9.


 かいりの情けないGOサインがあたしとおうのもとに届いたのはついさっきのことだ。

 長い付き合いだ。距離もそう離れていない。かいりの心が何かを強く思っていれば、読もうと思えばだいたい伝わってくる。

 なになに。……青玄せいげんのガキが勝手に飛び出して、八岐大蛇ヤマタノオロチ(仮)に意思疎通を図りに出たらしい。まったく、何をやってるんだか。

 仕方なくデスクチェアの上で伸びをし、ペンタブとタブレットを机に置く。

 かいりの現在位置は…端末が辿れないなら圏外か。都市の防護壁の外まで出たんだろう。海からここを目指している八岐大蛇(仮)のもとまで交渉しに行った青玄に付き合ったなら一緒に行っているはずだ。

 ろいろが重力を操ってかいりのことも浮かせている状態だろう。あまり長いとろいろの体力の消耗も激しい。仕方ない、回収してやるか。手のかかる…。

 八岐大蛇(仮)はよみがえりを果たすくらいのドラゴンだ。その強い想い、執着に縋ったに違いない。つまるところ、八岐大蛇(仮)に常識的な、まともな思考力は期待できない。意思疎通なんてそもそもが無理難題だ。

 あたしは溜息を吐いてから部屋のベッドに視線を投げた。布団を剥ぎ取って、卵を両手で抱える。まだようやく色づき始めたような卵なのに、動いている。


「母親が落ち着かないから、あんたも落ち着いてない。そんなに外に出たい?」


 カタリと小さく動いた卵はあたしの言葉に同意したようだった。

 この卵はリア・アウェンミュラーを母とした。かいりとろいろのこともある。人とドラゴンが親と子の関係を結べるということはわかっている。問題は、このドラゴンはまだ卵なのであり、リアはまだ子供なのだ、というところだ。

 リアの不安定な心理状態はまだ卵であるドラゴンを急かしている。

 本当ならもう一年ほどはゆっくりあたためてやるのが定石。でも、この卵は焦っている。母親が不安定で、自分を求めていることに、なんとか応えようとしている。

 あたしは卵を両手で抱えて考えた。

 成長を早めるというのは、リスクを伴う。本来あるべき過程を飛ばすのだ。リスクがないわけはない。それでもこの卵は親のもとへ行きたいと言っている。

 あたしは、深く長く、息を吐いた。「…後悔しても知らないわよ」先にぼやいておく。それから卵を持って應の部屋に移動した。

 珍しく扉を蹴破らず現れたあたしに、ごちゃごちゃした部屋で何かを探していたらしい應が目を丸くしてこっちを振り返る。


「おお、コウか。かいりの思念なら届いたぞい。今から出ようと思っておったところでの、」

「この子、今すぐかえしたいの」


 應の言葉を遮ってあたしが卵を持ち上げると、相手はさらに目を丸くした。ボサボサの髪に手をやって考えるような間を作る。「もう一年は待った方がいいんじゃないかの。それでも早いくらいじゃろう?」「わかってるわよ。でもこの子は今すぐにでも外に出たいんですって」コン、と卵の殻を叩く。同意するように卵がカタリと動く。

 應はさらに何かを考えるような素振りを見せ…この老龍の中でどれほどの結論が出たのかは知らないけど、頷いた。


「自身が望むなら、リスクも承知の上か」

「そういうことね。あたしとあんたが力を合わせれば現実的に可能でしょ」

「そうじゃの。ちとかいりを待たせてしまうが…」

「あいつのそばにはろいろも青玄も、ハルもいるんでしょう。一人じゃないわ」

「うむ、そうじゃのぅ。そうじゃった」


 それならば、と應が色々準備を始めた。その間あたしは卵をあたためるため息吹を吹きかけ、あたしの力を分け与え続けた。



 ほんの少し。時間としては、十分程度、本来より現場に行くのが遅くなったろうか。

 その十分で、状況は悪化していた。

 青玄とかいり達は八岐大蛇(仮)が都市まで来るのを許してしまっていた。こちらに来る前に脆い体をバラバラにすればいいだけの作業もあの子供はできなかったらしい。

 生き物とは呼べない、死体を繋ぎ合わせたようなソレは、瘴気しょうきを含んでいた。濃い瘴気に当てられて倒れている人間が何人かいる。老人か子供だ。瘴気に対してとくに弱い年代。

 仕方がないので應には八岐大蛇(仮)のもとへ行かせ、あたしは倒れている人間を病院前まで置いてきた。パッと見た限りストリート沿いに人間が倒れていないのを確認していると、なぜか八岐大蛇(仮)の方へ向かって走っているリア・アウェンミュラーと柳井やないわたるの二人を発見する。


「何してんの、避難なさい」


 突如現れたあたしに二人は急ブレーキをかけて立ち止まって、リアの方は「あっ」とこぼしてあたしの手元に注目した。別に隠す気もなかったので、「ほら」とその手に卵を押しつける。「え? え、あの」預けたら預けたで戸惑うリアにあたしは呆れた顔を作る。


「もう孵るわ、その子」

「え、もう?」

「そう。あんたの心が右にいったり左にいったりで安定しないから、この子は早くあんたを支えてあげたいそうよ。あとのことはあんたに任せるわ」


 リアはコートの内側に卵を入れて抱え込んだ。それはそれは大事そうに。我が子を宿した腹部を抱える母親のような顔をしていた。「わかった。ありがとう」短い言葉に肩を竦めて返し、いいから学校に戻れと二人を無理矢理転送させようと両肩を掴む。気配を察知したのか、リアが慌てて顔を上げて「待ってコウ! あっちに櫛名田くしなだ姉弟が行ってしまったの、連れ戻さないとっ」と言う。

 …そう。櫛名田が。

 八岐大蛇(仮)って言ってたけど、もう認めるしかないようね。

 あたしは改めて灯台を振り返った。

 そこにはいくつもの死体を抱き合わせた怪物と、目を凝らせば、確かに櫛名田姉弟がいる。應はこれ以上瘴気の被害が広がらないよういくつも原石の結晶を消費して結界を張ったようだ。

 問答無用で無力な二人を学校に転送し、あたしは結界の内側へと入った。パリッ、と久しぶりに抵抗感のある力が鱗の上を撫でていく。

 状況としては、かなりまずそうだ。

 ふらついている青玄は應から渡された石を呑み込んだところだ。それがどういう意味を持つのかは知らないけど、浄化の作用があるんだろう。そうじゃなきゃここで呑ませるわけがない。

 その傍らで意識のないかいりの脈に手を当てる。…正常値とは言えないけど、異常値ってわけでもない。「かいりは」「瘴気を正面から浴びたようじゃな。意識がない」「…そう」ろいろはからだのほとんどが機械だ。だからこそ瘴気の被害はほとんどなく、かいりのことをただ見つめている。揺り起こそうとしないのは、まだ賢い。

 ごほ、と咳き込んでいるのは櫛名田弟、幸人ゆきとの方だ。こちらが無事ってことは、かいりが庇ったんだろう。ほんっと、お馬鹿なままなんだから。


「ねえさん、を。いのりを…っ」


 櫛名田姉のいのりは、怪物のそばにいた。瘴気の濃さに咳き込みながら、顔色を悪くしながら、それでもそばを離れようとしない。


「あんた、クシナダヒメね」


 あたしが言い放つと、赤い目をした祈…。祈の体を借りているクシナダは微笑んだ。


「わかるの? そう、あなたもドラゴンさんなのね。

 ここは、人とドラゴンが、生きているのね。姿の違う、言葉も違う、種族が。一緒に…」


 ゴホゴホと咳き込む祈は瘴気の固まりである八岐大蛇に近すぎた。應が張った結界の外だ。体は毒され続けている。このまま触れ続ければ意識を失うだろう。

 あたしは束の間逡巡する。

 ここは都市の一部だ。焼き払うことは簡単だが、その場合祈も業火に消えるし、街の一部と防護壁の一部もあたしの熱で溶けてしまうだろう。それは、歓迎されない。わかりきっている。

 應、あんた何か手はないの、と年寄りに視線を投げて、あたしは目を見開いた。

 軽い所作で石の固まりを呑み込んだ應は、あろうことか、かいりに接吻したのだ。あたしの思考が一気に趣味側に偏る。


(いや。いや。落ち着きなさいあたし。さすがに場合じゃないから。あれは意味のある行動だから。まず落ち着きなさい)


 スー、ハー、と何度か深呼吸して自分を取り戻す。

 かいりのことは應に任せるとして。あたしは八岐大蛇と祈をどうにかしないとならないんだけど。さて、どうする?

 思考を巡らせるあたしの横で、幸人がふらつきながら立ち上がった。「いのり。聞こえてる?」幸人の言葉に、祈の体を借りているクシナダは微笑んでいるだけで答えない。

 体調が悪いのに無理をして作った笑顔。いや、それよりも、緊張か何かで歪んでいる笑顔、と言えばいいだろうか。そんな顔を作って、幸人は言うのだ。


「僕はずっと、祈が姉さんであることが、気に入らなかったんだよ。どうしてかわかる?

 僕はね、祈が、好きだったんだ。愛しているんだ。あなたを、一人の女性として、想ってる。今も」

「……、」


 突然の告白に不意を突かれたのか、祈の意識が表に出てきた。瞳から赤い色が消えていく。

 今の告白が本当であれ嘘であれ、なかなかいい不意打ちをかませたようだ。「ゆきと…?」祈が祈であるうちにと、幸人が一歩踏み出して手を伸ばす。「いのり。ぼくを、おいて、いかないで」…まるで子供のような顔だった。その顔が、祈にとっては見おぼえのあるものだったんだろう。瘴気に咳き込みながら、幸人に応えようと手が伸ばされて、

 それまでうごめくだけだった八岐大蛇が動いた。幸人めがけていくつもパーツが寄せ集められた醜い尾が振り下ろされる。あたしは反射的に尾を焼き払おうと息を吸い込み、


「やめてホオズキっ!」


 その叫び声で尾の動きが止まった。

 一足遅く、あたしは炎を吐いてしまったあとだ。八岐大蛇の尾だった部分は消し飛んだ。人の姿であったために大した炎じゃなかったけど、腐りかけた死体を吹き飛ばす力くらいはある。

 祈の瞳は本来の日本人色と赤い色に明滅していた。クシナダヒメと祈の意識が肉体の所有権を巡って争っているのだ。「やめてホオズキ…やめて……」咳き込みながら祈が膝を折る。祈の限界が近い。


(頑張りなさい。それはあんたの体でしょう。過去の残滓ざんしなんて追い払いなさい)


 祈は、エリュシオンの街を見上げた。上から降ってきたらしい八岐大蛇が防護壁を破ったんだろう、穴が開いたように錯覚する、覆うもののない空を見上げている。


「ここは、人とドラゴンが共存できるかもしれない、場所だよ。

 ここは、希望に、なるかもしれない。幸せを、つくれるかもしれない。まだ、みたことのない、しあわせを。

 ホオズキと、あなたが、得ることのできなかった、しあわせが。ここで、うまれるかも、しれないの」


 ぽつりぽつりと語った祈からじわりと何かが滲んだ。…薄く漂うような気配。クシナダヒメだ。祈が勝ったのだ。残滓を追い出した。

 ぼんやりとしたクシナダヒメは悲しそうな目でこの都市を見ていたが、最後には笑って八岐大蛇の怪物の体に同化していった。


 一緒に行きましょ。ホオズキ。古いわたしたちは、海へかえりましょう


 最後に、クシナダヒメだったものはそんなことをこぼして消えた。

 用はすんだとばかりに八岐大蛇が動き、灯台に貼りついていた巨体がズルリと落ちた。重力に任せて落下した体はバリンバリンと下方の防護壁を破り、海めがけて落ちていく。

 街の端に立ったあたしは、気を失った祈を支えた。遥か下方で海に激突して砕け散った体を見下ろす。

 その姿は、咲けども実を結ぶことのない花の凋落のようだった。




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