第9話

 まだ6月になってもいないのに雨ばかりだ。先輩と神社に行った次の日あたりから大きな低気圧と雨雲が日本列島を覆い始めた。今日も今日とて激しい雨が降りしきっており、道を行き交うのは車ばかりで徒歩の人間の数が少ない。飲食業にとってはつらい季節だ。客足は少ないというのにナマモノの足ばかりが早い。気怠い雨の日に飲むコーヒーもまた美味しいと思うのだが、そのためにわざわざ雨の中喫茶店に足を運ぼうと思う人間は少数派なのだろう。アルバイトの黒田先輩も今日は休みで、カウンターの奥で店長が暇そうにスマホをいじっているだけだった。


「店長、店の公式アカウントで時事ニュースにコメントするのやめてください」

「だってヒマだしなぁ……大丈夫だよ、特定政党を褒めるとかけなすとかしてないから」

「いつどこで炎上するかわかんないんですから……せめて芸能かスポーツニュース……いやそれもちょっとな……ともかく、もっと無害な話題を振ってくださいよ」

「炎上したって、垢消ししてまたほとぼりが冷めたら始めればなんとかなるだろ」


 ダメだこいつ。そのうちパスワード変更して店長がアクセスできないようにしてこう。日々の更新は黒田先輩に任せたほうが良い。


「模様替えすっかな……暇だし……」

「やめましょうよ、サイクル早すぎです。それより新メニューを写真に撮ってネットに上げるとか、アカウントを有効活用しましょう。燻製とか最近やってないんですか」

「湿気が多かったり暑かったりすると燻製がやりにくいんだよ」

「それじゃあ……女子高生がバンバン来たくなるような甘いものとか」

「スイーツねぇ……今更パンケーキもアレだし……何か流行のものって無いか。なおかつウチの厨房で作れる範囲内で」

「面倒な条件出しますね……ちょっと考えてみます」

「彼女にも聞けよ」

「柚梨はほぼ部活に全力投球なんで俺のほうが詳しいです」

「おいおい、それ本人に言うなよ」

「言いませんよ」


 というか彼女よりも喫茶店のスイーツに事情通だなんて自慢にもならない。喫茶店で働いてはいるから嫌味にはならないかもしれんが。

 そう思っていた矢先、喫茶店の入り口の扉が遠慮がちに開けられ、備え付けのベルが音を立てた。しまった、外の気配に気づかなかった。いつもよりワンテンポ遅れて、俺と店長がいらっしゃいませと来店した客に声をかける。客は傘も差していなかったようでずぶ濡れだ。おしぼりを渡さねば……と行動に移そうとしたところで、客がいつものお得意様であることに気付いた。


「……柚梨?」

「やあ、蓮。やってるかい?」


 そこにいたのは御法川柚梨だった。珍しく陸上部のジャケットを羽織って佇んでいる。そのジャケットも激しい雨に打たれ濡れており、いかにも寒々しい。


「そりゃもちろん、絶賛営業中ですけど……他に客も居ないし歓迎ですよ」

「じゃあ丁度良かった、コーヒーを頼む」

「ええ、すぐに」


 柚梨におしぼりと乾いたタオルを渡してカウンターへと座らせた。


「今日は室内練習じゃなかったんですか」


 と、尋ねて、しまったと瞬間的に悟った。

 こんな時間に、こんな様子で来た以上、何かがあったに違いないのだ。


「……いや、今日は県大会に向けてのミーティングがあってな」

「なるほど」


 気まずさを紛らわすようにコーヒーミルで豆を挽く。

 店長が気を使って奥へ引っ込んでくれた、というか、ただならぬ気配を察して逃げたな。まったく良い判断だよ。


「どうぞ、暖まりますよ」

「いつもすまんな」


 柚梨がコーヒーをゆっくりと味わっている。

 有線放送から白々しい音楽が流れていく。

 しばらくして、ぽつりと柚梨が呟いた。


「陸上の県大会、応援に来てくれるって言ってたよな」

「ええ、まあ」

「参加を見送ろうと思っている」

「…………えっ」


 参加を見送るって……え、待って、頭が追いつかない。


「いやいやいや、ちょっと待ちましょう。去年から練習頑張ってたじゃないですか」

「ああ」

「地区予選もちゃんと突破しましたよね?」

「そうだな」

「なのに……やめるんですか?」

「くどいぞ」

「あ、すみません」

「……あいつらにはほとほと愛想が尽きたんだ」


 事情を根掘り葉掘り聞きたい。確実に部内でトラブルがあったのだろう。だがどこまで聞いてよいものか。

 ……いや、話したくなければここには来ないと思う。恐らく話すつもりだ。だが無理に聞き出そうとしてストレスをかけても良くない。そもそも話したくても、本人自身どう話を切り出せば良いかわからないときもある。


「何か言われたんですね。俺絡みですか」

「言いにくいんだが……言わないわけにもいかないな」


 柚梨は自嘲気味にそうつぶやいた。


「キミのあの……おじいさんの件」

「誰かが漏らしたんですか」

「ああ」


 どうも脱力するな。言いふらしたけりゃ言いふらせば良いくらいの気持ちでは居るんだが、それを柚梨に言うというのが納得行かない。俺の家族の文句は俺に言えと言いたい。むしろそんなことでマウンティングに勝ったつもりになる人間が居ることが情けない。

 しかしバラしたとなると誰だろう。高田か、沖か。だが二人ともバラしたときのリスクは重々承知してるはずだ。高田は更にやらかしてしまえば陸上部への復帰は無理になるだろうし、沖がバラすにしても柚梨がこの通り怒髪天を衝く状態になってしまっている。


「ええと、具体的にはどんな風にバレたんですか。裏サイトとかチャットツールでて広まってたとか、単に噂話として広まったとか」

「……それは、だな」


 柚梨はもどかしそうに頬を指でかいている。


 そこでふと気付いた。なんで陸上部のジャケットを着ているんだろう。今日は練習はなくミーティングだったと言っていた。つまりジャケットを着る必要もないはずだ。普段はいつも制服を一分の隙きもなくきっちりと来ているのに。


「……先輩、上の制服どうしたんですか」


 俺がそう言うと、先輩はジャケットのジッパーを上げてこちらをきっと睨んだ。


「服の下をじろじろ見るもんじゃない。変なことを考えてないだろうな?」

「……いや、そういうつもりじゃなくて」


 嫌な予感が杞憂ならば良い。良いんだが……。


「真面目な話をしますよ。先輩が何でもないなら別に良いんです。でも俺は先輩と一緒にいてずっと心配してたことがあるんです」

「心配?」

「陸上部で俺をかばう先輩が、気付けば先輩が俺と同じような扱いになることです」


 先輩のコーヒーカップを持つ手が止まった。


「なんだ、変なことを心配するんだな」

「だってそうでしょう? 周囲から尊敬されてる人が、周囲から疎まれてる人を庇ったら、だいたい……」

「自分を卑下するな」

「いてっ、ちょ、あの、本気でつねらないでくださいよ!」


 柚梨が俺の耳を引っ張る。ゴム人間じゃないんだからやめてほしい。


「言葉が悪かったです。ともかく、俺が本来受けるはずの嫌がらせを柚梨に食らってほしくない、そういうことです」

「……そうやって嫌がらせを受ける前提で考えるな」

「でも実際問題、柚梨は受けた」


 柚梨は沈黙したまま、俺に言葉を返さなかった。つまりはそれが答えだった。


「具体的なことを言わなくてもいいです。ただ一つだけ」

「なんだ」

「先輩が俺を庇ってくれて何かされたって言うなら、俺が何かされたってことと同じです。俺は辛いし、腹が立つし……悲しい」


 先輩の、カップを持ったままの指先をその上から撫でた。


「だから、俺には強がらなくて良いってことは知っておいて下さい」


***


 柚梨を宥めすかし、慰め、そしてようやく何をされたのか詳しく聞き出すことができた。

 従業員用の更衣室に先輩を招き入れて、柚梨はスポーツバッグに入ってる物を俺に見せる。中に入っていたのは、乱暴に来られた赤い布切れだった。


「うわっちゃあ……」


 布切れは、制服のタイの成れの果てだった。

 これはまた陰湿だ。そして「ビッチは部活来るな」というメモ書きが添えられている。

 ここから感じるのは、いじめにありがちな蔑視や遊び心ではない。義憤に近い怒りだ。あえて過度な行為に踏み込むことで、怒りの正しいのだと主張しようとしている。そんな、青すぎる暴走の匂いだ。


「あまり乙女のものをジロジロと見るもんじゃない」


 強がっているようで、声が震えている。今、まざまざと現実を見せられたショック、俺が見ているという羞恥心、様々な物が駆け巡っているはずだ。俺はストレートになじられたり詰め寄られたり後ろから蹴られたり財布を狙われたりということはあったが、こういう嫌がらせは俺も未体験ゾーンだ。


「大丈夫です」


 落ち着かせるように肩を抱き、頭を撫でた。最初先輩は嫌がるような仕草をしたが、気にせずにそのまま撫でた。少なくとも、俺は柚梨にこうされて嬉しかった。髪はまだ少し雨に濡れている。艶やかな黒が綺麗で、素手で触れて良いものか迷うほどだった。


「……ミーティングっていうのは、まあ、嘘だよ。本当は屋内練習だった」

「なるほど……」


 更衣室に置いておいた制服が被害にあったわけか。


「……なんだかな、自分らしく振る舞おうとすると、こうして手のひら返しを受ける。部のために何かをするのが馬鹿馬鹿しくなったよ」

「悪いことは何もしてないです」

「したとも」

「……どんなことですか」

「お前のことを助けもしなかったのに、自分が追い詰められるとこうやって甘えている」

「そりゃ逆です。先輩から俺に近づいてきてくれたから今こうしてるわけで」


 少なくとも、柚梨が俺と一緒に居るだけで、十分な周囲への牽制になってくれたと思う。校門でばったりと陸上部の面々と出会ったときも、俺に面と向かって何か嫌がらせする人間はいなかった。すれ違いざまに嫌味を言われた程度だ。まあそれ故にやっかみを呼んだケースもあったが、それはそれで俺も周囲の反応を楽しんでしまったので同罪だ。


「あれ、でも……」

「ん? どうした?」

「俺のことは別に何も書いてないですよね」

「……ああ、直接言われたからな」

「うっ」


 この御法川柚梨に対して蛮勇なことだ。今でこそがっくり来ているが、元気を取り戻したらどうなるか考えなかったのだろうか。この人は転んでもタダじゃ起きないぞ。多分。


「……もしかして、沖だったりしませんよね?」

「いや、違う」


 あ、良かった。この前の件で恨みが爆発したとかってわけでは無さそうだ。だが違うとするとそれも厄介だ。他に心当たりがない。他に俺が恨まれてるとすれば高田くらいだが、それが先輩への悪意になるかというと難しい。


「沖とよくつるんでいる、笹原だ」

「ああ……」


 先輩のその言葉で、沖と口論した一件が尾を引いているのだろうとすぐに思い当たった。

 今の陸上部の二年生以下の女子は、沖を中心に纏まっている。沖のようなシンプルでまっすぐな人格というのは人を惹き付けるものらしく、一年生からも慕われ、また上級生からも次代の部長か副部長として期待されている。というか柚梨が期待していた。俺としては沖は視野狭窄してるような気がしないでもないのだが、それは一意専心して何かに取り組む人間であることの裏返しでもある。その沖の親友の一人が笹原だった。沖が裏で笹原に何かを言って、こんな事態になった……というところだろうか。もっともまだ確証は何もないが。


「……ぶっちゃけますよ。ただ単に解決するなら簡単です。変質者が更衣室に忍び込んで悪戯されたと警察に言えば解決します。いっそ警察を呼んだって良い。問題をできる限り大きくすれば、その過程でなんとかなります。まあ実際にそこまでやらなくとも、そうしようと思う、と伝えるだけで解決するかもしれません」

「うん」

「ただそうなると、大会どころじゃなくなりそうです」

「だろうな」

「それでも良いですか?」


 柚梨の目が少しだけ泳いだ。


 少なくとも、柚梨には目標があったと思う。なんとなく走ってなんとなく部活のメンバーと遊んで、といったような日常生活を彩るためだけに走っていたようには見えない。

 問題を大きくすることによって大会に出られなくなる、とまではいかないかもしれない。迅速に問題解決を図ることと大会に参加することの両立は不可能ではないと思う。だが、確実に何かしらの影響は出る。雑事が増えるという以上に、メンタル、フィジカル共にベストな状態での参加は難しくなると思う。何か目標を達成するために大会に出るのか、それとも大会に出ることそのものが目標なのか。彼女にとっての大会、彼女にとっての陸上というものが俺にはまだわからない。だがその答えによって、柚梨が何を選択するかが異なってくる。そして答えを選んだとして、それが後悔のない選択であるかどうかの保証もない。


「先輩が大会に行かないって決めたなら協力するし、逆に部に居座って相手を叩きのめしたいって言うならそれも協力します。なんでもやります。でも……」


 本当にそれで良いのか。とは言葉に出さなかった。大会に出ないということがどういうことなのか、その重みを一番知っているのは、柚梨自身であるのだから。


「……私も考えてることがある。ひとまずは良いさ、ありがとう」


 そう言って、柚梨は再びタイを鞄にしまい、ジッパーを閉じた。傷を覆うかのように。

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