第10話 冷たい雨
1991年12月31日午後7時。
家族はみんなこたつに入って、この日のために買ったTVに向かってリモコンを押した。
「きゃ、ついた!」「これでこたつから出なくてもTVが見られるわね」
母とメグミは大喜びだ。父も二人の様子をみて嬉しそうにしている。
こうして、第42回紅白歌合戦が始まった。
みんなでみかんを食べながら、あれやこれやとおしゃべりをするのが我が家の年末の行事だ。
「あれ、光GENJI?」「違う、これはデビューしたばかりのSMAPだよ」とか、
「SMAPの次にヤンキーが出てきたわ」「工藤静香だよ」とかまるで漫才のようだ。
僕のお目当ては、KANだ。「かーなーらーず、最後に愛は勝つー!」ってカセットテープが擦り切れるまで聴き続けた。特にミキとの付き合いが不安になると、「心配ないからねー」と一生懸命歌うのも習慣になっていた。
午後9時を過ぎてしばらくたったとき、突然インターフォンが鳴った。みんながこたつの中で見つめ合った。
ー誰だよ―! 2時間以上待ったんだぞ。俺は絶対に出ないぞ
「じゃーんけん」とメグミが言い出した。
「ポン!」
ー負けた。僕だけグーだった。
しぶしぶ玄関の扉を開けた。
すると、二人の大人の男女が立っていた。一人は見覚えがある。岩井さんだ。
もう一人は…よくわからない。
胸まである黒いストレートヘアに、真っ赤なコート。意志の強そうな瞳が、見慣れた人に似ている。美人だけれども明らかに30歳は過ぎている。
「あの、ミキはここに来ていませんか?」女性が突然僕に話しかけた。
「えっと、あなたは?」
「ミキの母親です」
えー、なんだって!
「は、はじめまして」僕は慌てて頭を下げた。
「あの、ここにはミキはいないですけど」
二人から顔色がサーッと消えていくのが玄関の暗がりからでもわかった。
「他にも心当たりのあるところを探してみる。カオリは、家で待ってて。
ミキが鍵を持っていなかったらいけないから」
「わかったわ」
マネージャーがミキのお母さんを「カオリ」と呼ぶ違和感にその時は気が付かなかった。それ以上に気になったことがあった。
「あの」
「なんだい」
「ミキ、傘を持って出かけましたか?」
二人は何も答えなかった。いや、答えられなかったのだ。
彼女がどうやって飛び出したのか見えていないんだ。
ー外は冷たい冬の雨がしんしんと降っている。こんな寒さの中傘をささないで一晩いたら命に関わるかもしれない。
「僕も探します」ピンク色の傘を持って、僕は家を飛び出した。
ー心配ないからね 君の勇気が 誰かに届く 明日はきっとある
部屋から聞こえる歌声を僕はあとにした。
ーミキ!ミキ!ミキ!
僕は、無我夢中で走った。でも、しばらくして気がついた。ミキが普段どこにいるのか知らない。
…僕はなんにもミキのことを知らない。本当に何にも。
コンビニ、ファミレス、ファーストフード。
雨風をしのげて、お金がかからないところ、そして人に迷惑がかからないところ…。
くまなく探したが、ミキの姿はなかった。
「もしかしたら、もう見つかっているかもしれない」ほとんど希望でしかないけれども。
目の前の電話ボックスに飛び込んだ。ミキの電話番号は覚えていなかったので、僕は家に電話をかけた。
「もしもし、お母さん。ミキ見つかった?」
「ううん。まだよ。さっき担任の先生に電話をしておいたわよ。クラスの連絡網で電話をしてくれるって。何かわかったらお母さんのところにかかってくることになっているから」
「わかった」
「タクヤ…。前も話したことだけど、あの子に何があったとしても受け止める覚悟出来てる?」
母の突然の質問に驚いた。今まで聴いたことがないぐらいに低い声でそして真剣さが伝わってくる。
「受け止める覚悟ができていないんなら家に帰ってきなさい。覚悟ができているんだったら、あんたが見つけなきゃダメよ」
「わかった。また電話する」
受話器をおろすと、ピピーピピーっとテレフォンカードが返却された音がボックス中に響き渡った。
ーまったくどこにいるんだよ。
ぼくは、トボトボと歩き出した。交差点に差し掛かった時、光り輝くものが見えた。
「あ、ここは!」
一度だけ行ったことがある。ここなら、子ども一人でも入れてくれるだろう。
僕は、再び走りだした。
冷たい冬の雨の大晦日。僕が死ぬまであと8日のことだった。
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