第33話 進路変更

2008年6月10日。

その日は梅雨らしく、ザアザアぶりの雨が降っていた。


「山本くん、いったい君どういうことなの?」

今時七三分けで、黒縁メガネをかけた中年のおじさんが僕に困惑した顔でそういった。

「野上先生、もう僕決めたんです」

「決めたってね、駅伝やりながら高校英語の教職課程のある学科に行くって…。

 膨大な授業数なんだよ。僕だって、教職とるのにどれだけ苦労したか。

 駅伝選手の練習と両立できるようなシロモノじゃないよ。

 ああ、もうお母さんからも言ってやってくださいよ」


通常、高校生にもなって進路相談に親が呼ばれることなんてない。

僕は、スポーツ推薦で早稲田入学がほぼ決まっているようなものだった。しかし、比較的出席日数がゆるくて単位もとりやすく、卒業もしやすい学科を選ぶことは暗黙の了解だった。

 教職課程となれば、出席も厳しいし。授業数もぐっと増える。それに主力選手と鳴る大事な3回生の9月に1ヶ月の教育実習だって入ってくる。とてもじゃないけれども、駅伝選手をするには、現実的ではない選択である。


教師から見たら、かなり血迷った選択である。それで母が急遽学校に呼び出されてしまったのだ。本当に、母には迷惑をかけてしまっている。


「まあ、もう話しあったことですので。私は息子の自由を尊重します」

母は、きっぱりと先生に言った。

「とはいってもねぇ…。お母さん、教職課程のある学科に行くっていうことはもうスポーツ推薦は受けられないという意味と同じなのわかっていますか?」

「はい。ですから、私は息子の意思を尊重したいのです」

「わかりました。では、スポーツ推薦は辞退ということでよろしいですね」


こうして、僕は今日から受験勉強をしなければならなくなった。


ガラガラっと扉をあけると、ハルナが立っていた。

「あ、ごめんなさい。聞くつもりなかったんだけど、私次だったから」

「いいってことよ」

僕はハルナの顔を見ずに右手をあげた。母がとなりで軽く会釈をした。


1週間前にテレビでミキを見て以来、まともにハルナの顔を見ることができなくなっていた。


「ねえ、本当にこれでよかったの?」母は、帰り道に校門あたりで再度僕に問いかけた。

「いいんだ。僕もね、ミキ姉ちゃんみたいな先生になりたいって思った。やっと将来の夢が具体的になったんだ」

ーそう、ミキの学校に行って、英語の先生になればミキとずっと一緒にいられる。

僕には新しい目標ができていた。


「せっかく頑張ってきたのに。駅伝やめちゃうのもったいないね」

「え、誰がやめるって言った?」

「は?」

「僕は、駅伝も教職もどっちもやるよ」

「うそでしょ」

母は、手がはみでるほど大きな口をあんぐりとあけた。


「お母さん、人間の可能性なんてさほとんどが思い込みなんだよ。やればできることなんていっぱいある。僕はそれを取りこぼさないようにしたい。今までどおり走りながら、勉強もする。人生チャレンジなんだよ」

「なんだか、あなた松岡修造みたいね」

半ばあきれながらも、母は最後まで話しを聴いてくれた。



その日以来、ハルナと一緒に帰ることはなくなった。しだいにハルナとも話をしなくなっていた。

それは、ハルナには心惹かれているからこそのことだった。


18年かけてやっと居場所がわかったミキと再会するためには、自分がしっかりしていなければいけない。


正直に言う。もうミキは昔のミキではない。元気で輝いていたけれども、確実に30歳を超えた顔になっている。カラダだって昔のようにスレンダーではない。決して太ってはいないが、どこか重力に従ったかのようなゆるやかな体型にもなっている。

10年の苦労のせいか、ほうれい線だってくっきりと映し出されていた。


僕の中にもオスの本能が確実にある。肌がきめ細やかで、スレンダーで、目鼻立ちがはっきりしていて、若さに溢れているハルナに惹かれる。性格だっていい。

オスの僕は彼女を抱きたいとさえ思っている。



「もうさ、楽になりなよ」と何度も神様は言った。

「18歳の青年が34歳の女性を追いかけて進路を帰ること自体がもう、なんだかストーカーだよ。記憶を消して、普通に恋愛したほうがいいよ」


そんな神様からの「誘惑」と戦いながらも、僕は必死で勉強をし、クラブ活動にいそしんだ。スポーツ推薦で進路が決まっている同級生たちは、受験がないのと同じなので、体づくりを続けられる。僕も遅れをとらぬように、必死でトレーニングを続けていた。


しかし、3ヶ月後の2010年9月17日、事件が起こった。

父が神妙な顔持ちだった。いっきに老けこんだような顔をしていた。


「資産運用に失敗してしまって…。」


ーそれは、失敗ではなく詐欺事件だった。

父は2年前に定年退職をしたあと、お金に対する不安感をかなり持っていたらしい。それで、運用益が年間200%を超える秘密の投資先があるということで友達に紹介され、投資してしまったという。その金額2000万円だった。


父は、リビングで僕たち3人に土下座をした。

必死で働いて手に入れてくれたマイホームのどまんなかで、いま父が床に頭をこすりつけている。


「カズヤには、大学を諦めてもらって働いてもらわなければいけない。本当にすまん」


目の前には道がある。でもその道は行き止まりなのか。

どうしたらいいのか、わからないまま僕は立ち尽くしていた。










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