第5話
「ウルフ、お誕生日おめでとう」
「うん、ありがとう、ユイ」
ウルフは、「いいのか?」とはもう問わなかった。
ウルフに
明日が、また同じように来ることを信じて。ふたりの気持ちが今日と少しも変わっていないことを信じて。そしてもっともっと、通じ合えることを確信して。
「…ユイ」
「…ウルフ」
繋がろう、もっと深く、もっと強く。決して離れないように、一つになろう。確かめよう、ふたりが
屋根裏部屋の天窓から、銀色の満月が見える。星のない夜だった。
その月と同じように銀色に輝くウルフの髪が、ふわりとあたしの頬にかかる。次に優しい口づけが落ちてきて、ああ、人間の姿のウルフとキスするのは初めてだなぁなんて思う。
あたしの初めては、もちろんそれだけではない訳で。でも7回も生まれ変わったウルフは、きっと初めてではない気がするんだけれども…。ウルフの初めてって誰だったんだろう?訊いたら教えてくれるのかな?
緊張から、ズレたことを考えてしまうあたしに、ウルフは甘く囁いた。
「ユイ、可愛い。俺の
ウルフの首にぎゅぅ、としがみつく。ごめん、苦しいよね?でも…。
ふふ、ウルフは余裕で笑うと、そっとあたしの両手をその首から外した。
「大丈夫、怖くないから」
人間の姿のウルフに、あたしの大好きな肉球はないはずなのに、あたしをさわさわと撫でる指が甘く切なく心地いい。
それから人の姿になっても長い舌が、ぴやりとあたしの首筋を舐め上げて、あたしは思わず喉を反らして声を漏らす。
「や…ぁん」
その声を嬉しそうに受け止めて、ウルフの舌はさらにあたしの躰の上で悪戯をする。
ああ、あたし、耳が弱いんだ。耳の輪郭から耳朶まで、温かな舌に愛撫されて、そんなことも初めて知る。
うなじをウルフの長い指がつつっと撫で降りて、鎖骨にかりりと歯を立てられる。様々な刺激に翻弄されていると、今度は深いキスが「俺を感じて」とばかりに意識を鷲掴みにする。
ああ、ウルフ、こんなにも愛おしいなんて。自分以外のひとを想うことが、こんなにも苦しいなんて。
「ユイ、俺のユイ。俺だけの
そう言われて眼を開けたら、ウルフの熱のこもった切なそうな瞳に捕まった。
「ウルフ、そんな眼をしないで」
「俺、どんな眼をしている?」
「…きっと、あたしとおんなじ眼」
「…わかった」
ウルフが、あたしのささやかな2つの膨らみを両手で包む。壊れものを扱うみたいに優しく揺らすから、嬉しくて涙が滲む。それからウルフは、さらに優しくその2つの頂点に甘い刺激を与える、舌で指先で、何度も交互にあやすように。
「痛くない?」
痛くなんかない、気持ちいい。
眉をきゅっと寄せて、快感に涙ぐみながら、あたしは
そして、なんだかわかってしまった。ウルフもきっと同じことをして欲しいんじゃないかって。
だから、あたしはそっとウルフの耳朶を噛む。
ちょっとウルフが驚いたような表情をしたから、あたしは自分の積極さに顔が火照る。
「ウルフも…してほしくない?同じこと…」
「ユイ…わかるの?」
「うん、たぶん…
「…っユイ!」
心のままに、感じるままに、あたしたちは舐め合い、愛撫し合い、愛おしさを伝え合う。指で、舌で、眼で、表情で、全てで。
「ユイ、いい?」
心も躰も、もうとろとろに溶けあって、ウルフがあたしなのか、あたしがウルフなのかわからなくなった頃、あたしたちは本当の意味で一つになった。
痛みも幸福も、仲良くわけ合って。
「ユイ。ユイが痛いと、俺はここが痛い」
ウルフは筋肉で綺麗におおわれた彫刻のような胸を、長い人差し指で叩いて言った。
あたしの初めては、あたしたちの初めては、とてもとても感動的で神聖だった。
こんなにも満たされて、こんなにも泣きたくなる行為があるなんて知らなかった。
「ウルフ…」
「ユイ…」
銀色の月と、それと同じくらい美しいウルフの銀髪に誓って言う。
この夜、この瞬間あたしは、もう死んでもいいと思うくらい幸福だった。
✵ ✵ ✵
それから、数週間が経って。
ウルフは物思いに沈むようになった。
本人は隠しているつもりだけど、やっぱりわかってしまう。
とくに月の美しい夜は、夜中に目が覚めるとベッドにウルフの姿がない。
ああ、またきっと屋根裏部屋に行っているんだ。
ねぇ、ウルフ、どうしたの?
後悔してるの? あたしと
あたしの隣で眠るより、独り屋根裏部屋で眠る方が安心するの?
教えて、どうして何も言ってくれないの?
気持ちのいい朝だった。
いつものように犬型のウルフと朝の散歩へ出掛けた。
ウルフはいつの間にかまたひと回り大きくなって、犬型でもあたしより大きい。田舎だから、早朝出会う人は少ないけれど、たまに会う人がちょっと怯えてヒクくらい、いまのウルフは大きい。
爽やかな大気を深呼吸したせいだろうか、朝食のテーブルについたウルフはいつもより明るい笑顔だった。
香りのいいコーヒーを飲んで、こんがり焼けたトーストを食べ、フルーツみたいに甘いトマトともぎたてのきゅうりを使ったサラダ、2軒先のおばあちゃんがくれた生みたて卵のオムレツを食べる。
ウルフもあたしも、今朝はなんだかお腹が空いて食欲旺盛だ。
「ふぅ、旨かった。ご馳走さん」
機嫌のいいウルフの声に、あたしは少し迷ったけれど、思い切って訊いた。
「ねぇ、ウルフ。なにか、あたしに隠してることない?」
ウルフは一瞬だけ、驚いた表情になったけれど、やがて静かな微笑みを浮かべて言った。
「やっぱり、
あたしはあたたかいコーヒーを、もう一杯ずつ入れてウルフの前に座った。
「なにを訊いても、驚かないよ」
あたしたちが一つになって何日か目の深夜、ウルフは何かに呼ばれる気がして、独りで屋根裏部屋に行ったのだそうだ。
そうして、見えてしまった。自分の本当の姿、本来の居場所。
「ユイ、俺は犬じゃなくて、コーダという生きものらしい」
「コーダ?」
訊いたことのない名前に、あたしは怪訝な面持ちで首を傾げる。
「うん、コーダは犬でも狼でもない。独自の文化と生息地を持つ。コーダの森と言うところで、群れをなして生活しているんだ」
「コーダの森?それは、ウルフと最初に出会ったあの、こんもりとした森のこと?」
ウルフがゆるっと首を振って、綺麗な銀髪がさららと揺れた。それがとてもセクシーで美しいと、あたしはまた場違いなことを思った。
「コーダの森は別世界にある。そこが俺を呼んでいる」
「呼んでいる?」
「うん。月の美しい夜、屋根裏部屋に行くと、声のようなテレパシーの音のようなものが聞こえるんだ」
それは、ウルフだけを呼んでいるの?
「それに、俺はコーダの中でも突然変異した種類らしい」
初めて訊くことばかりで、あたしは混乱しはじめていた。
突然変異って、なに?
「コーダの中でも、人間の言葉を話すヤツや、俺みたいに人間の姿と獣の姿を行き来するヤツがいるらしい。そして、そんな突然変異した異質なコーダは、コーダの森では受け入れられないみたいなんだ」
「呼ばれているのに、受け入れられないの?」
あたしの不安は、増すばかりだ。
「そんな異質なコーダ達が目指す、ユートピアがあるらしい。俺を呼んでいるのは、どうやらそこに棲む誰かだ」
「誰かって、誰?」
ウルフは、すぅと眼を細めて、空を凝視する。
「ダメだ、まだ、見えない」
「…ウルフ」
あたしはますます不安になって、ウルフの手を握った。
そんなあたしを、ウルフははっとしたように見る。
「ごめん、こんな突拍子もない話をして。でも、ずぅっと呼ばれていて、それが誰かものすごく気になって、ユイにいつ、どうやって話そうかとずっと悩んでいたんだ」
「話してくれて…ありがとう」
「…ユイ」
そうだ、ウルフが独りで思い悩んでいるより、話してくれる方がずっといい。だってあたしは、彼の
「ユイ、俺、いや俺たち行かなくてはいけない気がするんだ」
…その、ユートピアに?どうやって?
「ユイ、一緒に行ってくれるか?」
「あたしたちはいつだって、どんなことがあったって、一緒だよ。でも、本当に行かなくちゃいけないの?」
「うん、たぶん」
それなら、行こう。ウルフが行くしかないなら、一緒に行くだけだ。
「いいよ」
さらりと、まるで近所へ散歩にでも行くみたいに気軽に答えたあたしに、ウルフがまた驚いたように
可笑しい、ウルフ。なんで驚くの?
いつだってどこでだって、あたしたちは一緒だって、もう運命の神様が決めたんだよ?あたしに不安は、もうこれっぽちもなかった。
それからあたしは、本当に久しぶりに実家へ帰った。父と母、弟に「ちょっと外国へ、旅行へ行くつもり」と伝えるために。
どこかわからない別世界だから、外国でも間違いではないだろう。たぶん永遠に消えてしまうことは…ごめんね。
そしてお世話になっている編集部に、「少し充電期間を取りたいんです」と言って最後の原稿を手渡ししてきた。
たいした作家でもないのに、充電期間なんて生意気だと我ながら思うけど、それもすんなり受け入れられた。
それだけだった、あたしのこの世界での最後にするべきこと。なんてシンプル。
「ユイ、俺たちが目指すユートピアでは、この世界の7倍の寿命があるらしい」
ウルフには、少しずついろんなものが見えはじめているようだ。
7倍長い人生か…それがいいことなのか悪いことなのか、いまはまだわからない。
ただ、わかることは、ウルフさえいればなにも怖くないということ、それ以外は何も求めない。なんてシンプル、なんて心地いい。
星のない夜、銀色の美しい月が、屋根裏部屋の天窓から見える。
あたしたちは、心静かにそのときを待った。
夜空が急に明るくなって、銀の月が細かな光に砕けた。砕けた光は、まるで銀の雨のように天窓の硝子をやすやすと通り抜けて、ウルフとあたしの上に降ってくる。
身体が急に軽くなって、ウルフとあたしは銀色の雨に包まれた。そして、雨とともに静かに消えた。この世界から、この世のすべての関わりから、永遠に。
✵ ✵ ✵
バカみたいな値段で売られている海辺の街の古い家を、独りの女性が買った。
彼女はフリーのプログラマーで、コンピュータとネット環境があれば、どこでだって仕事ができる。
3年つきあった恋人がいたけど、親友に寝取られた。親友は妊娠していて、彼らは結婚するそうだ。
誰にも会いたくなかった。
心配してくれる両親や家族、慰めてくれる友人、仕事を前より回してくれるようになった仕事仲間、全てが
彼女の日課は、早朝の散歩だ。
ある朝、前々から気になっていたこんもりした森まで、彼女は足をのばしてみた。
きゅぅ~い、きゅあん、きゅぃ?
「なに、仔犬?」
その可愛らしい声の主はすぐに姿を現した。
小さな小さな黒い毛の
「やだ、お前。ちょっと、狼の仔みたいだね」
しゃがんで頭を撫でる彼女の足に、黒いもふもふの塊がくぅ、とすり寄った。
彼女の心に、忘れかけていた温かさがほんわりと灯った。だから彼女は、その小さな黒い塊を抱き上げて頬ずりしながら言った。
「可愛い…。ねえ、お前、あたしと一緒に来る?」
〈了〉
※コーダと少女の「長編」を書けたらいいなと思いつつ。
お読みいただきありがとうございました。m(__)m ペコリン
いつか王路さまが 灯凪田テイル @mikazuki
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