第3話 滅ぶべき者

滅ぶべき者(1/2)

 教えられた通りに、鬱蒼と茂る森を抜けると視界が開け、ごつごつとした丘陵が現れた。


 知らず知らずのうちに、高く登ってきたのだろう。草原に咲く花はぼくの見たことのない山花で、吹く風は涼しさというよりも、冷たさを感じさせた。麓では、まだ夏がひどく地面を照りつけているというのに。


 およそ二日、飲まず食わずで歩いてきたため、足は疲れ、意識はぼんやりとしていた。


 それでも頭の中には、拭うことの出来ない染みのように、あの男の声が鳴り響いていた。出発前に、何度も繰り返された言葉だ。


 それがどんなに忌むべきものであろうとも、忘れてしまうことが出来ないのは、ぼくに刷り込まれた恐怖のせいだ。


 ぼくの村は、子供から老人まで皆殺しにされ、征服された。それがいつのことだったか、はっきりと思い出すことはできない。ひと月前だったのか、それとも何年も前のことだったのか。


 村を滅ぼしたあの男――アルトアのジルランド将軍と名乗った男は、その肩に化け物のように大きな鷲を止まらせていた。両翼を広げたその姿は、大人の背丈ほどもある大鷲だ。


 その姿は、まるで死神のようだった。しかし、それはぼくの知っている死神とは違った。


 村に伝わるその姿は、骸骨の杖を持った、死者の眠りを見守る隠者だった。だから、本当の死神が男と大鷲の姿をしているだなんて、村人は誰も知らなかったのだ。


 そのとき、ふと空を影が横切った。


 あの男の鳥かと思って見上げたが、それは一片の雲だった。空では風が強いのだろう、雲は地平へ押しやられるようにして流されていく。


 それは、まるでぼくの運命だった。


 自分の力で立ち止まることすらできずに、ただ流れていく無力な人間。


 もし許されるのなら、前にも後ろにも進まないまま、この場所にとどまっていたかった。こんな山の上に幻の村などあるはずがないし、あったとしてもそこに入ることなど出来はしないだろう。


 征服者たちがその力を欲し、探し回ったという幻の村は、女人の村。交わった男を殺して子を産み、男児を殺して女児のみを育てる、未来見さきみの能力のある村だという。


 男児には受け継がれないという未来見の力は、先を見通すことの出来る能力である。その力は、世界の征服すら可能なものだ。もちろん、権力者たちは我先にとその力を求めた。しかし、村はその名の通り長いあいだ幻で、行き着いた者は誰もいなかった。力はただの伝説だと思われた。


 けれど、その村は実在した。正確には、実在していた。それを見つけたのは、ジルランド将軍だった。彼は五年前、幻の村を見つけたのだ。噂は、彼と敵対する隣国のぼくの村まで届いたものだった。


 しかし、結局彼はその力を手に入れ損ねた。捕まえた能力者は死に、他の村の人もどこかへ逃げて、再び姿をくらましてしまったのだ。その後、幻の村は再建され、いまもどこかに存在しているのだというが――。


 けれど、それはただの伝説だったのだろう――広い空と風に揺れる山花を眺め、ぼくは踵を返した。そのときだった。


 気配のようなものを感じ、ぼくは振り向いた。すると、いままで誰もいなかったはずのその場所に、いつのまにか一人の少女が立っていた。


 空色の瞳に、そばかす一つない乳色の肌。素朴に編んだ小麦色の長い髪を風に遊ばせて、こちらをじっと見つめている。まるでぼくが口を開くのを待っているとでもいうように。


 少女の瞳は揺るぎなく、ぼくはもう一度空を見上げた。雲はやはり留まることを知らず、どこまでも押し流されていく。


 一体、無力な者の運命は誰に定められているのだろうか。ぼくは再び少女に向き直ると、口を開いた。


「……ぼくの名前はヤウルといいます」


 緊張と乾きで喉が痛んだ。それでも構わず、声を振り絞る。


「飲まず食わずで倒れそうなんです。食べものと水を、恵んで貰えないでしょうか」

「……どうぞ、こちらに」


 少女がくるりと踵を返す。あっけない対応にぼくは戸惑った。


 けれど、このままでは倒れてしまいそうだというのは本当だった。少女の後をついていくと、草原を越えた小さな谷間に家々らしきものが見えた。


「幻の村……」


 ぼくは、思わずつぶやいた。しかし、少女はそれが聞こえないかのように足早に谷へと降りていった。

 

          


 道なき道を下りきると、少女はふと立ち止まった。そこには木製の門のようなものが見える。その向こうの家々は、粗末だが新しい。


 幻の村は五年前に再建された――そんな噂と合致する。ぼんやりそんなことを考えていると、どこからか村人とおぼしき人々が現れた。その中に男は見当たらない。伝承通り、ここは女人の村らしい。


 年齢も様々な女たちは、彼女に向かって頭を下げた。


「お帰りなさいませ」


 一人の老婆がそう言うと、全員がそれを復唱した。そして木腕に入った水を差し出す。少女はそれを一口飲み、それからぼくに差し出した。


「……」


 その瞬間、村人たちの目が一斉に向けられた。飲んでもいいものかとためらったが、乾きが勝った。ぼくが水を飲み干すと、彼女たちはぼくを警戒するように睨みながらも、それぞれの持ち場へ戻っていった。


 川の水を汲む者、雑穀を搗く者……ザッザッ、と音をするほうを見ると、鎌を持った老婆が枯れ草を刈り集めている。そのぎらりと光る刃を見て、ぼくはごくりと唾を飲んだ。あの刃も、男の血を吸ったことがあるのだろうか。


「……怖がることはないわ」


 心中を読んだように、ふいに少女が言った。


「私がこの村を束ねる長。そして、あなたは私の客となったのよ」

「君が……長?」

「そうよ。何かおかしい?」


 驚くと、澄んだ瞳が見返してきた。ぼくは慌てて首を振った。


「ううん、そうじゃなくて。君があんまり若く見えたから」

「若いわ。たぶん、あなたと同じくらいには」

「ぼくと? じゃあ、どうして長なんて……」

「その前に食べものが必要でしょう」


 少女は気のないふうに言った。


「それから寝床も。来て、私の家に案内するから」

「でも……」

「なに? 何か問題でも?」


 少女は問いかけながらも、答えなど聞かずに歩き出す。ぼくはその後ろで黙って首を振った。


 食事と睡眠が必要なのは本当だった。けれど、ぼくは早く確かめたかった。ここは本当に幻の村で、この村の誰かが――もしくは目の前のこの少女が、未来見の力を持っているのかどうか。


 焦るな――そのとき頭に低い声が響き、ぼくは思わず腰につけた小さな包みを指で探った。温度などないはずのそれは熱く、目には奈落の底の闇が垣間見える。それは殺戮の炎と、絶望の色だった。


 そうだ、焦ることはない。ぼくは自分に言い聞かせて、少女が用意してくれた藁布団の上に座った。


 出された食事は見たことのない素材が使われたものばかりだったが、少女に勧められるまま、ぼくはそれを平らげた。そして、これも体験したことのない寝心地の寝具に包まれて泥のように眠ったのだった。


          


 深い眠りの中、ぼくはあの日に戻っていた。村が皆殺しになった、あの冬の日だ。


 地鳴りが聞こえ、地平線に砂煙が上がった。そう思うと、黒炎隊と呼ばれるジルランド将軍の軍隊がものすごい速度でこちらに迫っていた。


 隊の残虐さは有名だった。彼らは特殊な草を噛み、良心を麻痺させて戦に挑むのだという。その様子は人間ではなく、狂った獣のようだった。あちこちから上がる怒号や叫び声を尻目に、黒一色の兵たちはまるで炎のように村を破壊しつくした。


 ぼくはそんな村の様子を、どこか小高い場所から眺めていた。助けに行かなくちゃ、いやここから逃げなくては――相反する思いに、足はまったく動かない。


 そのとき、兵の一人がぼくを見つけた。殺される、そう肌で感じているというのに、まだ足は動かない。薄日にきらめいた切っ先が、ぼくの肌を裂いた。真っ赤な血飛沫が上がった。死にたくない、本能的にそう思った。


 すると、場面は切りかわった。ぼくは再びどこか小高い場所から村を見下ろしていた。隣に誰かが立っている。その誰かが言った。


『生きたいのなら、憎しみを忘れろ』


 眼下の村から悲鳴が上がった。再び黒炎隊はぼくの村を襲い、村人を殺戮していた。ぼくの両親、ぼくの妹、おじさんおばさん、友達、友達の家の赤ん坊、ぼく以外のすべてを。


『目をそらすな、よく見ておけ』


 顔を背けたぼくに、誰かは言った。強い力が惨状を見せつけるように、無理矢理顔を固定する。否が応でも目に入る惨劇に、ぼくはふと違和感を覚えた。


 その村はぼくの村ではなかった。よく見れば、地形も、家々や人の様子も違う。


 どうなってるんだ――ぼくは強く瞬きをした。すると、再び開いた目に映ったのは、先ほどの村とも違う光景だった。もう一度、さらにもう一度、何度瞬きしても、現れる村は違った。けれど村が黒炎隊に襲われ、殺戮が行われているという光景は変わることがなかった。


          


 目を覚ますと、少女の顔が近くにあった。


「うなされていたから」


 彼女はそうつぶやき、そっとぼくの額を撫でる。その優しさのようなものに嫌悪を覚え、無言で起き上がった。


「この村には女の人しかいないの?」


 用意されていた朝食に手をつけながら、ぼくは聞いた。悪夢の澱がそこかしこに漂っているようで気分が悪い。けれど、ここでもたついているわけにはいかなかった。


「……私に父はいないわ。生まれた弟は、母がたらいの水につけて殺したの」

「殺した?」


 漂う澱が濃くなった。けれど、食事をとる手は休めなかった。生きるということは食べることだ。ぼくはまだ生きていたい。


「ここは男子禁制の村だから」

「ぼくも一応、男なんだけど」

「私の客だからいいのよ。……母なら決して許さなかっただろうけど」

「お母さんはどこに?」


 ぼくの問いに、少女は空を指した。


「亡くなった?」

「うん。だから私が長を継いだの」


 少女の小麦色の髪は、今朝はそのまま長く垂らされ、豊かな実りのようにたゆたっていた。その瞳はまっさらな雪原に似て、すべてを俯瞰しているかのようだった。その光にあてられたのか、ぼくは思いもよらずあけすけに聞いた。


「それならここは幻の村? 君には未来見の力があるの?」


 すると、少女はゆっくりと答えた。


「そうよ。私の母も未来見だった。だから、その力を欲した征服者に捕まって、死んだの」

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