第37話 カズヤとしての人生

2014年4月。僕は最終学年になった。

「はい、これノート」

「いつもごめんね」

今日も学生寮の前でハルナから休んだ授業のノートをもらう。これがあったからこそ教職課程の科目の単位を落とさずにこれたのだ。


「ほんと、ハルナのノートはわかりやすいよな。さすが早稲田合格するだけあるよな」

「それをいうなって」ポンと肩をたたかれる。

「じゃあ、学食行こうか」僕たちはいつものように食堂に向かった。


3年前の2011年4月。大学の入学式にハルナが現れた時は本当に驚いた。9月以来まともに話をしたことがなかった。ミキに集中する。そうするためには、ハルナから距離をおくしかなかった。それぐらい自分の中で、ハルナの存在が大きくなっていた。



入学式は学科ごとに座席が決まっていた。なんとハルナと英文学科まで一緒だったのだ。

「おいー! なんでおまえがここにいるんだよ。早稲田通ったんじゃ」

「通ったわよ」

「じゃあ、ここにいるのはおかしいだろう」

「ううん、おかしくない」

僕たちは式の間となりで小声でしゃべり続けた。


「私さ、野上先生から聞いたの。あんたが駅伝やりながら、英語の教員免許も目指していることをね。そんなの一人で無理に決まってるじゃない」

「無理かどうかやってみなきゃわからないだろ」


コホンと隣で咳払いをされてしまった。気がついたら僕の声は大きくなっていた。

「あのね、駅伝やってなかったとしても英文学科の単位のうえにさらに教員免許の単位をとるのは大変なことなのよ。

 あんた、授業を休んでいる間どうするつもりなの」

「それは…友達にノートを借りたりとかする」

「その友達に、私がなってあげるって言ってるの」


ハルナは僕の耳に唇をあてた。

「風と共に去りぬの恩返し、まだしていなかったから」


ハルナから石鹸のいい香りがした。

ーヤバイ、ドキドキする。


「でもさ、演劇の勉強はどうするんだよ」

「そんなの大学に行かなくても出来るよ」


なんと、ハルナは高校生の間に芸能事務所オーディションに合格し、舞台を中心に女優活動を始めていたのだ。



「ハルナ、ほんとにありがとうな。おかげで今年で教員免許とれそうだ」

「教育実習も配慮してもらえてよかったね」


そう、僕は特待生でいるために、必死でレギュラーを獲得しにいった。駅伝では優勝こそしていないものの、僕自身は1回生からずっと区間賞をとりつづけている。

そのことから、遠征の時期が5月の教育実習とかぶらないように、遠征の時期を今年は特別に調整してもらえたのだ。


ここまでこれたのには、神様のアドバイスもあった。

寮に入りたてのとき、僕はピリピリしていた。1回生ということで、朝5時に起きて、每日掃除をしなければいけなかったからだ。風呂、トイレ、廊下、食堂、外回りなどなど掃除をする場所は多岐にわたる。この時間で体力が奪われてしまう上に、授業がみっちりと入っている。


トレーニングをこなすのに必死でタイムも伸びない。

今まで何でも話しをしていた家族もいない。僕はまたすねていた。


ある日のこと、ネズミが布団の中に入ってきた。

「カズヤくん、焦ったらだめだ」

「神様、それだったらもう少し楽な環境にしてくれよ」

「それはできない。なぜなら人間の…」

「自由意思だろ、聞き飽きた」

僕は、神様に背を向けた。


「カズヤくん、いまみんなにどうしてほしいの?」

「掃除当番の負担を軽くして欲しい」

「だったら、人の分まで掃除をしなさい」

「はぁ! どんだけしんどいと思ってるの!」

僕は、神様に大きな声を出した。

対して、神様は静かな声で言った。


「人を動かそうと思ったら、人がして欲しいことを自分から先にするんだよ」

「マジかよ…」

「ハルナちゃんがカズヤくんのためにノートをとってくれているだろ。そんなハルナちゃんに対してどう思う」

「愛おしいと思うよ」

「そうじゃなくてさ、ハルナちゃんが何かあったとき助けたいと思わないか」

「あ、たしかに」

「君もそういう存在にならないと。ハルナちゃんが君にやっていることを、君が陸上部のみんなのためにやるんだよ」


そういうわけで、僕は朝4時に起きて掃除をするようになった。

最初は、ただ損をしているだけに見えた。しかし3ヶ月後変化が訪れた。


「もうすぐ教職課程の試験だろ。当番は俺が変わってやる」と言ってくれるメンバーが現れた。このことで、トレーニング時間も確保しながら、僕は教職課程の試験勉強を確保することが出来るようになったのだ。



「カズヤ、教職員採用試験は中学と高校どっちにするの?」

「うーん、僕は高校かな」

「じゃあ、私もそうしよう」

「真似するなよ」

とかいいながら、一緒に受験するのも嬉しい。


とはいっても、本命は採用試験じゃない。

ミキの高校で英語の教師になることだ。今年こそ駅伝で区間新記録を出し、優勝をするのだ。そしてミキと一緒に仕事をする。それが一番の目標だ。


でも、思えば、ミキと交際をしていたのはたった2ヶ月足らずだ。ハルナとは交際こそしていないけれども、こうやって学食を食べるようになってもう4年目だ。


時々、不安になる。僕が死んでもう20年以上経っている。ミキにとってはもう過去のことではないか。そして、僕はタクヤでいる人生よりも長くカズヤとして生きている。

タクヤとしての人生の続きを生きる義務なんて本当にあるのだろうか。

いま、目の前のハルナに僕は多分恋をしている。ハルナもきっと僕のことが好きだと思う。


100%カズヤとしてハルナを愛する人生もあるのではないだろうか。

僕は、この頃いちばん、タクヤというアイデンティティを煩わしく思っていたような気がする。




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