第10話

 思えば少しばかり迂闊だったかもしれない。昼休みに中が良いところを周囲に見せびらかしたりしてマウンティングに勝利した気分になったのは流石にまずかった。たまらない美酒だな、などと脳内でドヤ顔してたのは黒歴史だ。調子に乗って他人に言ったりネットに上げなくて本当に良かった。だが此方側に原因や要因があるにしても、一線を越えた嫌がらせをされて黙っているわけにはいかない。俺に対してならともかく、柚梨に対しての仕打ちとしては酷すぎる。

 喫茶店を出た後、俺は柚梨を家の近くまで送った。流石に彼女の家に入るわけにもいかないので、柚梨の家の最寄り駅を降りた辺りで別れた。そして自分の家に帰った後、先輩から教えてもらった電話番号に携帯から架けた。


『……もしもし? どちらさまですか?』


 おそらく見知らぬ番号に警戒しているのだろう。沖はやや硬い声で尋ねてきた。


「井上蓮だ」

『……な、なに? なんで私の番号知ってるの?』

「先輩に聞いた」


 電話越しに沖が息を呑む気配を感じた。相手の警戒感を感じる。俺も逆にこいつから電話が来たら絶対警戒するだろうし仕方あるまい。だがそれはそれとして用件は伝えなければいけない。


「今日の先輩の件で話がある。どこまで知ってる?」

『え? どういうこと?』

「知らないのか」

『今日私、部活休んだんだけど……』

「あれ?」


 あ、そういえば沖については何も言ってなかった。先輩も沖の姿を見てなかったということだろうか。そこを確認するのを忘れていた。


『……何かあったの?』

「先輩が笹原……あるいは笹原達に嫌がらせされた」

『えっ……』

「制服のタイを切られた。それと俺と付き合ってることでビッチとなじられた」

『ま、待って! 私知らない! そんなこと頼んでもない!』


 沖はこちらが驚くほど取り乱した。


「わかった、別にお前を疑ってるわけじゃない、ただ知ってるかどうか確認したかっただけだ」


 いや絶対こいつが関与してると思ってたし今もまだ疑ってはいるんだが。

 ただ、今の沖の様子はちょっと予想外だった。もし本当に関与しているならば俺のような人間にいちいちこんな欺瞞や擬態をする必要がない。それに沖の、先輩に対する敬意はそんなすぐに憎悪に裏返るようなものとも思えなかった。疑いを完全に捨てるわけではないが、ひとまず疑いは置いておこう。


『本当に違うから』

「落ち着け、それは先輩にも言っとく。ただ、笹原がやったことには違いないし先輩も怒って大会に出るのをやめるって息巻いてて……」

『なんで!?』

「なんでも何も……そんな嫌がらせ受けてまで出るなんて言うかよ」


 そういえば柚梨が引き継ぎも何もなく部活からフェードアウトしたら沖や笹原が困ると思うんだが笹原はアホなんだろうか。それともなんとかやっていけると思っているのか。


『と、とにかく私も確認してみるから……! 先輩のこと止めてよ!』

「俺だってそうしたいから電話してるんだよ」


 勢いに任せての行動のようにも見えて危なっかしいんだよな。最終的には柚梨が決めることではあるとしても。

 ……それに、俺が部活に居た頃の柚梨は一心不乱に練習を重ねてきた。こんな流れで参加を辞退するというのは、きっと柚梨にとって大きな後悔になるのではないかと懸念している。


「ともかく、お前は先輩に大会に出てもらいたいんだな」

『当たり前でしょう!』


 沖は、柚梨に心酔している……と言うと流石に言い過ぎかもしれないが、勝手に柚梨の彼氏さん、というか俺に突撃かまして別れろと言う程度には柚梨を敬愛している。味方ではないが利害は一致するはずだ。


「じゃあ笹原をなんとかしてくれないか」

『……とりあえず、なんでそうなったか聞いてみるしとめようとは思うけど』

「頼む。俺のためじゃなくて先輩のために」

『わかった。その、それと……』

「なんだ?」

『……その、あのときはごめん』

「あ、ああ……」

『簡単に許してもらえることじゃないってわかってるけど……その……』

「と、ともかく今は先輩の件を頼む。それで良い」

『わかった、任せて』


 珍しく沖が殊勝な言葉を言うものだからうろたえてしまった。

 だが、思い切って電話で話してみれば意外と好感触だった。そもそもこれまで部を引っ張ってきた柚梨が嫌がらせを受けること自体がおかしいのだ。きっと笹原もすぐに悔いて心を改め、柚梨に許しを乞うことになるだろう。


***


「……ダメだった」


 次の日の休み時間、校舎裏に俺を呼び出した沖は開口一番にそう言った。


「早くないか!?」

「そ、その、色々とあって……」

「いや、責めたいわけじゃないんだ、すまん」


 いきなり残念な報告を受けて面食らったが、使える情報源はこいつだけだ。あまりキツいことはこちらからは言えない。向こうも申し訳無さそうな顔をしているし。


「と、とりあえず説明聞いて」

「ああ、わかった。……ただ、こんなところ見られたらお互い何を言われるかわからんし手短に頼む」

「わかってる」


 沖は頷く。

 学校の校舎裏は確かに人目には付かないが、こんなところに敢えて来ているということが知れたら何を言われるかわかったものじゃない。いつぞやギャグのつもりで「沖と浮気してました」などと先輩に言ったが、ギャグが疑惑になってしまったら流石に辛い。


「弓子……ああ、笹原のことなんだけど……やっぱり犯人は弓子で間違いなかった」

「そうか」

「それと、弓子の友達と一年生が何人か……たぶん合計で4、5人くらい」

「……けっこう多いな」


 一種のグループじゃないか。御法川先輩を慕うグループの多くが反旗を翻したという感じだろうか。……もっとも、この手の暴挙は一人でできるものではないかもしれない。赤信号皆で渡れば怖くないの論理で犯罪じみた行為の罪悪感も薄れてしまうのだろう。


「それで、なんでこんなことをしたのかって聞いたら……私のためだって」

「沖のため?」

「ほら……この間の、あんたと話してたときのことで、御法川先輩とも、その……距離ができちゃって……。まあ私が悪かったんだけど……」

「そのことと笹原達と何か関係が?」

「……もう、先輩のこと見限っちゃいなよって」

「怖っ」


 え、つまり、下克上するってこと? あなた達、御法川柚梨先輩を慕ってたよね?


「どうせ御法川先輩はすぐ引退するんだし、裏切ったのは向こうの方じゃないって……」

「裏切ったって……たかが高校の部活で……」


 と、言いかけたが、部活に全精力を注いでる人間に「たかが高校の部活」と言ったところで通じないだろう。真剣なのだ。真剣故に暴走もする。


「言ったのは私じゃないし……それに、弓子は結構本気で先輩に怒ってて……」


 沖はちらりと俺を上目遣いに見る。

 俺からすれば、笹原弓子達が先輩に怒るのは筋違いというものだ。だが向こうには向こうの言い分があって、それを聞かないと次の手が打てない。


「具体的に、先輩のどういうところに怒ってるんだ? 聞かせてくれ」

「う、うん……」


 どうも沖にはやたらと怖がられているな。もっともそう仕向けたのは自分なのだが。


「昼休みとか日曜とか、私達と一緒に居てくれなくなったことと……」


 そういえば四六時中一緒に居て疲れるって言ってたしな。


「あなたと別れなかったことと……」


 あー、うん。


「練習の負荷も下がったし……」


 ……そのあたりは知らなかった。だがよくよく思い返してみれば日曜日も喫茶店でだべることが増えた。もしかしたら柚梨の練習の時間が減っていてもおかしくはない。


「で、こないだの件で私と距離を置いたこと……このあたりね」

「……難しいな」


 まあ百歩譲って先輩が他の女子と距離を置こうとして怒ったとか練習が不真面目になったあたりはともかく、他は完全に筋違いと思う。柚梨は絶対そんなことに納得しないし俺も納得できない。俺達が理解や納得できない論理で動いているということは、話し合いで解決しようにもまったくの平行線になるだろう。


「それで、さすがにこんなことやめた方が良いって言ったんだけど全然こっちの話を聞いてくれなくて……」

「そこは押し切られないでほしかった」

「お、押し切られたわけじゃないから! まだ話せばわかる……!」

「頼む」

「……と、思うんだけど……」

「お、おう」


 そこで気勢が萎えてしまうあたり不安だ。いやしかし、一線を踏み越えて来た人間を説得するのは確かに難しいかもしれない。


「……でも、沖が嫌がってるのにやめるつもりがないって、どういう心境なんだ」


 ちょっと素で疑問だ。


「……弓子達は、その、先輩に負けちゃダメだって……仕返ししなきゃって……」

「勝つとか負けるとかの問題なのか」

「あの子達にとっては、そうみたい。好き勝手やってる人に大きな顔させちゃダメだし来年は部長になるんでしょ、って……」


 実はちょっとだけ陸上部に未練らしきものはあったんだが、辞めて良かったと本気で安堵した。俺にはやっぱり体育会系で生き残るのは無理だったよ。


「だから、私が強く止めようとすればするほど、逆に弓子達が勢いづきそうで怖い……」

「う、うーん……」


 沖がダメとなるとお手上げ状態になりかねない。俺が笹原の前に出しゃばっても火に油を注ぐだけになりそうだしこれは困った。先輩が俺を庇ってくれた結果として起きた事だと言うのに俺自身が無力だ。どうしよう。


「ともかく、先輩の参加辞退が部内に広まったら騒ぎになると思うし……そうなると弓子達も冷静になるかもしれない。もうちょっと説得続けてみるから井上は先輩の方をお願い」

「……お互いあんまり過度な期待はやめとこう。とりあえずなるようにしかならんしな……」

「弱気なこと言わないで……って言いたいところだけど……うん」


 沖は心底疲れた表情で力なく頷き、俺も頷き返した。

 つい先日、こいつに脅され、脅し返した仲というのに不思議なものだ。


***


 その日の放課後、初めて柚梨と一緒に下校することとなった。

 俺は沖との話し合いの内容を柚梨にまだ説明していない。柚梨の方も具体的に聞こうとしてこない。ただ、お互い会おうと思って廊下を歩いていたら流れで一緒に帰ることになった。これが何事もない日であれば諸手を挙げて喜んだのだろうが、今ある問題を思えば素直に喜べないことだ。

 そんな内心が表に出ないよう俺は積極的に笑い話を振り、先輩も話に乗ってきた。純粋な喜びはなくとも、問題から目を逸らしながらの帰り道には背徳の快感があった。ふとした瞬間に、柚梨がこんなことをしてはいられないと俺の手を振り切って学校へ戻るような気がしたし、逆に俺のほうが衝動的に学校へ戻ろうと言い出しかねない瞬間があった。だが、どちらかが手を緩めた瞬間、どちらかが手を強く握る。互いの手を振り切るには夕暮れ時の帰り道が甘やか過ぎた。このまま帰るのも惜しく、だがいつものバイト先の喫茶店に行くのも気が引けて、近場のカラオケボックスへと潜り込んだ。


「それで、蓮。これどうやって使うんだ」

「え、初めてなんですか」

「こう見えて優等生だからな」


 先輩は何故か自信満々に言って、俺にカラオケの操作パネルを預けてきた。仕方ない俺が先に何か歌うか。適当に入力履歴を見て前の客が入れたものを眺める。流行りの歌もあればアニソンや洋楽も混ざっている。統一性がないな。仕方ない、ちょっと前のドラマの主題歌でも入れよう。


「先輩は何か好きなアーティストとか居ますか?」

「よくわからん」

「さいですか」

「……大会の後の打ち上げで飲み食いしたりということはあったが、こうやって遊びに来るのは初めてかもな。蓮はよく来るのか」

「高校に入ってからはとんと来てませんが……」


 と俺が言うと、柚梨はしまったという顔をした。


「……もしかして、金かかるか?」

「いや平日のこの時間なんて安いもんですよ。単に忙しかっただけです」

「そうか」


 気を使わせてしまったな。確かにバイト代は無駄遣いできないがこの程度の気晴らしをけちろうとは思わない。放っておくとトイレに行ってるタイミングなんかでサッと会計を済まされそうだから注意しなければ。


「せっかくの初カラオケですし何か歌いましょうよ」


 と言って、俺は適当に歌える曲を入れた。

 声に自信はない。別に一切の音程がわからない超絶音痴というわけでもなければ、合唱部顔負けなほどの美声でもない。至って普通だ。柚梨は、最初のうちは素直に俺の歌を聞いていた柚梨も選曲する端末とにらめっこしながら曲を入れていった。まるで普通の高校生みたいだなと思ったが、俺も柚梨も間違いなくごく普通だ。少しばかり脚が速かったり、少しばかり金が無かったりするだけで、当たり前に遊び、当たり前に調子に乗り、当たり前に人から難癖をつけられる。俺は柚梨を特別に見ていた。他人を率い、努力を怠らず、常に前向きに笑う、まさしくリーダーの資質を持った人間。そう思っていた。だが実際は面倒な他人を厭い、練習を怠って歌を歌い、毒や弱音を吐く、どこにでも居る高校生だ。そんな柚梨の一面を、俺は決して嫌いではなかった。俺自身が弱いから他人の弱さも許す、そうありたい。しかし彼女はこうも言った。この程度の人間だったんだなって思われて、見切りをつけられる方が怖いと。


「歌、入れないのか」

「あ、いえ、ちょっと考え事しちゃって」


 柚梨からマイクを受け取るとき、手が触れ合った。

 さっきも握った手だ。柚梨は、猫のような野性味あるしなやかさと彫像のような滑らかな美しさがある。だが指先にはそうした野趣はなく、ただひたすらに清らかだなと思った。俺の水仕事で荒れた手とはまるで違う。と、思っていると、手首をぐいと掴まれた。


「ちょっとこっち来い」


 柚梨は向かい側に座っていた俺を隣に招いた。俺はよくわからないまま大人しく従う。すると彼女は、自分の鞄からあるものを取り出す。チューブタイプのハンドクリームだ。キャップを開けておもむろに俺の手に塗り始めた。


「お前、こういうの使ってないだろう。放っておくともっと荒れるぞ」


 俺の手の上で柚梨の指先が艶かしく踊った。やや硬めのクリームを伸ばして俺の指の腹に、爪の周りに、中指の関節に、手の甲に、丹念に刷り込んでいく。手だけが蕩けてどこかへ消えてしまいそうに感じた。携帯やゲームのタッチパネルを触れなくなるのが面倒で普段はこの手のクリームを付けてはいないのだが、今日ばかりはそれらを我慢しようと思った。

 クリームを塗り終わり、離れようとする指先をそっとつまむ。柚梨は抵抗せずに指を俺に預けた。


「柚梨の手は綺麗ですね」

「自慢にならんよ、甘えてた証拠さ」

「良いじゃないですか、甘えるときは甘えれば良いと思います」

「本当に?」

「ええ」


 俺がそう言うと、柚梨は肩を寄せてきた。そこには生身の人間の確かな体温があった。


「こんな風に部活なんてサボったのは初めてだよ」

「俺も、柚梨がサボったのを見たのは初めてです」

「……なぁ」

「はい」

「蓮はあのとき、高田の件も話し合いで解決したかったって言ったよな」

「言いました」

「それは今もそうか」

「……今となってはよくわかりません。ただ、やられっぱなしだったら今こうしてはいないでしょうね」

「そうだな」


 柚梨は、憂いを帯びた目で頷いた。


「今、ちゃんとわかった気がするよ。お前が褒められて怒った理由が。もし私が笹原達を殴るなり打ちのめすなりして解決しても、多分すっきりはしないだろうから」

「俺は割とすっきりしましたよ。ただまあ、すっきりしちゃう自分自身にがっかりはしましたけど」

「難儀な奴だな」

「殴りに行くなら助太刀しますけど」

「女同士のケンカに首なんて突っ込むな」


 表情に苦さを含みつつも、柚梨はくすくすと笑った。


「……悩んでみたが、どうも話し合いで何とかなるってイメージがあまりわかない」

「俺もですね」

「だがやっぱりやられっぱなしというのは悔しい」

「当然だと思います」

「でもな……一度だけ言うぞ」

「はい」

「……私は間違ってたかな」


 そう言うと、柚梨は俺の手をぎゅっと握った。


「いろんなことを我慢してこれまでやってきたんだ。相談にも乗った。部の運営だって手伝った。練習も率先してきた。それが……このざまとはなぁ」

「先輩……」

「でもちょっと趣味は悪かったかもしれんな。モテないやつを煽り過ぎた。自分が好きなように振る舞うのは難しいな」

「それは確かに」


 俺がギャラリー側に居たら絶対に舌打ちの一つや二つしていたと思う。


「ところで、これからどうしますか」

「向こうの出方次第ってところだな。去年県大会に出たのは私だけだから、大会の流れをきっちりわかってるのは私くらいだ。今年は何人か居るが全員初参加。今までの先輩達が残した手書きのマニュアルなんかも残ってはいるが、それだけで適切に動けるほど笹原達はキビキビとはしてないよ。顧問の武田先生だってさほど熱心じゃない、ほとんど生徒任せだ。だからあいつらは私がいないと確実に困るはず。向こうが謝るまではサボタージュだな」

「あ、なるほど、落とし所を考えてるんですね」


 柚梨はちゃんと武器を持った上で行動していた。やはり俺とは違った。


「むしろお前こそ何かこそこそ動いてるだろう」


 いきなりバレていた。


「こそこそって、人聞き悪いですよ。沖に何がどうなってるか聞き出そうとしただけです」

「沖は……どうなんだ?」

「笹原がこんなことしてるってのは寝耳に水だったみたいで、相当うろたえてました」


 柚梨は俺の話を聞くとはぁと溜息をつく。なんとなくわかっていたような雰囲気だ。


「ま、なんとなくそうだろうと思ってた。沖は噂話のあれこれは好きだが、私にこういうことをするタイプでもないしな」

「手口からの推測ですか」


 実際その通りではあるけど。勘の良い人だ。


「となると、笹原達が先輩に謝ってくればそれでよし、そうでなければ勝手にしろって感じですね」

「私だけじゃない、お前に頭を下げないと私は許さんぞ」

「俺?」

「お前忘れたのか。お前の件でもあれこれ言われたって」

「ああ、そういえば……ていうか、具体的になんて言われたんです?」

「……言いたくない」


 まあどうせ、間抜けの血筋だとかなんだとか言われたんだろう。別に俺は良いんだがな。親族ですら馬鹿にしてくるんだから他人の評価など今更どうでも良い。


「ともかく、心配事はあるが私の方から歩み寄りはしないぞ。絶対にだ!」


 と、息を荒くして柚梨は答えた。意地を張ってなきゃいいんだが……俺なんかのことは気にしないでほしいし。ただ、柚梨が俺のことを考えてくれていることそのものはやはり嬉しい。


「ところで、心配ってなんですか?」

「部長が「何とかなるだろう」でざっくばらんなまま大会に臨んで恥をかいたり、あるいは誰かが私の代理や後釜……というか、責任の取らされ役になったり」

「想像したくないんですが」

「まあ大会の流れなんて複雑なものじゃないし運営の人にちゃんと説明を聞けば大丈夫なはずなんだが……部長が適当だからな……沖も緊張するタイプだし……」

「ああ……」


 流石に自分の古巣が赤段取りの悪さで赤っ恥かくのを見るのは忍びない。


「……ただ、謝られたとしても戻って良いものか迷ってる。このまま大会に挑んでも良い記録は出ないだろうな」

「良い記録が出ない? どうして?」

「燃えない」


 と、柚梨はとてもつまらなさそうに言った。


「勝ちを見せつけたい仲間もライバルも居ない。沖が調子を伸ばしていれば良い相手になったとは思うが……あいつ練習より本番のほうが遅いんだよな。このメンタルであいつ自身ベストを出せるとは思えん」

「他校にライバルとかは」

「まさか、そんなスポ根ドラマじゃあるまいし。というか地区はともかく県で見ればウチはそこまで強くないさ」

「じゃあ……俺がギャラリーじゃ不満です?」

「なんだ、可愛いこと言うじゃないか」


 俺がそう言うと、柚梨は悪戯っぽい目をしながらくすくす笑う。


「なあ蓮、私に大会に出てほしいか」

「そりゃ……柚梨は、ずっと頑張ってきたし……それが無為になるのはちょっと……」

「違う、そういうことじゃない。出たほうが良いかどうかじゃない。蓮は、走ってる私を見たいのか」

「見たいですよ」

「どうしてだ」

「それは……」


 別に大した理由はない。

 走ってる姿が綺麗だったからだ。

 そんなことを今口走ったらこの場で自制する自信がない。もうすでにいっぱいいっぱいだというのに。


「お守りあげたじゃないですか。それで察してくださいよ」

「う、そうだな……すまない」


 柚梨は気まずそうに視線を落とした。


「いや、責めたいわけじゃないんです。絶対に大会に出ろとか言いませんし、必勝祈願のお守りも、何も大会だの何だの格式張った状況のためだけにあるわけじゃないです。大会に出ずにあいつらに吠え面かかせてやるのが柚梨の勝利って言うならそれはそれでお守りをあげた甲斐もあったと思います。大事なのは、それで柚梨自身が納得できるかどうかです」

「……うん」

「どっちにするにしても迷ってるんでしょう。どうすれば納得できます?」


 柚梨はソファーの背もたれに体重を預け、天井を見上げながら物思いにふけった。カラオケボックスの蛍光灯はチープな眩さで俺達を照らしている。本気で全国大会を目指したり陸上で身を立てようとしている人間に比べればさぞ些細な悩みであるかもしれない。だがその些細な中に、柚梨自身の自負やプライドがあり、俺への労りや罪悪感があり、彼女自身を形成する大事なものがある。ここで無理に尻を引っ叩く気にはなれなかった。納得する答えをじっくりと見出したかった。


「……そうだな、今のお前が燃える何かをくれるなら、話は別かもな」

「燃える何か、って……」


 えっちなことでも良いですか、と言いかけてギリギリのところで堪えた。


「ご褒美でもなんでも良い、何か考えてくれ。そしたら頑張れる」

「わがままだなぁ」


 俺は未来の猫型ロボットじゃないんだぞ。


「おや、傷心の彼女のわがままも聞けないと?」

「聞かないとは言ってません」


 困ったことになったなと思ったが、こうして甘えられることに喜びを感じていた。柚梨に慰めを与えられるのであれば、幸いだ。

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