第四章 風花紲月 PART7
7.
「それじゃあ解散します。後は各自で好きに行動してちょうだい」
チーフの一言で歓迎会は終わりを迎える。これで今日の残業は終わりだ。
……さて、家に帰って一杯やることにしよう。
帰りの駅に向かおうとしたが、戌飼に腕を引っ張られた。
「さあ、先輩、もう一件行きましょう」
歓迎会の途中に戌飼から誘いを受けたことを思い出す。二人で飲みに行こうといわれたのだ。
「ああ、そうだったな。だがまた今度にしよう。明日も仕事が入っている」
帰り際にチーフの携帯が鳴った。どうやら明善社には明日も仕事が入っているらしい。これが何件目かは知らないが、一件は確定したことになる。
「えー。約束したじゃないですかー。一杯だけでもいいんです。それに先輩、お酒を飲むときは煙草が吸えないといやだといってたじゃないですか。一杯くらい美味しいお酒を飲んで帰りましょうよー」
「どうした、戌飼も煙草が吸いたいのか」
今まで彼女が煙草を吸っている姿は見ていない。もしかすると仕事の時は遠慮しているのかもしれない。
「ええ、そうです。せっかくですから先輩と語り合いたいんですよ。先輩の行きつけでもいいです。だから……」
戌飼のバックから煙草が見える、雪奈と同じセブンスターだ。
「……仕方ないな。一杯だけだぞ」
これ以上ここで話し合っても体が冷えてしまうだけだ。それならば一杯飲んで解散した方がいい。
戌飼にいわれるがままに次の店を探す。何気ない通りに入ると見覚えのある店があった。
「お、久しぶりだね。いらっしゃい」
「まだ時間大丈夫ですか?」
「ああ、いいよ」
おしぼりの熱い感触にほっと吐息が零れる。
「渋いお店ですね。さすが未橙先輩」
戌飼はきょろきょろと辺りを見渡している。バーカウンターの椅子は彼女にとって高いらしく、足をぶらぶらとさせている。
「スコッチをダブルで」
「はいよ。隣のお嬢さんは?」
「うーん。何がいいですかね? 先輩、選んで下さいよ」
「お子様にはカルアミルクでいいんじゃないか」
「思いっきり馬鹿にしてますね。癪(しゃく)ですけどそれでいいです」
「はいよ。スコッチとカルアミルクね」
氷を削るマスターを眺めながらセブンスターに火を点ける。一息吐く度に満足感が胸を覆う。ようやく落ち着ける時間になった。
戌飼はカルアミルクをちびちびと舐めながら、目の前にある大きなグランドピアノを眺めた。
「私、小さい頃ピアノをやってたんです。全然長続きしませんでしたけど。今思うと、やっておけばよかったなぁと思います」
「どうして?」
「だって、楽器が弾けたら格好いいじゃないですか。雪奈さんみたいに長くて綺麗な指だったら似合うんだろうなぁ」
「……似合わないよ」
「いいや、雪奈さんがピアニストだったらばっちりです。もし演奏ができたらどんな曲がいいです? 明るい曲ですか、それともしんみりとした曲?」
「そうだなぁ……」
雪奈は首を傾げてマスターの方を向いた。こちらの声は届いているだろうが聞こえていない振りをしてくれているようだ。
「演奏ができるのなら、ドヴィッシーの『月の光』が演奏したいなぁ」
「あ、聞いたことがあります。とっても綺麗な曲ですよね」
「ああ。演奏はできないけど、聴くのは好きなんだ」
思い出を除きながら淡々と曲の構成、メロディラインの美しさ、作曲者の思いを述べていく。
他に客がいないからなのか、マスターがCDを変えてくれた。曲はもちろん『月の光』だ。
優しい音符が夜の闇に一筋の光を入れていく。淡い光が固まった心を解(ほぐ)してくれる。
……ああ、この曲が自由に弾けた頃が懐かしい。
曲のテンポを気分のままに変えて、思うままに強弱をつけて演奏していたあの頃に戻りたい。
この曲があったから、圭吾に出会い、花織に出会えた。そしてあの人と繋がることができた――。
静かに酒を飲んでいる戌飼を眺めながら、雪奈は目を閉じて、再び『月の光』に耳を傾けた。
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