第三章 花弔封影 PART7

  7. 


「よし、いいぞ黄坂。後は休んでおけ」


「どうでした? 伸びました?」


 千鶴は駆け足で午代に近づいた。自分の中では大分調子がよかった方だ。スタートから中間距離までが特に延びていたと思う。間違いなく高タイムに入っているはずだ。


「そうだな。まあ県大会にはぎりぎり通用するタイムだな」


 書き込まれた用紙を見て彼女は小さくガッツポーズを取った。目標タイムを軽く越えている。これなら選手として選ばれる可能性もある。熱を帯びている体がさらに高潮していく。


「凄いね、千鶴。どんどんタイムが伸びてるじゃん」


 級友の黒崎も駆け寄り千鶴のタイムを手放しで喜んでくれている。彼女とは陸上部に入ってから初めて話した仲だ。そのまま気が合い友達となり、今では一緒に登下校を繰り返している。


「そんな。まだまだ大したことじゃないよ」


「またまた。嬉しいくせに」


 黒崎に力なく揺すられ口元が自然と緩んでしまう。彼女に認められることで自分はここにいていいのだと改めて実感する。


 千鶴はすっかり陸上部に染まっていた。それも全て午代のおかげだ。学園内での生活も心地いいものになったし放課後の部活にも楽しみを見出している。


 彼女は走っている時、一つのイメージだけに集中していた。


 風だ。一瞬の風になるイメージ。それだけを考えながら走ることがたまらく心地いい。その時だけは自分が葬儀屋の娘だということも忘れることができるからだ。


「先生。もう一度だけ計って貰えませんか? 次はもっといいタイムが出せそうなんです。お願いします」


「だめだ。今日走る分は終わった。ゆっくり休んでまた明日だ。じゃないと明日は走れないぞ」


 もちろんそれはわかっている。だが体がどうしても走りたいといって聞かないのだ。この気持ちを抑えることはできない。


「先生、もう一度だけ」


「駄目だといっている。よし、次は逢沢あいざわの番だ。いくぞ」


 そういって午代は千鶴から背を向けてピストルを構えた。その姿に再び激情が走る。


 午代が自分のためを思ってくれているのはわかる。だが感情をぶちまけろ、といったのは彼の方だ。それなのに感情を抑えて体力を持て余していれば走るモチベーションすら失ってしまう。


「千鶴、お疲れ様。こっちで一緒に柔軟しよ」


「……うん」


 黒崎と体をほぐしていると彼女はにやにやと笑い始めた。


「本当に変わったよね。千鶴は」


「そうかな」


「そうだよ。こんな熱血漢だなんて思ってもいなかった」


 ……確かにそうかもね。


 心の中で呟く。感情を押し殺すことは楽だったが、今となっては押しとどめることの方が難しい。塞き止めていたダムが決壊し常に感情が溢れてしまっているようだ。


「午代先生も千鶴が入る前に比べると勢いがついたように頑張ってるもんね。やっぱり張り合いがあるんじゃない?」


「そうなのかな」


 自分が入ったことで午代が喜んでくれていると思うと純粋に嬉しい。


「でもいくら猛アタックしても午代先生を落とすのは難しいと思うなぁ。なんたって下宿先に彼女がいるんだからさ」


 午代が結婚していないのを知っているし、彼女がいることも知っている。初めてそのことを聞いた時は一週間ほど何も手につかず、やり場のない焦燥感に打ちひしがれた。


「何でも大学の時からの知り合いみたいよ。相手は音楽大学に通ってるんだって。きっと華やか人なんだろうねぇ。残念ね、千鶴」


「別に。先生のことはなんとも思ってないよ。いい先生だとは思うけど」


 ただ感情を表現することを教えてくれただけ。自分にそう言い聞かせて納得させるしかない。


「ふうん。でも先生も押されるのに弱いタイプでしょ? 案外、攻め込んだらそのままずるずるといっちゃうかもよ」


「そうかな」


「そうだよ。一度押し倒してみたら? そんな機会滅多にないだろうけどさ。チャンスがあればやってみなよ」


 どうやら黒崎は意見を曲げる気はないらしい。彼女は恋愛話になると必ず3割増しで勢いがつく。ここでもう一度否定しても話が終わることはない。


「そうね、機会があればね」


 千鶴が溜息交じりで答えると黒崎は満足そうに頷いた。



 部活が終わった後、千鶴は職員室に向かった。全員のアンケート表を午代に提出しなければならないからだ。


 職員室でプリントを提出すると、午代は手刀を切りながら口を開いた。


「そうだ、黄坂もう一つ頼まれてくれないか」


「何ですか?」


「体育倉庫にタイム表を忘れてしまったんだ。それをとってきてくれないか」


「それくらいならいいですよ」


 職員室を出て体育倉庫に向かう。陸上部の備品が置いてある付近に忘れたらしい。


 ……それにしても自分達のタイム表を忘れるなんて。


 再び激昂に駆られていく。今日自分が出したタイムだって午代からすれば大したことがないのだろう。だから簡単に忘れるのだ。きっと意識は下宿先の彼女にしかないのだろう。


 ……ああ、悔しい。


 千鶴は倉庫に向かいながら午代を貶める作戦を練った。このまますんなりとタイム表を手渡すには惜しい。彼を驚かせる何かいい方法がないだろうか。考えていると一つの案が浮かんだ。


 案が浮かんでから15分後。千鶴は時計を確認しながら体育倉庫に隠れていた。タイム表を取ってくるといっておいて戻って来なければ午代は必ずここに来る。その時にこっそり驚かせてやろう。


 薄暗い中で倉庫の鍵を握り締めながら待つこと20分。スニーカーの足音が聞こえてきた。


「おーい、黄坂。いるのかー」


 午代の声がドア越しに響く。


「なんだ、いないのか。鍵を開けっ放しにしておいてどこにいったんだ、まったく」


 真っ暗な中、午代は倉庫の中に踏み込んでくる。


 彼がこれから取るべき行動は一つ。倉庫の電気を点けることだ。その前に扉を閉めればいくら午代でも驚くだろう。あらかじめ扉に近くにいた千鶴はゆっくりと扉を閉めた。


 バタンと鉄の扉が音を立てた時、午代の足音は止まった。


「どうした、黄坂。いるなら返事くらいしろよ。タイム表はあったのか?」


「知りません」


「え?」


 電気が点いていないので午代の輪郭しかわからない。だがこちらに視線がいってるのは確実だ。


「何をいっている。お前はタイム表を探しに来ているんだろう?」 


「……そうですけど。どうして先生はそんなに余裕があるんですか。私が子供だからですか」


「なんだ、いきなり。別に俺は普通だよ。余裕がある時もあればない時もある」


「普通じゃありません。私に感情を爆発させろといったのは先生じゃないですか。それなのにどうしてこう冷静なんです?」


 普通の教師なら驚かせるなと生徒を怒るはずだ。それなのに彼は何もなかったかのように振舞っている。そんなにも自分に対する感情はないのだろうか。


「俺が冷静だと?」


「だって……私はもう一度走りたかったんです。コンディションがよければ走った方がいいといったのは先生じゃないですか。それなのにどうして止めたんですか?」


「それは……お前のためを思ったからだ」


「本当にそうですか? 先生は私の気持ちに気づいているから、私を遠ざけようとしたんじゃないですか」


「違う、それはいい掛かりだ」


 間接的に気持ちを告白しても午代は揺るがない。


「タイムを気にし過ぎても体を壊すだけだ。お前にはそうなって欲しくないから、つい厳しくいってしまった。それは反省している」


 低姿勢の午代を見ても憤りはおさまらない。彼の感情が見えないからだ。


「先生も陸上をやっていたのならわかるでしょう? この一瞬にかけたいっていう気持ちが」


「ああ、俺にもあったさ。だがそれで体を壊したんだ、お前にも話しただろう? 神経は一度切れてしまったら戻らない。お前に同じような目にあって欲しくないんだ」


 彼は無茶をしたせいで全力で走れない体になってしまった。その教訓を生かすために教師になったことも聞いている。それは理解できている。


 だが夢を見れないのなら走ることに何の意味があるのだろうか。目標がなければただの遊びで終わってしまう。それが一番怖い。何もない私には戻りたくない。


 あの頃のような灰を被った世界にはもう戻れない――。


「私は先生とは違うんです。私だって自分のことくらいはわかります。体調管理だってできます。私の夢は先生と……」


「わかってないのはお前の方だッ」


 午代は激しく吼えた。


「お前はまだ若いから無茶ができると思っている。だが俺は大人だ。お前を監督する義務がある。感情に身を任せるだけでは何も成就しない」


 ……私の感情を否定するんだ。


 結局は子供扱いするんだ、先生は。何かが音を立てて吹っ切れていく。


「先生っ。私、先生のことが好きなんです。先生としてではなく一人の男性としてです。この気持ちはどうしても抑えることができません」


 勢いに任せて午代の胸に飛び込み腰の辺りを掴んだ。それでも午代の表情はまったく揺るがない。それがまた悔しい。


 自分が午代の立場なら慌てふためくのは確実なのに。


「冗談にしては面白くないな。どうした? 暑さで頭をやられたのか」


 頭をぽんぽんと叩かれ軽くいなされる。胸の内からエネルギーが迸っていく。


「本気なんですっ」


 千鶴が威嚇して両腕に力を込めると、午代は手を上げて降参のポーズを取った。


「本気だとしても俺は受け入れることはできないな」


「教師だから、ですか?」


「いや、俺には好きな人がいるからだ。すでに同じ屋根の下で暮らしている。お前が生徒じゃなくても無理だ」


 わかっていたことだが本人にいわれると衝撃度が違う。急速に腕の力が抜け落ちていく。


「どうして……私に感情なんか教えたんですか……。こんな気持ちになるなら知らなくてよかった……。私、もう走りたくないです……もう走れません」


「そんなことはいわないでくれ……。お前の蓋を取ったのは俺かもしれない。だけどそれはお前らしく生きるために教えたことだ。お前は今感情に振り回されているだけだ。大丈夫。そのうち自然におさまる時が来る」


「ずるいですよ、こんな時だけ優しくするなんて……」


 千鶴はそのまま膝から倒れた。


「あれだけ我慢してきたのにもう抑えることなんてできません。先生がいないと私、駄目なんです」


 もう昔の自分には戻れない。午代や黒崎と一緒に笑顔で達成感のある毎日を過ごしたい。


 光輝く日常を失いたくない。


「別に俺はいなくなったりしないぞ。お前の気持ちは受け取れないが、お前をサポートすることはできる。いいんだ、どんな気持ちだろうが感情はエネルギーに変わる。その気持ちを糧にして一緒に頑張ろう。黄坂」


 千鶴が俯いていると体育倉庫が再び開く音がした。光が差す方を見ると他の部活の顧問が立っていた。女子水泳部の顧問・大庭おおばだ。


「午代先生、これは一体……」


 千鶴が我に返った時には大庭に引き摺られるようにして職員室に戻っていた。午代はどうやら別の部屋に移動しているらしい。


「黄坂さん、倉庫の中で何があったの?」


 千鶴は力なく大庭を見た。どうやら自分は尋問にあっているらしい。


「午代先生に何をされたの? 正直に話して。私はあなたの味方よ」


 第三者から見ればあの光景は異常に映っただろう。体育倉庫の中で電気も点けずに抱き合っていたのだ。きっと午代も同じような目に合っているのだろう。自分よりもはるかに強い口調で。


「私は……」


 ここで午代のせいにしてしまえば取り返しがつかなくなる。最低、陸上部の顧問としては続けることはできなくなるだろう。私の一言で全てが決まるのだ。 


 だが、嘘をついてしまえば――。


 よからぬ考えがじんわりと動き始める。もし彼が全てしたことだといえば彼のフィアンセとはきっと別れることになるだろう。生徒に手を出した疑いがあれば当然の結果だ。


 そうなれば、私にもチャンスが――。


「ねえ黄坂さん、ここで話さないとまた強要されてしまうのよ。あなたは何のために陸上部に入ったの?」


 ……何を考えているんだ、私は。


 だがどうしても彼と結ばれることだけを考えてしまう。まだ残っている彼の体温が自分の神経を揺るがしてしまう。


「黄坂さん、お願い。黙っていても何も解決しないわよ」


 揺れ動く中、沈黙を通していると見慣れない女性が勢いよく職員室に入って来た。白のワンピースに包まれた大人の色香がする女性だ。


「ああ、未橙みだいさん。もう着いたのね」


 大庭が彼女を見て声を上げた。千鶴は俯きながらもその女性に視線をやった。


 その女性を見た時、彼女こそが午代の女だと確信する何かが千鶴の胸を打っていた。

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