちまったのかと思ったよ。


 え、犬かい? ああ、うちにもいるさ、でっけえのが一匹。そうだ、おれはそもそもそいつの話をしようとしてたんじゃなかったかね。そうだそうだ。お前さんはうちの犬の話で訪ねてきたんだったな。


 どんな犬かって? 馬鹿言っちゃ困る。うちのは服なんぞ着ねえし、シャンプーだってリンスだってしねえ。飼い主のおれがしねえもんを、どうしてうちの犬がする道理があるってんだ。


 そうじゃなくて? 色? ああ、真っ黒いやつさ。おれの目? いやそうだけども、見えなくたって色くらいわかるてんだ。


 名前は母さんがつけたよ。死んだ妹の名前だ。さっきも言ったろ、ちょいとボケてるからな。止めたって聞きゃしねえ。ああ、胸くそ悪いもんだよ。


 死んだ妹の名前を、みな子、みな子、って何度も呼んでるのを聞くと、身の毛がよだつよ。それもただ呼ぶんじゃねえ、いなくなった赤ん坊でも探すように、悲しそうに呼ぶんだからな。おれか? 気味が悪いから、おれは犬としか呼ばねえ。


 餌? やらねえよ。一度もやったこともねえ。飼い主が食うに困ってるもんを、どうして犬に――ああ、そうだよ。勝手にどっかへいって、ネズミだかネコだかの死骸をしゃぶって満足してるんじゃねえのかい。ああ、それは見たことがある。取ってきたんだか、何だかなんて知らねえよ。近所からの苦情? そんなもんねえよ。ああ、わざわざうちに近づくようなやつはいねえ。だからうちも知らんぷりだ。


 拾ってきたわけじゃねえ。いつのまにか住み着いてたんだよ。餌をやるわけじゃねえのに、まあ、畜生のやることなんかに理由はねえだろ。……たしかにネコは家につくっていうが、犬ってのは聞かねえよなあ。何、別にかわいいなんてもんじゃねえよ。でかいし、何か気味悪いしな。


 犬が可哀相? 何を言い出すのかと思えば、そんなことかい。まったくあんたも、相当頭がいかれてるな。食うや食わずの人間を目の前にして、それでも犬が可哀相だと? こりゃ世も末だ。


 あんた、あれだろ、乞食がいたずら半分に殴り殺されるのと、犬が虐待されて死ぬんじゃ、犬のほうが可哀相とか言うクチだろ? 壁に挟まって出られなくなった犬を助ける金はかけられても、自分で食い詰めた人間にかける金はないってか?


 ふざけんじゃねえよ。人間様あっての犬だろ? あの外人どもの騒ぐ、イルカや鯨のことだってそうだ。あいつら、せっせと戦争で人間殺しておいて、一方で賢い命だあ? 呆れて物が言えないね。


 人間よりも、動物のほうが大切ってのは、何かおかしな間違いしてないかい? おれたちが食い詰めて、水だって一滴も飲めねえってのに、やつら人間を差し置いてぶくぶく太ってやがる。


 まあ、それでそういうわけよ、こんな方法を思いついたのは。おれなりの皮肉ってやつも混じった、最高の解決法ってわけだ。

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