第2話

 リーマン予想は1859年にリーマンによって提示された数論の未解決問題で、現在では100万ドルの賞金が懸かったミレニアム懸賞問題の1つとして知られている。数学が好きな高校生なら名前ぐらいなら聞いたことがあるのではないだろうか。

 さて、問題はこの彩花ちゃんがそのリーマン予想についてどれくらい知っているかどうかであって……

「えっと、彩花ちゃんはリーマン予想のステートメントは言える?」

「すてーとめんと?」

「あぁ、ごめん、主張、リーマン予想がどういう予想なのかってこと」

 つい数学科生とのノリで話してしまうが、相手は高校生だった。数学の世界で普段何気なく使っている単語も平易な日本語にしていかないと、世間からは何を喋っているかよくわからない変人というレッテルしか貼られない。別にわかりやすい日本語を話していたとしても、数学の話をすれば変人というレッテルは免れないのだが。

「あっ、それなら学校の先生に教えてもらいました!」

 彩花ちゃんは嬉しそうに綺麗に整頓されたノートの1つを取り出し、付箋がついているページを開いて私に見せてくれた。


『リーマン予想 ゼータ関数 ζ(s) = Σ 1/n^s の非自明な零点は Re(s) = 1/2 を満たす』


 綺麗で可愛らしい字で数学の主張が書かれているのになぜか萌えてしまったが、それ以上に、さっぱり理解させるつもりのない書き方だなーと率直に思った。

「で、彩花ちゃんはこのリーマン予想が何を言っているのかわかった?」

「いえ、まったく……。本屋でリーマン予想について取り扱っている本とかも見てみたのですが、何を言っているのか全然わからなくて」

「ですよねー」

 日本の書店にあるリーマン予想に関する書籍は数学科の学部4年でも読めるか怪しい難易度だ。ゼータ関数の基本的な知見を有していないと確実に死ねるラインナップとなっている。

 もし、ここで彩花ちゃんに「本で基本的なところは抑えました」なんて言われた日には私から教えることは何もない。私よりできるのは確実だ。そんなわけでわからないというセリフにちょっと安堵してしまった。

 さて、どういったところから話を始めるべきか。

「えっと、解析接続って言葉聞いたことある?」

「ないです」

 彩花ちゃんは首を横に振りながら答える。

「うーんと、今の高校生って複素数はやっているんだっけ?」

「はい、やっていますよ」

「ノートとかある? ちょっと見せて欲しいな」

「いいですよ、こちらです!」

 そう言って背表紙に『複素数』と書かれたシールが貼られている綺麗なノートを渡された。もちろん、ノートの中身も綺麗な文字で実に読みやすい内容であった。見た目も中身も汚い私のノートとは大違いだ。

 私は行列で育った世代なので、高校での複素数については未知数であった。ざっと見渡したところ、高校でのベクトルの勉強を前提とした幾何的な性質を理解するところに重きを置いているようだった。率直な感想は、計算めんどくさそう。

 とりあえず、彩花ちゃんの知識がどれほどなのか把握したところで、今日の方向性が決まった。

「よし、じゃあ今日はリーマン予想を正しく理解するところから始めましょうか!」

「はい、よろしくお願いします!」

「まずは、学校の先生が書いてくれた主張だけど、わかりにくいから書き換えましょう」

 彩花ちゃんが用意してくれたノートに、申し訳ないと思いながら私の汚い文字を書き込む。


『リーマン予想  ζ(s) = Σ 1/n^s (s = σ + it) としたときζ(s) = 0 の実数でない解はσ = 1/2を満たす』


「ここでのσとtは実数ね。つまりσとtはsの実部と虚部ってこと」

「先生」

「はい、なにかな」

「学校だと複素数はz = x + iyっておいていたんですけど、どうしてs = σ + itみたいなへんてこな記号のおき方するんですか?」

「……それはね、宗教みたいなもんだよ」

「宗教?」

「そう、私たちの力だけではどうすることもできない暗黙のルール。ゼータ界隈で生きている人はみんなこのような記号のおき方するの。逆らっちゃダメなの。反抗しようとするなら殺されてしまうわ」

「は、はい……」

 さすがに殺されはしないが、宗教ってのは的を得ている気がする。ゼータ関連以外でこのような変数のおき方をする分野は見たことがない。

 話が逸れたので元に戻そう。

「さて、彩花ちゃんに限らず、高校生がこのリーマン予想を正しく理解するためには大きく2つの壁があります」


① n^sって?

②  Σ 1/n^sはσ>1でしか値を持たない?


「じゃあまずは①から紐解いていきましょうか。せっかくだし、簡単な練習問題でも出しますか」

 アドリブで適当に問題を書き記していく。


(1) 2^3

(2) 2^(-2)

(3) i^2

(4) 2^i

(5) i^i


「じゃあ解いてみて」

「はい、わかりました」

 ペンを取り、ノートを覗き込むように身体を乗り出す。

 机の上へと無造作に垂れる黒髪を耳にかけ、高校生ながらも艶やかな一面を間近で垣間見る。白く透き通った肌、麗しい唇、美しく伸びたまつ毛、吸い込まれてしまいそうな瞳。

 それとは対照的に、彼女の格好はTシャツにジーパンとラフなものだ。そりゃ自宅なのだ、気を張る必要なんてない。その無防備さが胸元の美しい空間を産み出している。場所を変えれば、スレンダーな身体を守る下着が見えるのではないだろうか。

 お世辞でも美しいとは言えない私のねちっこい視線も、ノートに書き記される小気味良いペンの音でかき消されていく。

 美少女視姦してお金もらえるなんて家庭教師は最高だな!!

 角度を変えて小さな果実を拝みたいと思ったが、ふと、ペンが止まっていることに気付く。

 仕事をしなければ。

「どう、解けそう?」

「うーん、(3)まではいいのですが……」

 ノートには(1) 8 (2) 1/4 (3) -1 と正しい答えが記されている。基本的な指数計算は問題なくできるようだ。(4)は


(4) X = 2^i

⇔ log X = i log2

⇔ X = e^(i log2)


と、いい感じに足掻いている痕跡はあるが、(4)以降は解かせるつもりはなかったので、ここまでできていれば上出来だ。

 行き詰ったところで解説を始める。

「高校で教わる指数計算って指数の部分が整数、拡張しても実数までなのよね。でもこれって実は複素数まで拡張できるの」

「どうやるんですか?」

「高校では使っちゃいけない、超有名な公式を使って」

 そう言って1つ式を書き足す。


オイラーの公式 e^(iθ) = cosθ + i sinθ


「あっ、見たことあります!」

「じゃあこのチート道具を使って2^iを求めてみましょ。というかこの式がわかればほぼ答えが出ているようなものね」

「えっと、θにlog2を代入すればいいんですね」

「そうそう」

 理解が早いようで、(4)の最後の行に『⇔ X = e^(i log2) = cos(log2)+i sin(log2)』と書き足した。

「正解。これで彩花ちゃんは2をi個かけ合わせた積の値がわかったわけだ」

「2をi個?」

「だってそうでしょ? 2の3乗は2を3個かけ合わせた値だよね? だったら2の-2乗は2を-2個かけ合わせた値。2のi乗は2をi個かけ合わせた値」

「……確かに」

 今言った3つの式を並べてみる。


2^3 = 8

2^(-2) = 1/4

2^i = cos(log2)+i sin(log2)


「こうして並べてみると、なんだか不思議ですね。もともと自然数で定義していたものを、負の数や複素数にするだけでこんなに形が変わるなんて」

「そうそう、高校の数学ってどうしても特殊なケースしか勉強しないんだけど、大学だと高校で学んだものをどんどん一般化していくの。今は具体的な数を扱っているけど、そのうち記号しか扱わなくなるわよ」

「えぇー、なんか想像できませんね……」

「今度、私が使っている参考書見せてあげる。きっと驚くわよ。そうね、じゃあついでに一般化したこれはわかるかな?」


n^s (s = σ + it, nは自然数)


「えぇっと……」

 彩花ちゃんは先ほどの問題とオイラーの公式の見比べながら式を書き下していく。


n^s

= n^σ n^(it)

= n^σ e^(it log(n))

= n^σ (cos(t log(n)) + i sin(t log(n)))


「お見事! というわけで無事①は解決したね」

「あっ、ホントだ! でもオイラーの公式証明してませんよ?」

「うーん、高校生でもざっくりとした証明ならできるけど、少し長くなるからまた別の機会にしましょ」

「わかりました。でもまだ(5)が残っていますよ?」

「まぁこれはおまけとして用意したけど、ちょっと難しいよ?」

「やってみます!」

 なんだか楽しそうに(5)のi^i計算に取り組む。始めの無愛想な顔(あれはあれで可愛かった)が嘘のようである。

 そして私は彩花ちゃんが悩んでいるうちに、彩花ちゃんを見つめるためのベストポジションを探すのである。

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