8.


 クシナダ


 はっきりと聞こえる。わたしを呼ぶ声が。富士の施設にいたときとは比べ物にならないくらい、はっきりと、聞こえる。

 あのときは、誰かに呼ばれた気がする、程度のものだったけど、もう違う。まるで世界にはその声しかなくなってしまったみたいに、ずっと、わたしのことを呼ぶ声が聞こえている。


 クシナダ

「…さん。姉さん。姉さん聞いてる?」

「、」


 被さるような声で、自分が呼ばれていることに気付いた。

 柳井やないさんと弟の幸人ゆきとがわたしを覗き込んでいる。「大丈夫? ぐあい、悪い?」心配そうに眉尻を下げる柳井さんにわたしは緩く首を振った。ぐあいが悪いわけじゃないと思う…。うまく、言葉にできないけど。

 わたしたち三人の現在地は、ブリュンヒルデ、という名前の学校。その校舎の中だ。ここなら安全だから、と柳井さんがわたしたちを連れてきた。

 わたしはさっきまで柳井さんにエリュシオンの街を案内してもらっていて。灯台、と呼ばれる場所まで行って。海も空も青い景色を見ていたら、真下から、が首を伸ばしているのを見つけて。それで。

 ちくり、と痛んだ気がする胸にそっと手をやる。

 エリュシオンには、荷電粒子砲かでんりゅうしほう、なんてすごい技術があって、光の柱がこちらに来ようとしていたを破壊したのを、わたしはモニター越しに見ていた。

 一度。二度。三度。そして四度。光線は容赦なくこちらに来ようとするものを破壊した。そのたびに、わたしの胸はちくりと痛んだ。

 破壊される、そのたびに、この耳には痛イと呻く声が聞こえていた。


 クシナダ


 今行クカラ、という声は、新たな姿を取る度に圧倒的な力で粉砕されて、はまた一からからだを作ってここへ来ようと必死に…。

 自分の思考にはたと我に返る。

 多くの人が詰めかけている体育館。そこに避難した自分と弟と柳井さん。

 この都市を守護するドラゴンがこの状況に対応している、という幼い少女の声のアナウンス。

 ドラゴン学で一緒だった金髪のきれいなリアちゃんがわたしたちを見つけて手を振っている。こちらに駆け寄って、無事でしたね、よかった、と表情を緩める彼女の声が遠い。


 クシナダ


 わたしを呼び続ける声の持ち主を、わたしは、…? 


(そう。よく知っている。遥かな昔に、一緒に過ごした。きれいな泉のふちで、他愛のない話をした……)


 ちくり、ちくり、と、胸が痛む。

 泉のふちで。他愛のない話を。


(その時間だけが、わたしがわたしでいられる時間だった)


 そしてわたしは、記憶の泉の中へと沈んだ。

 ……………、

 鬼灯ほおずき色の瞳をして、わたしが言葉や仕草を教えたことでより人間らしく振る舞えるようになった彼が、笑っている。 

 頭は八つ。尾も八つ。だけど体はたった一つ。そんな不自由を抱えて生まれた彼がなんという存在だったのか、わたしは結局知らないままだった。

 

 わたしなんかのせいで、彼は死んでしまった。どうしてもわたしと結婚したかった男と、どうしてもわたしと彼を引き離したかった両親が結託した結果、彼は殺されてしまった。わたしのせいで。

 …行かないと。

 また彼が無残に殺されてしまう前に、わたしは行かないと。

 無音の世界で立ち上がったわたしに、わたしとよく似た顔をしている子が話しかけている。弟、か、兄、か。その唇がわたしのことを『姉さん』と呼ぶのなら、この子はわたしの『弟』なのだろう。

 今のわたしはあなたの知るわたしじゃない。あなたが姉として知っているわたしじゃない。

 わたしは、クシナダ。と呼ばれたわたし。

 ここにいるわたしは、ホオズキ、あなたと同じ。魂の残滓ざんし。もうすぐ消えてしまう儚い蛍のような存在。それが体を得て動いているの。


(あなたはわたしを迎えに来たのね。ホオズキ)


 かつてあなたを殺してしまった、他の男と一緒になるしかなかった、子供を産んで育てるしかなかった、こんなわたしでもいいと言うのなら。それでも望んでくれると言うのなら。わたしは、あなたと一緒に、徒花あだばなとなろう。咲いても実を結ばない、散るだけの花に。

 わたしは晴れやかな気持ちで足取り軽く駆け出した。姉さん、と伸ばされる手をすり抜け、わたしを迎えにきたあなたのもとへと、走っていく。

 ああ、最初からこうしていればよかった。あの頃も、こうしていればよかったんだ。どうしてこんな簡単なことができなかったんだろう。他のすべてを捨ててあなたを選べば、わたしもあなたもきっと幸せなままで生きることができたのに…。




✜  ✜  ✜  ✜  ✜




「姉さんっ」


 僕の手をすり抜けて止める間もなく体育館から出ていったいのりに、柳井とアウェンミュラーは呆気に取られていた。

 突然立ち上がって、何も言わずただ微笑んで、駆け出したかと思えばこの避難場所から出ていった祈。

 僕は彼女を追った。転げるようにして立ち上がりながら体育館を飛び出し、もう遠く小さくなっている祈の運動能力の高さに驚きながらも、全力で走った。「姉さんっ!」小さくなっていく祈の背中にありったけの声を叩きつけたけど、祈は振り返ることなく開きっぱなしの校門から外へ出ていく。

 僕は祈を追いながら、彼女が僕に見せた笑顔を思い出していた。

 儚くて、今にも消えてしまいそうな、あんな微笑み方をする祈は、見たことがない。

 瞳が赤く光っていた、あんな祈は見たことがない。だからあれはおそらく

 少し前の僕ならこんなことは考えなかったろう。

 瘴気しょうきという毒は日常になりつつあった。それはもう特別なものではなくなっていた。最近になっていくつもの特別なことが起こった。

 姉が触れただけで割れた石。

 噴火した富士。

 意思を持つかのように動いたマグマ。

 人を助けるドラゴン。

 ドラゴンとの共存を望む人間。

 話にしか聞いたことのなかった空中都市。

 荷電粒子砲という殺戮兵器。

 いくつもの非日常を目にしたからこそこう思う。今の祈にもそれが起こっているんじゃないか、と。

 兆候は、あったじゃないか。

 何かに呼ばれているみたいに振り返ったり立ち止まることの多かった祈。その原因はだった。

 祈が『どうしても行きたい』と言った『八岐大蛇ヤマタノオロチノ塚』、その石は彼女が触れただけできれいに割れて、そして、火山は噴火した。

 僕にはまるで、あの塚に眠っていた八岐大蛇とやらがかのように思えた。


(祈は、八岐大蛇に呼ばれていたんじゃないのか。クシナダ、って)


 僕らは櫛名田くしなだという名字を持っていて、そして、八岐大蛇が喰らおうとしていた女は古事記では『櫛名田比売ひめ』、日本書紀では『奇稲田姫くしいなだひめ』と書かれている。

 ただのお伽噺。ただの伝説。ああ、そうだったらいいと思っていたさ。僕らは彼女の遠い遠い子孫。そんなことは思いたくなかったさ。

 けど、この符合をどう説明する。

 祈が呼ばれて、彼女は応えて、八岐大蛇をこの世に戻してしまった。祈を追って、八岐大蛇はしつこくここまでやってきた。祈を…いや、かつてのクシナダヒメを求めて、あの蛇はここまでやってきたんだ。

 蛇のもとへ行こうとする、あれは祈じゃない。あれは、おそらく、


(クシナダヒメ)


 遅れて、僕もようやく校門を飛び出した。左右と正面のメインストリートに視線を投げる。小さな祈の姿を右の道に見つけて一歩踏み出し、ふらついた。

 この都市がどのくらいの標高にあるのか知らないけど、すぐに息が切れる。空気が薄いせいだ。目が、かすむ。呼吸をしっかりしないと。


「…、いのりを。かえせ」


 遠くなっていく彼女の背中は小さくて、もう息切れしている僕が走ったところでとても追いつけそうになかった。

 それでも諦めきれずに一歩踏み出し、二歩目を踏み出し、息を整えながら、この体は走り出している。 

 祈をうしなうことだけは避けなければならなかった。

 僕の世界のほとんどは祈でできている。祈がいなくなるようなことがあれば、僕の足元にも穴が開いて、落下して、終わる。他の何を捨ててもいい。だから彼女だけは喪ってはいけない。

 僕は、、彼女に好きだと伝えていた。控えめに言っても愛していると伝えていた。だけど僕らはなんの因果か姉弟で、血が繋がっていて、僕らは家族として一生の絆で結ばれてはいるけど、それ以上にはなれない。それでもいいとようやく自分と折り合いがつけられるようになってきたところなのに、やっぱり気持ちを伝えていればよかったのかなんて気の迷いを起こさせないでくれ。

 僕は、走った。目眩を感じながら、ふらつきながら、これでもかというほど走った。

 やがてぼやける視界に灯台が見えてきて、街の端まで来たのだということをぼんやりと理解する。体にも頭にも酸素が足りていなかった。

 風に舞う、黒いきれいな髪が見えた。


「いのりっ!」


 気がつけば、風に負けないよう、彼女の名前を叫んでいた。

 祈がこちらを振り返る。不思議そうな顔をしている。その目はいつもの色で、どうしたの幸人、と言い出しそうないつもの雰囲気をしていた。

 安堵したのも束の間。次の瞬間、バリンバリンとガラスが割れるような大きな音がいくつも響き、灯台を潰すように降ってきた何かに、背筋が粟立った。

 腐ったいくつもの死体を繋ぎ合わせたような、もはや生き物とは呼べないそれは這いずって、祈を目指していた。いくつもの頭。いくつもの翼。いくつもの手足。いくつもの尾。伝説の八岐大蛇よりずっと醜く怪物に成り果てたそれを前に、彼女は微笑んだ。その瞳は赤い。

 目の前には正真正銘の化物がいるのに、彼女は当たり前のように微笑んでいる。


「ホオズキ」


 一緒にいきましょ。そう言って、彼女は化物に向けて手を差し伸べた。




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