その執念が華となる日まで
割れた防護壁の修復のため、都市を覆う天井の方で人影がチラチラと動く。その向こうの空は晴天。青く、広く、澄み渡っている。
同じように、防護壁の修復のため、空中都市の下の方でもチラチラと人影が動く。その向こうは海の青。表面上は
エリュシオンは平和で、いつもどおり風は冷たい。
風に暴れる髪を一つにくくり、部屋を出た俺は、
葉山かいりはいつもどおりのゆるっとした感じで「
別に、改心したというコイツのことが嫌いとかじゃない。ただ、一度は本気で殺そうとしてきた相手に対して、葉山は無防備すぎやしないかと心配にはなる。
部屋には葉山、ろいろ、ハルモニア以外の姿はなかった。都合がいいことに、コウは留守だ。葉山曰く、たまには翼を広げたいと散歩に出かけたらしい。
コウがいないのは幸いだ。チャンスは今しかない。
「…わるかったな。あのとき、ぼやっとしてて」
俺がもそもそと謝ると、葉山はきょとんと不思議そうな顔で首を捻った。教員の仕事なんだろうか、書類をめくっていた手を止めて「えっと、どのとき?」「……だから。ヤマタノオロチが、うみからあがってきて、それで、おれがとびだしただろ」「あー」合点がいったのか、ポン、と手を叩いた葉山はまた首を捻った。
あのとき、死体を寄せ集めた瘴気を撒き散らす肉体を前に、俺はぼやっとしていて、
俺がいらん攻撃を食らったせいで八岐大蛇はエリュシオンに行ってしまったし、結果として葉山は瘴気を大量に吸い込んでしまい、体内に入り込んだ瘴気の浄化のためとはいえ、
「おれがぼやっとしてて、ヤマタノオロチをとめられなかったし、そのせいで、おまえはしょうきをくらって、おうのじょうかがひつようになった。かってして、わるかった。もうしない」
気にしているのか、いないのか、葉山は唇を手の甲でこすった。「まぁ、うん。必要な処置でしたので。應には感謝してるし。コウには一生ネタにされそうだけど…」「ネタ?」「うん、こっちの話」葉山は苦笑いしただけでそれ以上は言わなかった。
…特別怒られることもなく、睨まれることもなくて、肩透かしを食らった気分だった。
「おまえ、おこらないのか?」
「ん?」
「おれがかってにとびだして、だからああなったのに。もうするな、っておこらないのか」
「それはコウが言ったでしょ。
お前は賢い子だから反省しているし、同じ失敗はしない。ならそれでいいよ。幸い、俺も都市もみんなも、大事はなかったわけだから」
そう言う葉山に俺はいっそ呆れた。俺と同じように呆れているのはハルモニアだ。「そんな調子じゃ、かいりは
俺とハルモニアに呆れられているとわかったのか、葉山は「そういえばさ」と話題を逸してきた。「あのときぼうっとしてたけど、あれはなんでだった?」「…あれは、」口にしようとして、閉ざす。
あれは。
あのとき、俺は。
八岐大蛇とは名ばかりの、瘴気と腐臭にまみれた死体の寄せ集め。肉塊。それを前にして怖気づいたわけじゃない。恐怖で体が動かなかったんでもない。
エリュシオンを、クシナダヒメを目指して一心不乱に飛ぶその姿に、ただ一点を目指してそれ以外を捨てていく姿に、少し、自分を重ねただけだ。
エリュシオンから意識を逸らすため、クシナダを捜してるのか、と呼びかけた俺に向けられたのは、肉塊に埋もれた頭の目という目のすべて。何十もの赤い瞳。
生物としてあるべきではない寄せ集めの肉塊の姿に抱くのは、生理的な嫌悪。本能的な嫌悪。
あのとき、時間稼ぎのために投げかけたいくつかの言葉。八岐大蛇の気を惹けるようにと『クシナダ』の名を使って投げた言葉の一つに、こう問うたものがある。
『なんでそこまでクシナダをもとめる。くらいたいのか』
疑問だったのだ。八岐大蛇の執念ともいえるその行動力が。
ただ生物を喰らいたいだけなら、空の都市を目指す必要はない。しぶとく生き抜いている人間は地上にもいる。それを喰らった方が八岐大蛇にとっても簡単だったはずだ。
それでも八岐大蛇はエリュシオン目指してやってきた。
一心不乱にクシナダヒメを求めるその姿が。ミドリを求める自分の姿に、一瞬でも重なったせいだ。
問いかけた俺に見えたのは、理性の欠片があるように揺れる、赤く輝く瞳。クシナダ、と頭の中に響く男の声。
その声は愛していたと言う。ただ愛していたと。今も愛していると。
そうして俺の意識に捩じ込まれたのは、色褪せた風景。まるで映画を見ているように目の前で再生されるのは、着物を着た女と男が、どこかの湖畔で語り合う景色。古いフィルムようにところどころが掠れた映像。
女は男をホオズキと呼び、男は女をクシナダと呼んだ。
それは、かつての記憶。
手を取り合い身を寄せ合う男女の、女は人間で、男はそうではなかった。怪物だった。湖の底に大きな頭を沈めた、ドラゴンとも呼べない怪物だった。
男を怪物と知りながら、クシナダは男を慈しんだ。男は多くを知らず、多くを語れず、ただ女を望んだ。
男は女を、女は男を求めていた。…求めていたのだ。
その怪物は、自分を見てくれた女を、ただ愛しただけだ。だから求めているだけだ。その姿を。存在を。一心不乱に。他の何を捨ててでも、女を取り戻したい。かつて殺された怪物はそれだけを思ってこの世に蘇った。
強制的に見せられた記憶の断片。フィルムでできた古い映画。
ぼやっとしていたのは一応理由があるわけだが…別に言わなくてもいいだろう。もう終わったことだ。この先クシナダヒメにも八岐大蛇にも会うことはない。この記憶にはもう意味がない。
俺は「べつに。ちょっと、あたまがまっしろだったかな。アイツ、キモチワルかったし」とぼやいて話を濁した。そして、もう用は終わったと回れ右して鈍い色の扉のノブを掴む。「もう帰るのか? 今来たところだろ」「べんきょうがある」ガチャン、と扉を開けてバタンと閉める。葉山は追ってはこなかった。
これでアイツに謝るという目的は果たした。モヤモヤしていた頭は多少スッキリするだろう。
さっさと應の部屋に戻った俺は、「早かったのぅ。おかえりじゃー」と長い袖を振る應をスルーしてコートを脱いでハンガーにかけた。
少し大きいこれはエディ・シェフィールドのお古だそうだ。売れないし処分するなんていうから、着るものなんてなんでもいい俺は着れるものはもらっておいた。
(すぐにせいちょうする。このコートがちいさくなるくらいにはおおきくなる)
…八岐大蛇が見せた執念。お世辞にも褒められたものじゃない、はた迷惑な、キレイじゃない愛情の形。
どこまでもどこまでもただ一点を追い求め、他を切り捨てる、愛のかたち。
ソファに腰かけた俺は、さっそく書物を手に取った。向かいでは應がやれやれと首を竦めている。「ちょっとは休憩したらどうじゃ。根を詰めすぎるのもよくないぞ」「まだやれる」キッパリ返し、ソファに置いてある古い携帯端末に視線だけ投げる。
あの中にはかつての自分と、かつてのミドリが、笑っている。
…どんなことをしてもあのかたちを取り戻したい。
どんなことをしても、もう一度、ミドリに会いたい。
八岐大蛇が執念から蘇ってみせたように。クシナダヒメの魂がそれに応えたように。そういう愛のかたちがあるように。
いつかこの執念が華として咲くまで、俺は諦めない。
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