最終章 『月花美陣』 PART4

  4.


「何? どうしたの?」


「まずは電車を出るぞ」


「え? もうすぐ出発するよ」


「……だから出るんだ」


 無理やり彼女を引き摺り下ろし電車から降りる。それと同時に列車は出発した。


「あーあ、いっちゃった。指定席だから次の新幹線には乗れないんだよ」


「ああ、わかってる」


「どうしたの? 何か忘れ物でもしたの?」


「忘れ物……そうだな、忘れ物になるな」


凪は空咳をしながら続けた。


「さっきの一言でようやく決心ができた。ありがとう」


「ちょっと待って、凪。その話っていうのは……」


「いや、そういう話じゃない。確かに俺はお前のことが好きだけど、それとは別の話だ」


「ええ? ちょっと待って。え、もしかして今のってそういう意味の?」


「そういう意味だけど。まあ、その話はいい。それよりも大事な話がある。聞いてくれ」


「ええっ? それよりも大事な話?」


 千月の驚く顔を見ながら真実を告げる。


「ああ、お前には本当の彼氏がいたって話だ。だからその話をきちんと訊いて欲しい」


「その彼氏って?」


「志遠だよ」


 凪はぶっきらぼうにいった。


「お前の彼氏は紛れもなく阿紫花志遠だ。そしてお前の四年間の記憶は全てあいつが作ったものだ」


 凪は思いの丈をぶつけるように彼女に向かい合った。冷たい雪風がお互いの間をすっと流れていく。


「もしかしてそれがいいたくて電車から降りたの?」


「ああ」


「……まったく。嘘をつくのならもっとマシな嘘をついてよ。で、何を忘れたの?」


 彼女には自分の言葉が届かない。この四年という月日が彼女の記憶を強固にしているのだろう。


 志遠の手の内がわからない以上、正直に全て話すしかない。


「忘れ物は……お前の記憶だよ」


 凪は彼女の眼をしっかりと見ていった。


「お前には……別の人格が宿っていた。お前は一日しか記憶が持たないという状況にあった。だから他の日は全て、別の人格がやっていたんだ。その人物の名はゆかりだ」


 千月の表情が曇る。思い当たる節があるのだろうか目を見開いている。


「……いいわ、続けて。どうせ次の新幹線が来るまで時間があるし、聞いてあげる」


 凪は彼女の表情を見て再び覚悟を決めた。


「お前には辛い過去がある。父親が亡くなって、その日に婚約者である志遠を失った。その悲しみに耐えられなくなってお前は自分の記憶に蓋をしたんだ」


 彼女の表情が徐々に暗くなっていく。いいたくないことだが、もう後には引けない。


「けどお前は一人じゃなかった。婚約者はまだこの世にいたんだよ」


「……どこに、いたの?」


「お前の、中にだ」


 凪は彼女の手を握っていった。


「お前のもう一つの人格が志遠だったんだよ。お前の意識を取り戻すために動いていたのは全部あいつだ」


「そんな、はず、ない……」


 千月は震える手を握り閉めながらいった。


「だって彼は……スイスに……」


「行ってない、お前と一緒になるため家庭を選んだんだ。だからお前と一緒の電車に乗った」


「嘘よ。彼とは恋仲になるような関係じゃないわ。彼は時計にしか興味がなかったんだから」


「お前と時計店で働くまではそうだったのかもしれないな……」


 凪は彼のことを思いながらいった。


「だけどあいつは自分の夢を捨ててまでお前と一緒になることを選んだんだ。それだけあいつはお前のことを愛してたんだよ」


「そんなわけないっ」


 千月は大きく叫んだ。


「私はあんたのことが好きなんだから、そんなことない。ずっと子供の頃から見てきたんだから。あんたが千鶴のことを好きって知っても私はずっと……」


「俺だって、お前のことがずっと好きだったよ……」


 心を込めて彼女に告げる。


「今でもお前のことが好きだ。だからこそお前に知って欲しい。もし今日ここで真実を告げなければお前は志遠のことを忘れてしまう。あいつはお前を守ろうとした。自分の記憶がお前の中でなくなるとわかっても、お前のために貫いたんだ。あいつの思いは……辛くてもやっぱり忘れちゃいけない」


「どうして……そんなに彼のことを」


「4年間一緒にいたからさ……」


 自然に吐息が漏れる。


「お前に聞いていた通りだったよ。頑固で神経質でそのくせ機械オンチでわがままだ。なのに取り組んだ仕事は必ず全うする、あいつの生き方は恰好よかったよ」


「4年間、っていうのは……」


「千月、今日は何月何日の何曜日だと思う?」


 凪はしっかりと拳を握ってからいった。


「……」


 千月の眼が大きく開く。彼女の眼には揺らぎが見える。


「今日はな、千月。本当は12月29日の土曜日なんだよ」


「……どうして」


 彼女は表情を変えずに呟いた。


「どうして……凪は4年前の凪なんじゃないの? 違うの?」


 どうしての意味がわからない。四年前の設定は彼女自身だ。


「じゃあ、凪は……死なないよね? 電車に乗らなくても、大丈夫なのよね?」


 彼女のいっている意味が全くわからない。黙っていると、彼女は呼吸を整えるように深呼吸してから口を開いた。


「はっきりいって今がどういう状況なのか、わかんない。どうしたらいいのかも。でも確認しておきたいの。あんたは死なないのよね?」


「俺が死ぬってどういうことなんだ?」


「私の日記にはね……今日、凪は電車事故に巻き込まれて死ぬってことが書かれてあったの」

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