最終章 『月花美陣』 PART6

  6.


「これだよ。これ」


 凪は時計を見つめながら勢いよくいう。


「この時計がどうしたの?」


「これはお前の持ち物じゃない。志遠のだ」


「嘘。これはお母さんから形見で貰ったものよ」


「それは腕時計だよ」


 凪は首を振りながら答えた。


「この懐中時計は志遠の父さんの形見だったんだ。本当はお前のものじゃない」


「……でも裏には『花弔封月』って書いてある」


 葬儀場に大きく掲げられている文字だ。花鳥風月という文字を改変したのは自分の父親の明だ。それを母親の千尋が作った時計に文字を記した。だからこれは黄坂家のもののはず。


「志遠が新しく裏蓋を作ったんだよ。本当はここに『花鳥風月』と書かれてあったんだ」


 花鳥風月。その言葉がひどく懐かしい。


 専門学生時代、志遠と話していた時に出た言葉だ。確か彼と時計について話していた時に形見の話になって……。


 どうしてだろう。彼の名を聞くだけで心臓に火が点いたように心が昂ぶっていく。


「……千月」


 凪は千月の手を掴みながらいった。


「もし俺のいうことを信じてみようという気があるのなら、あいつの店に行ってくれないか」


「時計店に?」


「ああ。そうすればお前は思い出すかもしれない。あいつと過ごした時間が蘇るかもしれないんだ」


「でも実家に戻らないと。千鶴だって待っているし、それに……」


 彼の命は今日、実家に戻らなければ救われない。


 ……しかしそれこそ、本当だと確信はない。


 凪の時は巻き戻っていない。彼の記憶が正常だとすると、私の方が間違っていることになる。


 そもそもどうして時が巻き戻るという現象が起こっているのだろう。考えれば考えるほど、答えのない迷路に迷い込んでいく。


「千月、俺のことが好きだといってくれたよな?」


「……うん」


 この気持ちは確かに信じることができる。彼のことは本当に好きだ。


「じゃあ、俺のことだけを信じてくれ。何も考えなくていい。ただあいつの店に行くだけでいいんだ。もしそれで何もなくてもいい」


「……でも」


 時計店を想像するだけで不吉な予感が襲う。行ってはならないと体から声が漏れていく。これも志遠が作り出した感情なのだろうか。


「大丈夫。俺がタクシーを呼んでやる。住所だけは調べてあるんだ。お前は乗るだけで店につけるようにしてやる」


「凪もついて来てくれるの?」


「いや……俺はいけない」


 凪は小さく首を振った。


「ここで俺がいけばお前の邪魔になるだろう。お前の記憶をこれ以上いじるわけにはいかない」


 なぜだろう、矛盾した葛藤に襲われている。心が彼の店に行かなくてはならないと叫び、体が行ってはならないと嘆いている。この奇妙な感覚を打ち消すためには直接店に行って確かめるしかない。だが大切な何かを失う気もしている。


「……頼む、千月」


 彼の瞳は輝きを取り戻している。どうしてだろう、彼のいう通りに動いたらいけないはずなのに、自分の意識はすでに時計店にある。


「……わかったわ。行くだけいってみる」


「よし、じゃあ途中まで一緒に行こう」


 凪に手を引き摺られながら階段を駆け下りていく。自分の意識は無自覚のうちに彼に向かっている。どうして彼は私を助けるためにそこまでしたんだろう。


 志遠のイメージが膨らんでは萎んでいく。仮に彼と付き合った未来があったとしても、彼はそんな面倒なことをするイメージはない。時を巻き戻すという非論理的な考え方をすること自体おかしい。彼は時計が進むのと同じように論理で動く人物なのに。


 時計店に行くと決めた所で体が焦りを覚え始めていた。凪の言葉を信じれば、今日までにこの気持ちを確かめておく必要がある。


 反対側の手で懐中時計を握る。時計の針の振動音がなぜか心を落ち着かせていく。


 ……この時計は本当にあなたのものだったの?


 この安心感は母親からくるものだと思っていた。冷たい振動が目の前にあるのに、ひどく懐かしい気持ちにさせる。


 ……志遠。


 あなたは本当に私の恋人だったの?

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