6.


 エリュシオンが無事に火山灰の影響範囲から抜け出し、都市の頭上にとぐろを巻いて向かい風を吹かせていた大きなドラゴンは、夜明けとともにいつの間にか消えていた。

 リアが僕の肩に頭を預けて寝ている手前、僕まで寝て体勢を崩すわけにもいかない。それでリアが起きてしまったら大変だ。せっかくこんな至近距離にいることを許されたんだ。寝るのがもったいない。

 ゴホン。じゃなくて。

 まぁつまり、僕はその夜は頑張って起きていたんだけど、体育館が締め切られていることもあって、あの和龍の姿を見たのは体育館に入る前が最後だ。


(…ありがとうって、届くかわからないけど、叫べばよかったかな)


 僕ら人間を助けるために、あのドラゴンはずっと火山灰に向かい風を吹かせていた。それが何かドラゴンらしい力を使ったものだとしても、人間がうちわでパタパタ風を起こし続けるのだってそのうち限界が来る。何よりまず想像しただけでも桁外れに根気のいる作業だ。それをずっとしてくれていた、と思えば、本当に感謝しかない。

 もうドラゴンの姿のなくなった朝焼けの空を見上げて、僕とリアの意見は一致した。

 だから、葉山はやま先生経由ということにはなるけど、今度ドラゴン学の授業があるときに話をして、あのドラゴンにお礼を伝えてもらおうと思った。

 言葉だけでは格好がつかないし、何か形だけでも…と思ったけど、僕ら生徒からそういったものを受け取ることはきっと先生が困るだろう。先生を困らせるわけにもいかない。…今度こっそり昼食を奢るくらいの計画にしておこうと思う。

 ドラゴンの力があってようやく緊急事態から脱したエリュシオンだけど、学校は一日休校になった。僕ら生徒もそうだけど、先生はとくに、生徒の世話で満足に睡眠も取れなかったはずだ。休息日は必要だった。

 一日の休みの大半を僕は寝て過ごしてしまったけど、多くの先生生徒がきっとそうだろうと思う。

 そして、待っていたドラゴン学の授業の日がやってきた。

 僕はリアと校舎の入り口で落ち合って、先生を待つためにいつもの小さな講義室に入った。そこまではいつもどおりだった。そして、ここからが、いつもと違っていた。

 講義室にやって来た先生は、顔がそっくりな二人の男女を連れてきたのだ。そのことに僕とリアはものすごく驚いた。そんなことは初めてだったから。

 女の子の方は長い黒髪に白い肌という日本美人で、男の子は黒髪に白い肌で、そして、同じ男子として引け目を感じるくらいイケメンだった。

 突然現れた日本美人な男女を前に僕とリアが言葉を失っていると、教壇に立った先生が二人のことを紹介していく。


「今日から一緒に授業を受けます。双子のお姉さんの櫛名田くしなだいのりさんと、弟の幸人ゆきとくんです。二人とも仲良くしてあげてくれ」


 お姉さんは祈、弟くんは幸人というらしい。

 …日本人。うん、見た目からそうだろうと思ったけど、名前も日本人だ。

 日本人でこのエリュシオンに来られた人間はわりと少ないって聞いたことがある。

 さまざまな人種が行き交うこの都市での『同じ出身国である』という安心感は、うまく言葉にできないけど、たしかに存在している。僕も、先生と日本語で話せるときはやっぱりほっとするし。だから、日本人かも、と思った人のことは自然と目で追ったりするものだけど、この二人にはおぼえがない。二人とも人目を惹く容姿をしているし、一度でも目にしていたら、忘れることはないと思うんだけど…。

 ここまで考えて、僕は一つの可能性に行き当たった。


「櫛名田って言うとどちらを呼んでるかわからないから、二人のことは祈、幸人って呼んでもいいかな」

「はい」


 英語で話す先生に弟くんは英語で返事をしたけど、お姉さんの方は戸惑ったように眉尻を下げて弟くんをチラ見している。「先生、なんて?」そしてひそりと弟くんにかける声も日本語だ。

 この都市に来るにはまず英会話が基本となるし、読み書きも基本的に英語となる。英語のできない人間はこの都市に来る資格がないも同じ。その点で日本人には狭き門だった、というのもこの都市に日本人が少ない理由の一つで…じゃなくて。

 先生が気付いたって顔でお姉さんの方を見て「あ、祈は英語が得意じゃないんだったな。幸人、フォローしてやってくれよ」「わかってます」「…あの、先生」あまりにも自然体の先生に我慢できずにそろりと挙手してしまう。


「お、自己紹介? はい、柳井やないどうぞ」

「柳井わたるです。日本出身なので、二人とは日本語で話もできます…じゃなくて、先生。二人はまさか富士の施設から救出されたっていう日本人、ですか…?」

「その質問には、イエス、になるかな」


 リアが驚いたようにまじまじと二人を見つめた。そして、先生に呆れた顔をする。「そうだろうと思ってましたけど、やっぱり富士へ行ったんですね、先生」リアの指摘に先生は参ったなと指で頬を引っ掻いてみせる。

 リアは一つ息を吐くと、気持ちを切り替え、きれいな所作で席を立った。二人に向かってぺこりと一礼すると、金髪がさらさらとその肩をこぼれ落ちていく。


「リア・アウェンミュラーといいます。ドイツ出身で、今は高校生です。ドラゴン学の授業は訳あって受講させてもらっています。

 エリュシオンへようこそ。私と先輩と先生は、あなた方を歓迎します」


 リアらしいといえばらしいきちっとした英語の挨拶だった。

 リアの挨拶を弟くんがお姉さんに伝える。お姉さんは弟くんの言葉に頷いて、日本語で「えっと、先生から紹介がありました、櫛名田祈です。祈と呼んでください。よろしく、お願いします」と頭を下げた。それは僕でも英語にして伝えることができたけど、弟くんの方が遥かに早くリアにお姉さんの言葉を伝えた。彼はイケメンというだけでなく頭までいいらしい。…なんだかなぁ。不公平だ……。

 そんなわけで、驚きから始まったドラゴン学の授業は、この科目が初めての櫛名田姉弟のこともあって、ざっとした復習から始まった。

 僕はどれも知っている内容だったけど、リアは最近の部分しか知らないし、姉弟はすべてが初めてだ。

 女の子二人は新鮮な反応で、授業を楽しんでいるようだった。

 弟くんは、なんていうか、ポーカーフェイスすぎて、何を考えてるのか全然わからなかったけど。



 そんなわけで。その日のドラゴン学の授業は怒涛どとうのように過ぎ去った。

 リアはこのあと高校生として本来の授業があるからと、ブリュンヒルデの鐘が鳴ると同時に鞄を掴んで一礼し、高校のクラスの方へと駆け戻っていく。そんな姿を見送って、僕は講義室に戻った。中には先生と櫛名田姉弟がいる。僕を含め、全員が日本人という、なんか、奇跡のような光景だ。

 僕は扉を閉めると口調を切り替えた。「改めまして、柳井航です。よろしく」ぺこ、と頭を下げる。最近先生と二人になることが少ないからか、日本語で話す機会が減っていて、母国語なのに久しぶりにちゃんと喋ったって気がする。

 日本語を聞いてお姉さんの祈がパッと表情を明るくした。「柳井さん。よろしくお願いします」弟くんの通訳がなくても言葉がわかるというのが嬉しかったんだろう、僕にぺこりとお辞儀を返してみせる。

 先生が僕の方を見て「柳井、このあと予定は?」なんて言うから、僕は内心慌てた。カーディガンのポケットから端末を引っぱり出してスケジュールを呼び出す。


「…とくに、ないです」


 すぐに画面を消して先生に一つ頷いてみせる。

 今のは嘘で、本当は二つくらい授業が入っていた。でも、先生が僕を呼びたい用事があるならそれに付き合いたかった。

 今さっき気付いたけど、櫛名田姉弟のことがあって、先生に言うべきことを忘れてしまっていたし。

 先生は「よかった」と言って、姉弟の肩を叩いた。ニコニコ笑顔で、「二人をさ、案内してあげてくれないか」「…はい?」「エリュシオン。初めてなんだよ。どこに何があるとか、どういうところだとか、ざっくりでいいから」そして先生はとてもいい笑顔で、僕にとって苦手分野である、コミュニケーション能力の問われる無理難題を突きつけてきたのであった。

 先生の言葉に祈が目を輝かせているし、幸人は微妙に顔を顰めている。そんな反応の離れた二人を連れて僕が、この都市を、案内、する…?

 今すぐ回れ右してここを出て、次の授業の講義室に飛び込みたい気持ちになる。


(待つんだ、柳井航。ここで逃げてどうする。先生だって忙しいんだ。僕にできることがあるなら手伝ってあげたい。将来的に先生の助手になりたいなら、今からでも先生の手伝いをやるべきだ。そうだろ?

 二人は日本人だし、祈はまだ英語がわからない。日本語で案内できる僕が適任だ)


 自分に言い聞かせて、一つ、覚悟のための深呼吸をする。




 ………そんなわけで、僕は今、櫛名田姉弟を連れてエリュシオンの主要施設の案内や、この都市の仕組み、基本的なことを話しながらメインストリート沿いを歩いている。

 積み木のように縦に重なった家々が見せる景色が珍しいみたいで、祈は何度も上を見上げては「すごいねぇ」と、もう五回目になる言葉を口にした。弟くんは少し呆れたような顔をしながら「姉さん、前見て。転ぶよ」と祈に注意している。

 もう一時間ほど一緒にあちこち行っているけど、祈は活発で好奇心が旺盛だ。一方幸人は冷静沈着で、何を見ても動じることがない。

 点在しているスーパーには基本的に食べ物が置いてある。そのことに祈はとくに感動しているようだった。


「フジはね、食べ物が本当に大変で、養殖みずちくらいしかお肉はなかったの。ここには鶏肉とかあるのね。チキンサンドなんて本当に久しぶりに見た」

「下の階層の農場で飼育されてるんだ。牛豚鶏、すべているけど、出回るのは稀だよ。

 牛は牛乳のためが大きいから、それができなくなった個体しか食用にはならない。豚は残飯処理も兼ねてるけど、これも数が増えたら食用に回ってくる。

 鶏は卵だね。これも数が増えるか、産まなくなった個体しか食用にならないから、数はそう多くはないよ」

「へー」


 祈が僕の説明に感心したように頷く。

 一瞬肌にちくりと視線を感じて幸人の方を見てみるけど、彼は興味が薄そうな顔で僕の話を聞き流している。…睨まれたような気がしたんだけど、気のせいか。

 街の端まで行きたいと祈が灯台の方を指すので、肩を竦めてまっすぐなストリートを三人で歩く。「エリュシオンは、風が強いのね。とても寒い」「あ、」今更ながら、二人がこの都市を歩くための防寒具が足りていない状況に気がつく。

 自分がしているマフラーと手袋を外して祈の方へ差し出す。彼女はきょとんと目を丸くして僕を見た。「つけて。慣れないうちはすぐ風邪引くと思うから、あたたかくした方がいいよ」この都市でレディーファーストな精神が築かれつつある僕がそう言うと、彼女は「ありがとう」と笑って僕の防寒具を受け取った。

 …あれ、またちくりとした視線を感じる。

 ちらり、と幸人の方を窺うも、別に睨まれてない。…おかしいなぁ。


「エリュシオンは、空中にあるからね。地上よりずっと気温が低いし、風も強いんだ。ここでは一年を通して半袖なんてまず着ることがないよ。外に出るときは手袋とマフラー、分厚いコートが欠かせない」

「エリュシオンに、夏はないの?」

「うーん…。もちろん、陽射しは強くなるんだけど。農場や工業区に支障が出ないように、この都市の軌道自体を暑い場所から逸らしてしまうから、実質、夏はないようなものだね」

「へぇー、すごい。ね、すごいね幸人」

「…そうだね」


 幸人は祈に合わせたように頷いた。…お姉さんには素直なんだな、彼は。

 祈の希望である街の端、灯台がすぐ近くに見える場所まで来て、僕は建物が途切れる手前で立ち止まった。

 これ以上先は建造物で風を防げないから、慎重に進まないと転んだりしてしまう。

 僕は眼鏡を強風時用のゴーグルタイプに付け替えた。これなら飛ばされないし、視界がぼやけることもない。…ちょっとかっこ悪いのが難点だけど。


「風、かなり強くなるから、気をつけて」


 先に言い置いてから一歩踏み出す。手袋とマフラーの装備がない僕にはかじかむような寒い風がゴゥッと音を立てて吹きつけてくる。

 講義室で初めて見たときの印象はおとなしそうな日本美人という感じだった祈は、わりと活発だ。「すごい風!」となんだか楽しそうに風に暴れる長い黒髪を手で押さえている。


「ねぇ、あれは何?」

「灯台。エリュシオンだと、海じゃなくて、空の、だけど。目的も、本来の航行のためじゃなくて、警戒のためのものだよ。見張り台っていう方が正しいかも」

「なんのための見張り台なの?」

「…ドラゴンだよ。この都市は空中にあるから、ドラゴンがよく襲撃してくるんだ」

「じゃあ、あれは? この都市を覆ってる殻みたいな、あれは?」


 祈が空を指す。都市を三百六十度覆う防護壁がずっと不思議だったみたいだ。確かに、不思議だろう。僕もそうだった。「防護壁だよ。あれで雨風とかをやわらげてるんだ」その詳しい仕組みとかは、知らないままだけど。

 祈は感心したように頷いて、都市の端、安全のために欄干のある場所まで辿り着いた。彼女が下を覗き込めば、風で長い髪が空へと舞い上がる。

 僕が言うよりも早く幸人が「姉さん、危ないよ」と声をかけてそばへ行く。

 僕からこの都市のことはだいたい話したけど……彼らから富士の施設の話については、訊かない方がいい、かな。生き延びたのは二人だけ。彼らの両親も、友人も、ここにはいない。その現実が彼らの現状を物語っている。

 僕は二人が満足するまで寒風の中に立ち尽くすという使命を頑張ってこなしていた。祈がよろけて尻もちをつくまでは。

 はしゃぎすぎて風に負けてしまったのか、と僕は慌ててそばに行く。

 そこで、気付く。祈がここから覗き込める都市の下を見ていること。幸人も同じように都市の下を凝視していることに。


「どうかした…?」


 声をかけて祈を支えながら、僕も欄干の向こう側を覗き込んでみた。

 そして、驚愕した。

 エリュシオンの真下は一面の海だった。まだ瘴気の霧のないきれいな海。そこから、何かが、こちらへと伸びてきていた。

 ゴーン、ゴーン、ゴーン、とけたたましい音が耳をつんざく。ブリュンヒルデの鐘の音だ。つい最近聞いたこの音をまた聞くことになるなんて…。

 僕はとっさに、携帯端末で都市の真下の写真を撮った。画質は最高解像度で。その写真を葉山先生に添付メールで送信しておく。

 腰が抜けているのか僕に縋っている祈を連れて「幸人、離れよう。学校へ」自分で動ける幸人には声をかけて、とりあえず灯台から離れて建物の影へ。風の勢いが弱くなって、祈がなんとか自力で立った。そして、ほおずき、と彼女は呟いた。

 風に消されたその小さな声は僕にしか届かず、そして僕は、その言葉の重要性を、そのときはまだ気付けていなかった。


(とにかく、学校へ。そこまで行けばなんとかなる)



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