第三章 花弔封影 PART8

  8.


「大庭先生、英四郎さんは?」


 白のワンピースを着た女が息を荒げながらいった。手にはショルダーバッグの紐を巻いて掴んでいる。


「隣の部屋にいるわ」


「隣の部屋? 保健室ではなくて?」


「ええ、そこの扉よ」


「……なんだぁ」


 女は肩の力を抜いて地面に座り込んだ。額からは汗が噴き出している。


「先生から緊急で呼び出されたので午代さんが倒れたんだと思いました。そっか、よかったぁ」


「よくないわよ、それ以上に大変なことです。午代先生はね、女生徒に手を出した恐れがあるんです。あなたという人がありながら」


「女生徒に? こちらの……生徒さんにですか?」


「そうよ。何度話を聞こうとしても答えてくれないの。午代先生も何もいわないし、困ったものだわ」


 女は立ち上がりこちらに視線を寄せた。先ほどまで手に持っていた鞄が肩に掛けられた。


「初めまして、未橙(みだい)といいます。私もこの学園の生徒だったの。あなたはもしかして黄坂さんというんじゃない?」


 急に名前を呼ばれ心臓が早まる。名札はないのに、どうして彼女は自分の名前を言い当てたのだろう。


 大庭が頷く姿を見て、未橙は嬉しそうに微笑んだ。


「そうなの、やっぱりね。午代さんから聞いた通りだわ」


 どうやら彼との話題で自分の名が出たらしい。


「どういわれていたんですか? 私は」


「表では何を考えているかわからないけど、芯は熱い人だと聞いていたわ。最近急速にタイムを伸ばしているから、注意して見てあげないといけないともいっていたわね」


 やっぱり午代は自分を子供扱いしている。自分の感情を汲み取ろうとする午代に救われながらも、教師として一線を置いている彼が憎らしい。


「どこで手を出したといわれているんです?」


「体育倉庫よ。電気も点けないで二人は抱き合っていたのよ。私の眼で見たから間違いありません。最悪、午代先生は教職にはつけなくなるでしょうね。当然部活は休止しなくてはなりません」


「らしいわよ、黄坂さん」


 相槌を打ちながら未橙は千鶴の方に視線を寄せる。だがその視線に鋭さはない。どちらに転んでもいいといった冷静な瞳だ。


「黄坂さんは困るんじゃない? 彼に教師を辞められたら。部活もできなくなるわよ」


 確かに午代が教師を辞めるということになれば大きな痛手になる。信頼できる担任がいなくなる上、部活上の顧問も変わってしまう。今までのように快適な学校生活は送れないだろう。


 だが彼女が彼と別れてくれるきっかけにはなる。私にはこの方法しかない。


「私はね、彼が教師じゃなくてもいいの。教師を首になったって彼のことを愛し続けられるから。彼にはね、私しかいないの。私にも彼しかいない」


 未橙の信念の強さに愕然とする。彼女の瞳は未だ冷静に輝いている。まるで宣戦布告を受けているようだ。


「どうして、そんなことがいえるんですか?」


 千鶴は立ち上がって彼女を睨んだ。


「愛なんて形のないものです。この先お二人が必ず一緒とは限りません」


「形がなくても私達はずっと一緒よ。この先もずっと」


「だから、どうしてそういえるんですかっ。お二人はまだ結婚していないんでしょう? じゃあまだ一緒になったとはいえません。ただ近くにいるというだけです」


「形がないと不安? あなたの年齢じゃまだそうでしょうね。付き合うという言葉がないと付き合えないんでしょう?」


「子供扱いしないで下さいっ。私はもう16歳です。結婚だってできますし、子供だって作れます」


「本当に熱いわね」


 未橙は大庭が驚愕している中にっこりと微笑んだ。


「午代さんが手を焼いているというのは本当のようね」


 彼女の表情に見えない午代が浮かぶ。大人として、私を何もできない子供だと見ている。それが悔しくて堪らない。


「……体育倉庫での一件は午代先生が手を出して来ました」


 千鶴は怒りを込めていった。


「どうです? 彼女がいても私に心が移ったんじゃないですか。悔しいでしょう?」


「いいえ、全然。それならそれで結構よ。ただ私達は今付き合っているから、彼の言い分を聞かないといけないわね」


「それで彼が認めたらどうします?」


「……その時は諦めるわ。あなたがいうように恋は儚いものよ。だから私じゃない人に愛がいったのならそれは仕方がないことだもの」


 そうはいうが、彼女の瞳は穏やかで揺らいでいない。きっと彼を信じきっているからなのだろう。


「黄坂さん、それは本当なのね?」


 大庭は再度確かめるようにいう。千鶴が頷けばこのまま隣の部屋に踏み込みそうな雰囲気だ。


「黄坂さん。正直に答えてね」


 未橙はまっすぐに向かい合って告げる。


「これはあなたの人生だけじゃなくて彼の人生を決める答えになるの。あなたにはたくさんの未来があるけど、彼には一つの未来しかないの。だからお願い、本当のことを教えて」


 未橙の瞳に千鶴の姿が映しこまれる。こんなにもまっすぐな瞳で見られたら嘘をつけるはずがない。


「黄坂さん、お願い」


 彼女の瞳に抗えず千鶴は観念するように答えた。


「……すいません、私が悪いんです」


 内に留めていた感情が溢れ出していく。


「私が午代先生を驚かせようと思って、体育倉庫に隠れていたんです。こんな大騒ぎになるなんて思っていませんでした。午代先生は悪くありません」


「……やれやれ。そんなことだろうと思ったわ。どうしてもっと早くいわなかったの?」


「まあまあ、いいじゃないですか」


 未橙が爽やかな笑顔を見せながら口を挟んだ。


「黄坂さんも正直に話してくれたし、それで十分ということで」


「あなたはそれでいいんでしょうけどね。こっちにも教師としての立場があるんです。黄坂さん、わかっているでしょうね。反省文、きちんと書かせますからね」


 千鶴が小さく頷くと、未橙がひっそりと手を握ってきた。


「よく正直に話してくれたわね、偉いわ。あなたにはもっといい人が現れるから、大丈夫よ」


 ……何を偉そうに。


 ただの決まり文句をいわれて嬉しいはずがない。だが彼女の言葉に何かを期待してしまう自分がいる。


「私、諦めてないですから。この三年間であなたから午代先生を振り向かせて見せます。覚悟して下さい」


「そう。それじゃ私も負けてられないわね」


 未橙は胸を張って口だけで笑った。だが眉根は寄っており厳しい表情は崩れていない。まるで挑戦者を待ち受けているチャンピオンのようだ。


 すでに勝てる気がしない。だがここで弱気な姿は見せられない。


「どうして午代先生には一つの未来しかないんですか? 別に教師じゃなくてもやっていけそうな気がしますけど」


「そんなこといったかしら」


「ええ、いいました」


 未橙は口元に手を当てて視線を反らす。その姿に再び沸々と怒りが込み上げていく。


「私は正直に答えたんです。あなたも正直に答えて下さい」


 少しの間が空いた後、未橙は呟くように答えた。


「それは午代さんが教師としての道しか考えてこなかったからよ。彼はね、あなたが思っている以上に不器用で弱い人なんだから。これと決めたら変わらない人なの。だから教師じゃないと生きていけないの」


 午代が別の職業についている姿を改めて想像する。それなりになんでもできそうに見えるが、教職以外ぱっとしない。


 冷静になると現実を受け入れられるようになっていた。仮にもし自分が言葉を曲げていなかったら、午代は教師として続けられなくなっていただろう。それがどんな意味を持っているのかはっきりと実感する。


「本当にすいませんでした。でも今度はきちんと正攻法で攻めさせて頂きます」


「ええ、改めてよろしくね、黄坂さん」


 未橙が手を差し伸べてくる。その手は柔らかかったが、午代と同じように迸(ほとばしる)るほどの熱を帯びていた。

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