第8話

 丸い女の子が病院へと続く歩道にへたり込んでいた。

 腹が丸いとか顔が丸いとか、そういうレベルではない。なんかもう、ぜんぶ丸い。

 腕も指も丸いし脚も丸い。髪型も、所作や息遣いも丸い。


 太ってる、と言いそうになって堪えたのを今でも覚えている。

 この頃、ばあさんへの病室に行く途中でやたらと太っている人を見かけて「すごいでぶが居た」と言ったら母さんから拳骨が落ちてきたのだった。病気や薬で太っている人がいるのだからそんなことを言ってはいけない、特に病院の中や病院の周囲で他人をじろじろ見るな、というお叱りは未だに自分の心に強く刻まれていた。


「おかあさん」

「わかってる」


 母さんは看護師だ。倒れている人を見てもうろたえない。このときも冷静に対応した。


「体温も脈も大丈夫ね……大丈夫? あなた、声聞こえる?」

「はい……」


 どうやら意識ははっきりしているようだった。息は荒いが、お母さんの質問にちゃんと受け答えをしていた。どうやら病気で倒れたとかではなく、単純にバテたらしい。母さんが聞き出したところでは、この病院の周囲にあるジョギングコースを歩いて病院へ戻ろうとしたところ、体力が尽きたのだとか。


「蓮、運んであげな」

「え、いや……」

「病院まで運んであげられたらプラモ帰りに買ってやるよ」


 いや、そうじゃなくて重すぎやしないか、と言おうと思って口を噤んだ。だがこれも多分、母さん的にはNGワードであろう。それにこの頃の俺は模型にハマっていたので、簡単にチャレンジする気になった。


「大丈夫? 捕まって」

「え、その……私、汚いし……」

「なんで?」


 別に汗かいてるだけでジャージも靴も新品っぽい。何を嫌がっているのだろう。だから、それがどういう意味で言ったのか何も気にせずにこの子を持ち上げた。背中におぶさる気はなさそうだったので、膝の裏と背中に手を回した。


「うわわっ!?」

「お、蓮、やるじゃん」


 丁度、重い物を持ち上げるコツを先生に教えてもらったばかりで、何とかこの子を持ち上げることができた。女の子も丸いけれど身長はそこまで高くなかったように思う。

 目指す病院までは一キロメートルも無かった。が、女の子を担いでの数百メートルは死ぬほど長かった。


***


 病院に送り届けたあと、この子の母親らしき人とも会った。秋野さんという女の人で、なんというかすらりとした美人だった。丁度帰りが遅く心配していたところだったようで、ひどく感謝されたのを覚えている。秋野さんの娘さんは医者から、とにかく体力をつけなければいけないと言われたのだとか。それ故、医者の診察が終わったあとにジョギングコースを歩いているということだったらしい。が、なんとなく肥満も原因なのだなと察した。何か強い薬を飲んでいたり、あるいは珍しい病気にかかっているという気配も無かったのでそう思ったが、子供心にあれこれ問いただすのは良くないということがわかった。もしここが教室ならもっと子供じみた悪態をついていたかもしれないが、ここは病院で、多くの大人達が真剣に過ごしている場所であり、茶化したことを言う気持ちにはならなかったし母さんの逆鱗に触れるのも怖かった。

 それ以来、病院に行く度にこの秋野母子と顔を合わせた。この頃の俺は週末にいつも母さんと一緒にばあさんの見舞いに来ていたのだが、どうやらこの子が病院に来るタイミングが被っているのだった。そこから何故か、この子と自分が一緒にウォーキングをすることになった。見舞いのとき、ばあさんの主治医と母さんが小難しい話をするときは病院内の休憩室や食堂で待つのが通例だったが、当時母さんは俺を一人で置いておくのが不安だったらしい。またこの子の母親も医者と相談をしたり子供に聞かせたくない話をする状況があった。「一人にさせておくわけにもいかないが、かといって付きっきりというわけにもいかない」という事情が母同士で噛み合った。

 病院の中で一緒にゲームをすることもあれば、ウォーキングやジョギングに付き合うこともあった。この頃の俺は小学校の陸上クラブに入っていたので、脚には相当な自信があった。あの子に、どうしてそんなに体力があるのかと聞かれれば、陸上をやっているからなのだ、身体を鍛えるなら走るのが一番だと自信満々に答えたはずだ。もっとも学校では上には上が居たし、サッカーやバスケの上手い奴の方が最終的にはリア充だったが。


「蓮くんは凄いね!」


 学校ではこんな風に純粋に褒めてくれる人は居らず、同年代の子に手放しで褒めてもらえたのはこの子が初めてかもしれない。だから調子に乗った。天狗になった。穴だらけの知識で走るフォームだとか腕の振り方だとか腹式呼吸だとかを教えた。今思えば「あれは間違ってたな」という知識もあったのに、あの子は言われるがまま従った。そしてあの子が、歩くことのできる距離が長くなり、周回する時間が短くなっていく。人間は成長するということにひどく驚いた。あからさまに運動音痴な人間が変わっていく様子を、生まれて初めて目の当たりにした。大人向けのジョギングコースを一度もくじけずに走りきったときは快哉を叫んだ。何かお祝いのものをあげねばと重い、ついそのとき手にしていたものをプレゼントした。無病息災のお守りだ。母さんがばあさんのためにお守りを買っていたが、他の見舞いに来た人と丁度被ってしまったのだ。それで婆さんが、「蓮の方こそ元気に大人になれ」と言って俺に渡してくれていた。そんな経緯で貰ったものをまた人にあげるのもどうかとは思ったが、この頃の俺は俺自身が持つ元気とか健康とか肉体には絶対の信仰があったのでお守りなんて不要だと思っていたし、自分があげられるものはこれくらいしかなかった。だからあの子からは喜ばれつつも、これを本当に貰っていいのかとしつこく尋ねてきた。


「じゃあ、俺が病気になったりピンチになったりしたらお守り返してくれ」


 そう言って、あの子に……そう、秋野ミカンちゃんに、お守りを押し付けるように預けたのだ。


 だが、あの子との付き合いは唐突に終わることとなった。見舞いのために病院に通う必要が無くなったのだ。ばあさんの体調が急変し、病院内で逝去した。父さんも母さんも、そして当然じいさんも、葬儀のために慌ただしくなった。それ以来あの病院には行くこと無く、あの子とも会わなくなった。


***


 何故か子供の頃のことを夢で見たので、具体的に過去を思い出しつつそういえば小学生くらいの頃までがモテ期だったなぁなどと感慨にふけっていた。もっとも体力自慢でモテるのは子供の頃くらいだし、スポーツを続けるにしても生まれつき備わった体力以上の努力や才能や環境が求められる。今の俺は、純粋にガッツやパワーで何とかなるという一種の信仰や純粋さを失ったのだとしみじみ思う。あの子に向けた純粋な善意を今の俺は持てるだろうか疑問だ。むしろ白昼堂々と女の胸で甘えるダメンズになってしまった。だがそこを嘆いても始まらないし先輩には今の自分にできる恩返しをしたい。そのためにはまず今日のバイトを頑張ろう。

 服を着替えて喫茶店に顔を出し、いつものように忙しい日曜のランチタイムをさばいたあたりで喫茶店に先輩が遊びに来てくれていた。もうすっかりお得意様の一人と言っても良いだろう。


「お前達どっか遊びにでも行ったらどうだ。若いのに熟年カップルみたいな行動パターンしやがって」


 と、店長が微妙な顔をして言ってきた。


「忙しいんすよ」


 俺と御法川先輩……いや、柚梨とは今も付き合いを続けている。仮の付き合いなのか本気なのかはわからないが、俺は少なくとも彼女のことが好きだ。ちなみににいつまでも名字+先輩呼びはどうなんだと文句を言われて名前で呼ぶことになったが、いまだに慣れない。そんなこんなで俺達はこれまたいつも通りの日常を過ごしている。相変わらず柚梨は部活で忙しいし俺も家のことやバイトがある。一緒に行動できるのが平日の昼休みとバイトの日曜日だけという、パターンの決まりきった毎日だ。日曜日のバイト中、柚梨は客が減っている昼下がりのタイミングを見計らってやってきてくれる。そんな店員に気を使ってくれるような素晴らしいお得意様に対して、叔父貴はなんて口の利き方をするんだ。この男の親の顔が見てみたい。と思ったが、家に帰れば仏壇の写真をいつでも拝める。三回忌も終わったばかりだった。


「ったく、甥っ子に甲斐性が無くておじさん涙が出てくらぁ」

「あー、その、部活が忙しくて思い切って遊ぶってのも怖くて……ご迷惑でしたら」


 と、思わず柚梨が助け舟を出してくれたが、叔父貴流の冗談だから気を使わなくていいです。


「悪い悪い、親族ジョークだよ。いつでも歓迎だから。ただまあこいつが何かやらかしたらいつでも言ってくれ」


 俺に対してまったく信頼がない。柚梨もにこやかに「はい」と言うものだからますます立つ瀬がない。


「ところで柚梨、県大会、皆の前には顔出さないけど応援は行きますよ。地区大会はちょうど高田の件があって応援すら行けなかったし」

「……うん、そうだな」


 おや? 妙に歯切れが悪いな。


「もしかして、こないだのことで沖と折り合いが悪いとか……」

「悪いっていうか、距離はできたよ。ただまあそれで何か悪いことが起きたってことはないよ」

「なら良いですけど……」


 人間関係の不和で大会に影響が及んだら流石に先輩に申し訳ない。

 しかし俺ではその不和というものをどうにかする力はない。むしろ沖達と顔を合わせると傷跡に塩を塗り込む結果になりかねないので、陸上部に関してはノータッチというスタンスを取らざるを得ない。


「……しかし確かに店長の言う通り、私が君の店に顔を出すだけというのも由々しき問題だな」

「そうそう」


 柚梨の言葉に店長がうんうんと頷く。


「これじゃ私がまるで、夜の駅前で活動するバンドマンに『私だけはあなたの才能を知っているの』みたいなしたり顔で聞いているイタいお姉さんのようじゃないか」

「とりあえず柚梨、待って、自虐するのと俺を売れないバンドマン扱いするのやめて」

「じゃあどこか連れて行きたまえ」

「うーん……」


 まあ確かにデートがマンネリするというのは寂しいものがある。

 かといってカラオケや映画というのもちょっとな。何か歌いたいという気分というわけでもないし、映画も特に興味が惹かれるのを流しているわけでもない。なんとなく映画館に飛び込んだら好みの正反対だったとなるのも怖いし事前調査が必要だ。他にこのへんだとスポーツ系の施設……も、ちょっとなぁ。部活の練習時間以外で身体に負荷をかけるのは先輩の体調にとってよろしくない。これもせめて大会が終わってからにしよう。


「……あ、そうだ。ちょっと付き合ってくれますか?」


 一つ思いついたことがある。

 困った時の神頼みだ。


***


 黒田先輩が来てシフトをバトンタッチし、黒田先輩のリア充滅びろという呪いの悪罵を背中に受けながら先輩と共に街へと繰り出した。今は5月で梅雨も始まっていない。暑すぎず寒すぎず、外へ繰り出すには一番良い季節だ。


「蓮はこのあたりはよく知ってるのか」

「ええ、まあ店長……叔父貴の店は子供の頃からよく遊びに来てたし、この周辺もなんとなく覚えたんで」

「そうか……」


 このあたりは大型スーパーも遠く、商店街がまだ根強く残っている。喫茶店以外にもラーメン屋やレストランといった飲食店が並ぶ他、個人で営む雑貨屋や服屋などが並んでいる。どことなく郷愁を誘いつつも猥雑さも混ざり合う、そんな不思議な街並みを抜けて歩いて行く。


「……なあ、蓮、もしかしてこのあたりか」

「いや、もうちょっと奥の……」

「きゅ、休憩とか言い出さないだろうな」

「へ?」


 休憩って、喫茶店で休んだばっかりでしょうが、といいかけて気付いた。あ、このへんラブホが並んでた。


「違う! 違います! 近道してるだけです!」

「そ、そうだな、すまん」


 やめてくれ、そんな恥じ入る顔をされたらムラムラする。

 ラブホや居酒屋といった夜の店が並んではいるが、今は昼間なので変な酔っぱらいなどもいない。なので危ない場所というわけでもないのだが、


「とりあえずまあ……はぐれないで」

「……うん」


 先輩の手を握り、繁華街を抜けていく。電柱に貼り付けられたピンクチラシを横目にうらぶれた中華料理屋とパチンコ屋の間をすり抜けて狭い道のりを進んでいくと、不思議と静謐な場所へと辿り着く。


「よし、ついた」

「……こんなところに神社があったのか」

「周囲に繁華街やビルがあるせいで外からはなかなか見当たらないっていう、嫌がらせみたいな立地でしてね」


 石畳の上を歩いてこじんまりとした鳥居をくぐれば、これまたこじんまりとした可愛らしいサイズの神社があった。四方は背の高いビルの背中で囲まれており、神社の空を四角く切り取っている。まるでここだけプレイ途中のテトリスの陥没のようだ。


「ちなみに、相当古くからあるんで歴史好きな人にとっては観光スポットだそうですよ。昔は戦国武将が必勝祈願に来たとか」

「本当かい? じゃあ百年二百年どころじゃないだろう」

「いやマジで。ググれば出ます」

「ここでスマホをタップして調べるのも風情がないなぁ」

「でも神主さんとかけっこう使ってるんですよ。巫女さんは使ってないけど基本的に学生バイトだからだし」

「ちょっと幻想が壊れそうだよそれは……」

「いやあそのうちスマホの神様とかもどっかで祀られるんじゃないかなと」

「なんだそりゃ」


 柚梨がくすくすと笑い、俺は心なしかホッとした。突発的なデートプランはそこまでハズレたわけでもなかったらしい。


「と、それよりも……」


 俺は、神社の側にある小さな小屋に近付く。そこには「硬貨のみお入れ下さい」と注釈が書かれた古びた木箱と、その横に大きなガラスケースが置いてあった。ガラスケースは施錠されておらず、赤字に金色の刺繍のされたお守りがざっくばらんに転がっている。お守りや絵馬の無人販売だ。


「えーと、必勝祈願は……あったあった」


 げ、五百円か。人件費ケチってる癖に割高だな。しかしまあ、この手の物に高いと文句をつけるのは無粋だろう。財布から五百円玉を取り出して、これまた古臭い郵便受けの如きお金入れにちゃりんと落とした。


「はい、どーぞ。大会とか受験とか諸々がんばってくださいね」

「……」


 柚梨の手にお守りをぽんと渡す。柚梨はそれを、不思議そうな、きょとんとした瞳で見つめていた。


「……これ、必勝祈願か」

「ん? そうですよ」

「無病息災とかはないのか」

「ありますよ他にも」


 ついでに買っておくか。


「もう一つくらい持っておいてもいいでしょう」

「こ、こら、ねだったわけじゃない」


 先輩は慌てて俺を止めて、自分の財布から五百円玉を取り出した。


「……こうしよう。私は今貰ったお守りを持ってる。蓮は無病息災の方を持っておけ」


 別に風邪も引かないし怪我もないんだがな。

 でもまあ、せっかくの贈り物だ。ありがたく受け取っておくか。


「わかりました」

「私はこれ、大事にするぞ。お前も大事にしろよ」


 柚梨は、陰の無い幸せそうなほほ笑みを浮かべて俺の胸を肘で小突いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る