最終章 『月花美陣』 PART5
5.
……凪を助けたい。
それが私のたった一つの願いだ。彼を助けるために私は今、ここにいる。
私には二つの分岐点があった。
時計技師の志遠についていくか、実家に戻って斎場を継ぐかという選択だ。
私は一度、志遠についていく方を選択をした。
だがその選択は間違っていた。私の情熱では時計技師になることは不可能だった。私には向いていない、ということも改めて知った。
そして一番後悔したのは二人の死に目に会えなかったことだ。私が実家に戻っていれば父親の最期を看取ることができた。斎場で育った私にとって、それは合ってはならないことだった。
もう一人は緑纏凪、私の幼馴染だ。彼は今日の日付、2012年2月29日に東京で事故に遭い命を失った。
私は彼のことが好きだった。彼に思いを伝えようとしたことが何度もあったが実行できなかった。彼が妹の千鶴を好きだと知っていたからだ。彼との関係を壊したくないがために私は臆病であり続けた。
……もう一度、あの選択をし直したい、実家に戻り彼の命を救いたい。
日記に感情を交えながら書き連ねていくと、いつの間にか時が逆転し始めた。
目が覚めると、私は斎場にいた。そこには凪も一緒にいた。斎場の休憩室で凪と二人きりだった。
彼は私が時間を尋ねる前に、今は2月29日だといった。閏年は4年に一度しかない。どうやら2008年2月29日にまで戻ったらしいと確信した。
その世界は彼が生きている世界だった。彼は葬儀の花屋として地元に戻っていた。私は斎場の制服を着ていた。幼い頃に誓った想いが現実になっていた。
次に目が覚めると、実家の自分の部屋にいた。机には日記があり、今日は2009年3月29日だと書かれてあった。前回とは約十一ヶ月の開きがあった。
日記を読むと、凪が実家に戻っており花屋で勤めている、と書いてあった。彼を2012年12月29日まで地元に残すことができれば、彼の命が助かるらしい。
彼の死が確定するのは東京にいたからだ。
私はそれを見て安心したが、まだやらなければならないことがあった。彼は一度死んでいるため、彼だけが時間が巻き戻っているということだった。
理由はわからなかったが、彼と共に行動していると、不可解な点がたくさんあった。斎場で花を挿す場合、彼だけが季節とは反対の花を挿すのだ。春には秋の花を、夏には冬の花を、彼の時間だけが変わっていた。
その周期は日記に書かれている通りだった。1月と7月では同じなのだが、6月なら8月、5月なら9月、4月なら10月、3月なら11月、2月なら12月と周期がずれていた。
私の使命は必ず、彼に今日の日付を訊くことだった。そのため、仕事がない日でも彼の店に行き、日付を確認しにいった。
……これだけで本当に彼が助かるのだろうか?
そう思い続けながらも私は半信半疑で同じことの繰り返しに耐えた。
夢の世界を現実に変えることができる『月の光』を聴きながら――。
◆◆◆
「私の日記には凪の時間が巻き戻っていると書いてあったわ。あんたの中では今日の日が2008年2月29日になって、一緒の電車に乗れば命が助かるとも」
「命が助かる? 何の話だ?」
「私の日記には……凪は2008年2月29日に亡くなっていると書いてあったの」
「え? 俺が死んでいるって……?」
「……そう。だから私はあんたを助けるためにあんたの時間に合わせてたの。私は今日が2012年だって知ってるわ。もちろん今までの時間が巻き戻っているなんて思ってない。巻き戻ったと思ったのは最初の一度だけよ」
当惑している彼の瞳に一筋の光が過ぎる。どうやら何かを理解したらしい。
「そういうことか……」
凪は大きく溜息をついて深呼吸をした。
「あいつは……初めから俺を騙すことにしていたんだな。お前じゃなくて、俺を……。お前の時を巻き戻すんじゃなくて、俺だけが巻き戻っていると見せるために敢えて季節の花を逆にさせたんだな。確かに……そっちの方が確実だ……」
「どうしたの? 凪?」
「改めて志遠の凄さを実感したよ……」
凪は首を振りながらいった。
「あいつはお前だけじゃなくて俺までも錯覚させていたんだ。俺達、二人の時間を欺いたんだよ」
「……どういうこと?」
「俺が聞いた当初の計画では、お前の時だけを錯覚させる予定だった。だけど志遠はその計画に穴があることを知っていたんだ。時を錯覚させていても、日付なんて簡単に確認できるからな」
彼は何度も息継ぎをしながら呼吸を整えている。
「だからあいつは再び『逆転』の発想をした。お前に、俺の時間『だけ』が巻き戻っていると錯覚させたんだ。俺はお前のために季節を逆にしようと祭壇の花を飾ってきたから都合がいい。お前が俺に合わせてくれたから、俺達は違和感なく過ごすことができたんだ」
凪の言葉が胸にすっと入っていく。彼のいう通り、お互いが時間を合わせようとしていれば、時間が巻き戻るという感覚は味わうことができるのかもしれない。
お互いが気を使い合えば、それ以上の詮索はしなくなるからだ。だからこそ私達はお互いの時間が本当に巻き戻っていると確信できたのだ。
だけど、どうして志遠がそんなことをわざわざ考えたのかがわからない。彼はそんな不合理なことをする人ではないのに。
「どうして……志遠はそんなことをしたの?」
「どうしてって……お前を救うためさ」
凪は目元を抑えながら答えた。
「お前は事故で志遠を失った。その電車に乗ることを決めたのはお前だ。だからお前は自分の意識を閉じ込めた」
どうしても志遠のことが考えられない。凪の話によれば私と志遠は婚約していたというのに……。
この空白の思いも彼が作ったのだろうか?
「あんたの話を総合すると……私のあんたに対する思いも志遠が作ったっていうの?」
口調を強めていうと凪は体を仰け反った。
「全部とはいわない。だけどお前は専門学校を卒業してから志遠のことを好きになった。それは……間違いない」
記憶を探る。だが見に覚えがない。彼との思い出は専門学校の時だけだ。プライベートで会ったこともなければ、デートをしたこともない。
「……わからない。私の記憶の中には彼に対する思いはないの」
「そうなんだろうな。きっとあいつはお前の現実を逆にしたんだ。だからこれ以上ここで言い争っても何も解決しない」
凪は途方にくれ首を垂れ下げた。さっきまで活力に満ちていた瞳は濁っている。
「……明日が来れば俺とお前は付き合っていたというわけか。なるほど、俺の行動は全てあいつの手のひらにあったのか……」
凪の悲痛な思いを聞いても志遠が恋人だとは認識できない。彼との思い出がないからだ。だが彼の名前を聞く度に心の中で沸々と沸き起こる感情が芽生えていく。
この感情は一体――。
「ねえ、本当に私は志遠と同じ時を過ごしていたの? 私の中に彼はいたの?」
「ああ。証拠はないけどな。お前の部屋を見てもないだろう。証拠に残るようなものは全て処分しているはずだしな。志遠がそんな所でヘマをするわけがない」
彼の名前が胸の中で燻っていく。
何だろう、この奇妙な感覚は……。
「本当に俺は役立たずだな……。お前を混乱させるだけさせておいて結局何もできなかった。すまない、時間の無駄だった」
「時間の無駄?」
「……だってそうだろ。これだけ時間を使っておいて、お前に納得させる材料はなかったんだ。こうなるんだったら話さなければよかった。全て俺の胸の内に留めておけばよかったんだ」
「そんなことないよ。話してくれてよかった」
「ごめんな……。気にするなといっても無理だろうけど、今の話は流してくれていい。全部俺の戯言だ」
彼は曖昧に頷きながら通り過ぎた電車を見て溜息をついた。
「……あーあ、電車も行っちまったな」
「そうね。次の電車を待つしかないわね」
そういって千月は胸にある時計を掴んだ。すでに12時を過ぎている。次の電車はいつ来るだろうか。
懐中時計を眺めていると、彼が横から奪うようにして掴んできた。
「……あった」
凪は小さく呟いた。
「志遠とお前が付き合っていた証拠が」
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