第11話
ほんの少しでも柚梨に元気を取り戻させてあげられただろうか。
きっとそうだと思いつつも、むしろ元気をもらったのはこっちかもしれない。ハンドクリームを塗ってもらった手が暖かかく、温もりの残滓が身体の芯に染み入ってくるような気がした。
そんな感慨を抱きつつ家に帰り、俺は沖に電話を入れる。
「あ、もしもし。沖か」
「井上……」
その声は、学校で話したときよりも一層どんよりとしていた。電話越しですら彼女がひどく消耗していることが手に取るようにわかった。
「ええと……なんか、そっちはダメっぽいな」
「……本当、最悪よ。弓子は意固地になるし、他の人は弓子のこと責めるし……私も責められるし……」
まあ自業自得だけどね、と付け加えて沖は力なく笑った。
「先輩は、やっぱり大会に来ないつもりなの?」
「俺から言ったとは言わないで欲しいんだが、やっぱり笹原達が謝らない限り戻るつもりはないとさ」
「そう……」
落胆した声で沖は呟く。これはまた、前途多難そうだな。
「……難しそうか」
「みんながみんな、弓子のやることに賛成してたわけじゃなかったし……。つかみ合いのケンカになりそうだった」
「修羅場だな……他の連中は? 部長とか、あんまり関わってない連中とか」
「県大会には出場しないけど応援するメンバーは、なんかもう白けきってる感じね。当日来ないかも」
「……なんとか笹原を説得してくれないか。無茶振りして悪いとは思ってるんだがこのままじゃ引っ込みがつかない」
「……なんとかやってみる」
沖の声には張りがなく、あまり自信が無さそうだ。笹原とはあまり話したことはないので何とも言えないが、笹原が「沖のために」そういった暴挙に走ったとすれば、沖から否定されるのは裏切られたように感じるかもしれない。どう話をするかは難しいところだろう。だが、笹原を説得できるとしたらそれこそ沖しか居ない。沖には悪いがここは踏ん張ってもらうしか無い。
「あ、でも……」
「どうしたの、井上」
「もしかしたら、俺にも謝らないと柚梨……先輩は納得しないと思う」
「……うん、それも含めて、説得してみる」
「しかしなんで俺の家が詐欺にあったって話がバレたんだ? もしかして高田じゃあるまいな」
「……たぶん、高田で合ってる。私が直接聞いたわけじゃないけど……」
「直接聞いたわけじゃない?」
「高田の友達から聞いたから……」
「面倒だなまったく」
二度と高田と話すのは嫌なのに、もう会う理由ができてしまった。くそ。
「話変えよう……先輩って去年からずっと、熱心に練習してたよな」
「うん、そうね」
「あんな風にあっけらかんと不参加を決められるもんかな」
「……それは、あんまり陸上に未練が無いからじゃない」
「へ? 未練がない?」
「あれ、知らない?」
「思わせぶりなこと言わないで話してくれ」
「……へえ、聞きたいんだ」
沖の声色には優越の響きがあった。この野郎調子にのるなよ。
なので俺は無言で電話を切る。
「……」
30秒ほどだって向こうから電話が掛かってきた。
「い、いきなり切らないでよ! お、怒った……?」
「怒った」
「ご、ごめん……」
「わかった、許す」
「ずいぶんあっさり許すのね……」
「ごめんの一言で済む話はごめんで許す。でも謝らない限り譲らないからな俺は」
「わかった……先輩があんたと居て疲れないか疑問だわ」
「ともかく、柚梨のことなんだが」
「……陸上やってたのは、単に友達と一緒にやりたかったからだって。その友達も辞めたし記録にも満足してるし、あんまり未練が無いって前に話してたの。大学に進学したらあんまり続ける気は無いとも言ってたし」
「その友達って、誰なんだ?」
柚梨について、部活以外の人間関係はちょっと希薄に感じる。世間話する友達は多そうだが、休みは部活で練習してるからクラスメイトと遊びに行ってるという様子も無い。柚梨の親友と呼べるような人の顔は思い浮かばない。あの人けっこうぼっちだ。
「それは私もよくわからない……小学校の頃って話だからウチの高校じゃないのかも」
「……そういえば、友達よりも速くなって気まずいとか言ってたな」
「多分その件だと思う」
今現在、目指すべき目標が無い状態と考えるとモチベーションが上がらないのも当然なのかもしれない。習慣や惰性で続けることは悪いことではないが、上を目指したり大会でベストな記録を目指す上では良くない。それを考えると、今の柚梨が燃えないと言っていたのも当然なのだろう。
だが不可解なところもある。それならば普段の練習をそこまで頑張る理由にはならないはずだ。俺が辞めてからのことはわからないが、それまで柚梨はそれなりに高負荷の練習をこなしていたように思える。もしかしてその友達とやらが陸上を辞めたというのはごく最近のことなのだろうか。
考えれば考えるほど、柚梨が大会に出たくなるような何かを探すのは大変に思えてくる。
「……まったく、なんで笹原も高田もランナーの癖に陸上で白黒付けようとしないんだ」
「弓子が先輩に敵うわけないじゃん、大体先輩より速い人間なんて……」
と、そこまで言って、沖は言葉を止めた。
「なんだ、誰か居るのか」
「私」
「は?」
「練習でタイムが上回ったことはある……大会とかでは一回も勝ったこと無いけど」
そういえば、調子が出れば沖は速いと先輩も言っていたな。本番では遅いということだが。まあ大会では空回りしたり萎縮するのは割とよく居る。恐らく陸上に限った話ではあるまい。
「もしかして、そのへんもあるから笹原達に担ぎ上げられてるところもあるんじゃないか?」
「それは……あるかも……」
体育会系にしろ芸事にしろ趣味のサークルにしろ、何かをプレイする集団には常にヒエラルキーが成立する。その中で誰より強く、誰より弱いか、ということだ。陸上に取り組む人間というのは基本的に思考回路がプリミティブだ。人が弓や棍棒で獣を狩っていた頃から変わっていない、本能で決められた価値観の信奉者達だ。
物を遠くに投げられる奴が偉い。
高く跳べる奴が偉い。
足の速い奴が偉い。
優れていることが正しさを保証はしないが、威厳は保証する。
「ちょっとした考えなんだが、聞いてくれ」
「なに?」
「お前、先輩と勝負しろ」
偉い人間を決めるためには、いつだって全力で勝負するしか無いのだ。
***
至極どうでも良い話だが俺はA組に在籍し、高田はC組に在籍している。廊下を渡れば一分もせずに付く。不干渉を貫くには近すぎる距離だ、味噌汁もろくに冷めない。もっとも、あいつは随分早い時間に登校しているせいか下駄箱で鉢合わせするということはまず無い。だがそれ故に俺の方からあいつのところへ赴く必要がある。メールアドレスやSNSのアカウントといった連絡手段もない。
俺がC組の教室の扉を開けると、奴は居た。隣に座っているクラスメイトと雑談していた。
高田は背丈があり体格に恵まれている。だがその割に細面でこざっぱりした印象の男だ。スポーツに熱心な割に暑苦しさを感じないスマートさがあり、周囲からの評判は悪くない。おかげで友達も多い。俺とは正反対の男だ。なんでこいつが俺につっかかってきたのか、俺は今も理解できないでいる。
「高田」
俺が声を掛けると、高田は胡乱げに俺の方を見上げ、そして俺だと気付いて狼狽えた。
「……話しかけないんじゃなかったのかよ」
「そういうわけにもいかないから来たんだよ。昼休み、どっかで話したい。良いか」
「嫌だよ」
「そうか、じゃあ陸上部復帰は諦めるんだな」
先生に言ってやろー、という対処をお願いするほかあるまい。小学生のようで情けないが四の五の言ってられん。むしろ話が早くて助かった。
「お、おい、どういうことだよ」
「いや、もう良いよ。じゃあな」
俺は高田の言葉に一切返事をせずに教室を出て廊下を歩いた。向かう先は職員室だ。面倒事はさっさと終わらせるに限る。むしろこれで終わると思えば気持ちも楽だ。俺の家庭の事情が高田の口から漏れたと顧問の武田先生に話して、あいつの陸上部復帰の話は無しにしてもらおう……と考えていたあたりで高田に肩を掴まれた。
「待て、待ってくれ」
俺は苛立たしく呟くように高田に言った。
「やめろよ、高田」
「……わかった、話そう」
「はじめから素直にしてれば良いんだよ」
自分で言ってなんだが悪役極まりない台詞を吐いてしまった。どうも昂ぶってしまって無駄な挑発をしてしまう。まあ、もし殴ってくるならむしろしめたものだ、有利になるのはこっちだ。
俺は高田を連れて渡り廊下にある自販機の前まで来た。丁度ベンチもあるため、話すにはもってこいだった。校門とは教室を挟んで反対の位置にあるため、始業前にここに居る人間は少ない。
「用件を言うぞ。お前俺の家族が詐欺にあったことを話したな。沖と笹原が言ってた」
「……言ってねえよ」
「じゃあなんであいつらが知ってんだよ。あいつらは杉から聞いたって言ってたぞ」
と言うと、高田は目を逸らした。本当に知らないかもしれないが、正直疑わしい。
だが同時に、前に柚梨から言われたことを思い出す。友達がいないから俺のことをかばってもらえないという話をされたことがあった。思い返すとあの人は俺に対して妙に辛辣なときがあるよな。こういうとき確かに味方が居れば便利だろう。だが便利の裏にはコストもある。例えば俺の代わりに誰かが嫌がらせを受けて部に顔を出さなくなってしまうなど。
「し、知らねえよ」
柚梨が受けた仕打ちは許しがたい。ただ正直言うと、こういう状態になって柚梨を助けようとすることに、互いに庇い合うという明言されることのない契約を守ることに、ある種の使命感や心地よさを感じる自分がいる。世の中において不正やえこひいきがなくならないわけだな。
「別に俺にちょっかいを出すなら出すで良い。言いたけりゃ言えよ。でも俺をダシにして御法川先輩にちょっかい出すなら俺もそれ相応の対処をするからな」
「だから知らねえって! 杉が何を言ったか知らないが俺のせいにされても困る!」
「じゃあ杉が言ったってことで顧問の武田には言うことになるが……」
「……」
高田の口が止まった。友達甲斐の無い奴だなと思ったが、確かにこいつのリスクを考えればおおっぴらに俺のことを言いふらしても利益はあるまい。口の軽さ故に漏れ出たということも大いに有り得るとも思ってはいるが、実際どうなのか判断が難しい。
「その……直接教えたわけじゃない。ただ、お前が昔トラブルがあって隣の市から引っ越してきたって話はした。なんでも良いからお前のことを教えてくれって言われて。あとは杉が自分で調べたんだと思う」
黒に近いグレーじゃねえか馬鹿野郎。と言いそうになってぐっと堪えた。無駄な挑発は避けて話を聞き出さなくては。
「なんでそんなこと調べる」
「笹原達に良い顔したかったんだろ」
なんだそりゃ……と言いたいところだが、男子高校生として女にいい顔したい気持ちはよくわかる。俺も多分柚梨のためならそれなりに卑怯な手段も取るだろうしな。だがやられる側に立つと酷く消耗する。
「……わかった。お前の復帰を辞めさせろとは言わないが今回の件は顧問に伝える。それと杉の口止めもしろ。しないなら徹底的にお前の邪魔をするからな」
「わかった」
「……お前、陸上部に復帰したいのか」
「……やることもないしな。悪いかよ」
舌打ちをして、高田は俺から目を逸らした。
こいつが今、何を思って部活に復帰しようとしてるのかはわからない。家庭事情も悪いだろうなとは察したが、そこからは先はわからないしわかりたくもない。俺に事情があるように高田にも何らかの事情がある。というか、事情のない人間など存在しない。だから考慮に値しない。
思い返せば最初、俺が日曜練習をバイトを優先して休んだことで他の奴が俺を怒ってきたことが切欠だった。俺はそこで反論した。こっちにも都合があるんだから仕方ないだろう、大体参加は義務じゃない、俺だって参加できるなら参加したかった。お前こそ義務を果たしているのか。つい言葉で難癖をつけて責め立ててしまった。そこから高田がしゃしゃり出てきた。俺が逆ギレしたように見えたのだろう、高田に首を掴まれてロッカーに叩きつけられた。
そこから、ちょっとずつ歪んでいった。
俺が一年生の頃の三年生は「程々に部活を楽しむ」というスタンスの人間が多く俺のような奴は目立たなかったが、進級卒業にともなって旧三年生が去ったことで俺は少数派になった。土日の練習に参加しない人間はなんらかのペナルティを受けるべきだという空気が醸成されていた。故に高田達にとって俺は間違いなく逆ギレであり、反省の様子すら見せない生意気なサボり魔だった。だから土日のハードな練習の鬱憤晴らしの対象が俺になった。月曜日の部活は常に憂鬱だった。器具の片付けや朝練の準備は俺や俺のように休んだ人間の仕事になった。それに対しても俺は反論した。準備や片付けをするのは構わない。やるとも。だが頭ごなしにあれこれ命令される謂れはない。
口論には結論が無かった。筋が通る通らないなど高田にとっても俺にとってもどうでも良かったからだ。高田にとっては不公平を糾す正当な主張であり、俺にとっては侮辱を撤回させる公正な主張だった。加熱した口論の先にあったのは暴力だった。高田が殴り始めたあたりで他の男子部員が止めるが、それは結局「ほどほどで止める」ではなく「ほどほどに殴らせる」が目的だ。俺が殴りかかろうとしたら逆に他の部員達に羽交い締めされ、あの日が来るまで俺は一方的にやられ続けた。
そのうち高田は、金銭で贖わせるということを思いついた。迂闊なことに、俺がジャージに着替えているとき、叔父貴から手渡しで受け取った給料袋を高田に見られたからだ。後は、高田が迂闊なことに俺の金を強請ろうとして、全部破綻した。俺も高田も陸上部を去った。
「良いか悪いかで言えば悪いとは思うが、こっちに面倒事を持ち込まないなら好きにしてくれ」
「……で、話は終わったなら帰っていいか」
「ああ、それじゃあな」
俺がそう言うと、高田は素早く踵を返して教室へと戻っていった。足取りは速い。俺もあいつの立場だったらすぐにでも去りたかったことだろう。
そして、その足早な背中を見て俺は深く安堵した。
本当は、高田がいつ我を忘れて殴ってやこないかと思い恐ろしかった。殴ってくるならしめたものだ、有利になるのはこっちだ、などと表向きは考えていたが、そんなものは強がりだ。実際のところ、高田を病院送りにしたのは物の弾みだった。これ以上踏みにじられ殴られ奪われるのが怖くて、とっさに拳が出てしまったのだ。部活で誰かに馬鹿にされながら続けるのがみじめで、駄々っ子のように手を振り回したのだ。だからケンカで勝つなんてことが二度も三度もできるとは思わない。倒れた高田を蹴ったのは、立ち上がってくるのが恐ろしかったからだ。嗜虐的な快楽も自分が殴られる側ではなく殴る側にいるという安全圏に居たからこそだ。その安全圏から出るのは、怖かった。だがもっと怖かったのは、俺が柚梨を助けることもできず、俺をなじり殴ってきた相手に面と向かうこともできず、柚梨に哀れまれることだった。本当は、ほんの少しだけ、「見直したぞ」と言われて、嬉しかった。そして自分の情けない姿をいつも見られていたことを自覚して、恥ずかしかった。いつだって強い振りをしていないと、自分は決して傷付かない鋼の心と体を持っているのだと嘘をつかないと生きていけなかった。
自販機に小銭をねじ込み乱暴にボタンを押す。プルタブをこじ開けて缶コーヒーの暴力的な甘みを一気に嚥下した。ひどく疲れたという気分と、懸念の一つを消し込めたという達成感があった。だが、まだやるべきことは半分も終わっていない。これからまた長い一日になると思うと憂鬱だ。柚梨に際限なく甘えたいという気分と、柚梨にだけは今の姿を見られたくないという気分がないまぜになった、不思議な倦怠感に包まれていた。
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