第四章 風花紲月 PART6

  6.


「あーくそっ。もう。できんーっ」


 黄坂千月はPCに向けて罵声を浴びせながらキーボードをクリックしている。だが上手くいかないようで画面はエラーを表示するばかりだ。


「失礼します」


 頭を下げ今回の担当者に視線をやると、疲れが残っているのか目はぼんやりとしている。PCの画面を見ながら欠伸を繰り返している所を見ると、どうやら昨日の夜も作業に勤しんでいたに違いない。


 雪奈は彼女の腕に注目した。右腕には何もついていないが、左腕には重たそうな機械式腕時計が巻かれてあった。


「あ、雪奈さん。お疲れ様です。もしかして、もう終わりました? 早かったですね」


「ええ、たった今終わった所です。申塚家の担当は黄坂さんですよね?」


「ええ、そうです。といっても通夜までですけどね」


 そういって千月は力なく笑った。彼女はこの明善社を立てた先代の娘だ。だが親の教育がよかったのか性格は温厚で態度も大きくない。そのためこの一年で世間話くらいはする仲になっている。


「……戌飼、先に戻っていてくれ」


 彼女に五百円玉を預けていう。


「ブラックなら何でもいい。ついでに車のエンジンを掛けておいてくれないか」


「はい、了解しましたっ」


 戌飼は嬉しそうに微笑みながら事務所を後にした。その後姿はあどけなく、まるで少女のようだ。


 戌飼がいなくなった所で、肩の力を抜く。千月の勧めで渡された灰皿を受け取り、愛用のセブンスターに火を点ける。


「故人は……本当に自殺なのか?」


「どうなんでしょうね」


 千月は首をかしげながらいう。


「私達にはその情報は一切入ってきませんからね。自殺だと断定されたので、自殺なんじゃないでしょうか? 何か気になる点でも?」


「いや、それなら構わない。ただ、故人とは知り合いでね」


「そうだったんですね」


 千月は恨めしそうに煙草を眺めながら頷く。だが姿では煙草を吸うことは叶わないだろう。


「今回の葬儀、奥さんが式後にピアノ演奏してくれるみたいですよ。雪奈さん、私にも一曲だけでいいから教えてくれません? 弾きたい曲があるんです」


「君には仕事が残っているだろう。そんな暇はないはずだ」


「……まあそうなんですけどね」


 千月は首を傾げて苦笑いした。


「でも最近、色んなことに興味を持つようになりました。人生は一回きりなのに一つの職業にしかつけないでしょ? 一日が長ければいいのに、といつも思ってしまいます」


 それについては返答しがたい。彼女には限られた時間しかない、どのように答えても慰めにしかならないだろう。


「どうだい、調子の方は。今の所、変わった所はないのか」


「ええ、おかげさまで。今の所は問題ありません。雪奈さんに手伝って貰ったオルゴールを聴いて眠るだけできちんと入れ替わっていますよ。今日も実行しなくちゃいけないんですが、まあ大丈夫でしょう」


「ああ、それで春の祭壇になったんだな」


 頭に留まっていた疑問が一つ解決する。


「春の花は予約しないと取り寄せることができない。だからわざわざこの日を選んだのだろう? あの花屋の息子を頼って」


「さすが雪奈さん、勘が鋭い。4月と10月が一番開きがありますからね。祭壇を合わせるだけでも違和感はぐっと減ると思います」


 黄坂千月には人格が二つある。一つは千月本人で、もう一つの人格はゆかりという名だ。今の人格はゆかりで、彼女は千月を表に出すために奮闘しているらしい。


 その一つの鍵がドビュッシーの『月の光』にある。


 雪奈が斎場で演奏した時に、二つの人格は入れ替わってしまったのだ。千月の母親の形見のオルゴールが同じ曲で、これを軸にして二人の意識は反転している。


「まさに幻想という言葉が相応しいな。月の光に導かれて入れ替わるなんて幻以外の何物でもない」


「そうですね。おかげで現実なのか夢なのか、私自身が迷っていますけど」


 千月は頬を掻きながら答える。


「雪奈さんはこの世界がきちんと現実だと毎日思えますか? 朝起きてから夜寝るまで全てが納得して、繋がっていますか?」


「……どうだろうな。もちろん頭の中ではそう思っているだろう。だが実際にそう訊かれると確信はもてない。日常でそんなことを考えている人の方が少ないからな。……ただ」


 灰を落とし続ける。


「私は幻なんかいらない。現実を受け入れようと努力し続けるつもりだ。もしそれを受け入れられなくなった場合は死ぬ覚悟だってある」


「強いんですね」


「……考えが狭いだけだよ。君のことは素直に凄いと思う。私だったらできないし、するつもりもない。まあ何にしたって最後までやり抜かなければわからないけど」


「ええ。その通りですね」


 千月は肩の力を抜いて微笑んだ。


「だから私は最後までやってみようと思ってます。自分の信じた道を突き進んでいこうと思ってます。私が愛した人ですから、きちんとしてみせますよ」


「そうか……」


 雪奈は煙草をすり潰し時計を確認した。そろそろ戻らなければ戌飼が心配して戻ってきてしまうだろう。


「また何かあれば報告をくれ。できることなら手伝おう」


「ありがとうございます。頼りにしてますよ」


 千月が満面の笑みで頷いた後、雪奈は踵を返しハイエースへと戻った。

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