5.


 ズルリ、ズルリ。

 ワタシは緩慢な動作でクシナダを目指す。

 龍と竜に連れ去られてしまったクシナダを、ワタシが、助けてやらねば。今度こそ、彼女が泣かずにすむように。

 ズルリ。ズルリ。

 そのうち、ボロリ、とからだの一部が脆く崩れて地面に落ちた。ドン、と大きな音がしたが、それで飛び上がる者はいない。ワタシは、冷えて固まり始めた体で、クシナダが連れ去られた方角を目指し、ひたすら前進していく。

 ワタシが知る人の集落とはかけ離れていたが、おそらく、人の集落である。そう思われる変わった家がところ狭しと並ぶ場所は濃い霧のようなものに包まれ、生き物の姿はない。それはとても好都合なことだった。ワタシがどのように振る舞おうとも、化物と言われることもなければ、目的を妨げられることもないのだ。

 以前のように抵抗もせず殺されることなど、してやるものか。

 あのときはそばにクシナダがいた。だが、クシナダがいないなら、ワタシは身勝手な暴君のように振る舞うことができる。

 クシナダ。君がいないのなら、この場所が崩れようが、炎に包まれようが、どうでもいい。

 ズルリ。ズルリ。体を引きずるようにして、ワタシは進む。

 空には分厚い雲が立ち込め、黒っぽい灰を降らせている。そして地上には濃い霧が立ち込め、生き物の姿はない。まるで終末の世界だ。

 クシナダはこんな世界に再び生を受けたというのか。

 滅びかけた世界。ここで、クシナダは、幸せになれるのだろうか…? ここには幸せは存在しているのだろうか…?

 彼女が望む幸せとは一体なんだろう。

 ゆるりゆるりとクシナダのことを考えながら、ワタシが海と呼ばれた水の塊のもとへ辿り着いた頃には、ワタシの体となっていた煮えたぎる溶岩はほぼ冷え切り、岩となり始めていた。

 岩を引きずって動くのには疲れてしまった。じきに本当に少しも動かなくなる体は捨てねばなるまい。

 ワタシは代わりのものを探すが、ここに来るまで、紫のような霧の立ち込めた大地には一つの生き物の姿もなかったことを思い出す。

 地上で代わりを見つけることを諦めたワタシは、海、で体を探すことにした。

 ドーン、と岩の塊のような体が海の中に落ち、衝撃であちこちが崩れ剥がれていったが、ワタシは構わず海底を転がるように移動した。

 どれほど移動しただろうか。やがてワタシは、ピッタリの体を

 海底に横たわる巨大な体の半分ほどは腐っているが、まだ使えそうだ。かつては海に住まう力ある竜か龍だったのだろうが、今はその面影はない。

 ワタシはもはや岩となった体から半分腐りかけたその体へワタシの意識を移した。

 もともとの体の主はすでに死んでいたので、その巨体はあっさりとワタシのものになった。死んだ魚の目はワタシ、ホオズキの色を宿し、長いこと動かず腐りゆくままだった体はズズズと海底の砂を巻き上げながら起き上がっていく。

 無理をすればこの体とて崩れ行くのだろう。

 その前に、ワタシはクシナダのもとへ行かなくては…。


 ホオズキ


 彼女が、ワタシを呼ぶ、声がしている。

 彼女が、助けてほしいと、ワタシに乞うている。

 ワタシはその声に応えたい。

 クシナダ。君が求めてくれるなら、死の淵からでも、ワタシは、何度でも、よみがえってみせよう。君のそばへ、必ず、行こう。




✜  ✜  ✜  ✜  ✜




 レントゲンからエコーから、これでもかってほどの検査をさせられた櫛名田くしなだ姉弟は、最後に、病院の地下に当たる空間に並ぶ部屋の一つに連れていかれた。

 そこはいわゆる『隔離病棟』で、重篤な入院患者や隔離が必要だと判断された人達が閉じ込められているような薄暗い場所だった。

 姉弟は火山灰による健康被害もなく、大きな怪我もないし、ここに来なきゃならないような理由はない。

 けど、ここの人間からすれば、瘴気の溢れる大地で生活していた姉弟は『汚物』なのであり、隔離しておきたい理由があるのだ。


「今日のところはこちらでお休みください」


 俺がいる手前子供にも敬語を使うが、俺達をここまで案内した男は早くここから離れたくて仕方がないという顔を隠せていなかった。大きなマスクを気にするようにたびたび手をやっている。俺は肩を竦めて返し、眠そうな姉弟の背中を押した。

 付き合っていた俺も寝不足だったけど、富士からこのエリュシオンにやってきて、着いたと思えば検査三昧で休む暇もなかった姉弟の方がずっと疲れてるはずだ。

 廊下を挟んでズラリと並んでいる部屋はすべて同じ作りになっていたけど、この部屋にはベッドが二つ並べてあった。

 男は俺達が部屋に入ったのを見届けると、足早に、仕事は終わったとばかりに上の階へ戻るためにエレベーターのある方へと去っていく。

 ガチャン、と閉まった扉は重く丈夫にできていて、認証機が埋め込まれていた。どうやらこれに端末をかざして許可が出たら開く、という仕組みのようだ。マイクとスピーカーがついてるところを見るに、トイレの場合も申請しないといけないみたいだな。面倒だ。

 姉のいのりはさっそくベッドに座って靴を脱いでいた。「姉さん」弟の幸人ゆきとが顰めた声をかけるのにも構わず布団に入り、枕に頭を預けている。「もう、むり。ねる…おやすみ……」小さな声でそうこぼすと、祈は目を閉じてしまった。すぐに寝息が聞こえてくる辺り、本当に限界だったんだろう。

 幸人は溜息を吐くともう一つのベッドに腰を下ろした。「どうぞ」「あ、どうも」他に落ち着ける場所もなかったので、勧められるまま幸人の隣に座ってみる。…このベッド、固いなぁ。ないよりはいいだろうけど。

 幸人は何かを考えるように手を組んで、しばらく静かだった。

 俺も話すべきことを考えてみるものの、二人の処遇の改善については吉岡よしおかさんに掛け合ってみるしかないし、今は何もいいニュースは伝えられない。


葉山はやまかいりさん」

「はい。…フルネームはくすぐったいのですが」

「葉山さん。でいいですか」

「うーん。ならいっそ先生で。これでも一応先生だから」

「では、先生。話しておかないとならないことがいくつかあります」


 疲れているだろうけど、幸人の頭は今も回転しているようだ。

 二枚目だなーと同性の俺でも感心するような整った顔をしている幸人は「失礼します」と断ってから、俺の耐熱ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。そこからメモリースティックを二つ取り出す。…いつの間に。気付かなかった。


「僕が持っていたら問答無用で没収されると思ったので、失礼ですが、先生のポケットに隠してました」

「なるほど…。で、それは?」

「……富士の施設がいつかこういうことになるっていうのは読めていました。

 あの場所は標高が高いので、瘴気からは遠く離れることはできましたが、その代わり、生きていくのに厳しい条件がたくさんありました。普段の食糧問題にしてもそうですし、富士が活火山で、いつ噴火してもおかしくない、という状況もそうです。

 だから僕は、そのときが来ても、他の施設に受け入れてもらえるための交渉材料として、こういったものを常に携帯していたんです」


 幸人はそこまで考えていたらしい。俺は素直に感心した。頭のいい子なんだろう、とも思った。十年前の俺なんて頭が悪くて動物馬鹿で先読みもできないただの高校生だったのに…。顔もよくて頭もいいなんて、ちょっとズルいなぁ。

 首を捻って「どういうものかはわかったよ。交渉材料で、保険なんだな。それで、その中身は?」といてみる。

 幸人は桃色のメモリースティックを指して、


「これは僕らが暮らしていた施設、『ファスィリティ・フジ』の記録です。

 何時に施設が稼働を始め、普段どういった生活をし、どこに何があり、どのレベルのことをしていたか、記録できる限りのことをしてあります。

 エリュシオンにとっては『地上の生活はこうだ』という参考程度にしかならないでしょうが、フジ以外のファスィリティには重宝されるだろうデータですね」

「なるほど…」


 まさかエリュシオンに拾われるとは思っていなかったから、このデータは他のファスィリティに受け入れてもらえるようにと用意した駒なんだろう。

 もう一つ、水色のメモリースティックを指す。「じゃあこれは?」これも交渉材料だというなら、同じくらいに貴重なデータが入っているはずだ。

 尋ねた俺に、幸人は少し言いよどんだ。窺うような瞳にはっとする。「あ、言いにくいことか。ごめん、軽率だったね」これは櫛名田姉弟の未来を左右するかもしれないデータなのだ。丁重に扱わないと。

 あっさり引いた俺に幸人は僅かに眉間に皺を寄せた。「いえ。どのみち、僕からの交渉では限界があります。信頼できる相手に預けて、きちんと話を通してもらう必要がある」そこでまたちらりとこっちを見る。

 頭のいい彼は何事かを考えるような素振りを見せ、結局溜息を吐いて、何かを諦めたようだった。

 水色のメモリースティックを指すと、「これは、フジで研究されていた『瘴気』に関するデータです」と言った。きょとんとした俺から視線を逃がすようにして部屋の隅、何もない場所を眺めながら、幸人は口を開く。


「僕ら櫛名田家がファスィリティ・フジに受け入れてもらえたのは、お金の力じゃありません。両親が科学者で、科学の視点から瘴気について研究していたからなんです。

 僕も将来は両親のことを手伝うつもりで、研究についてこっそり教えてもらっていたので、データは間違いなく本物です。…コピーするのは忍びなかったんですが、保険としては必要だと思ったので、こうして手元に残していました。

 エリュシオンは空中都市であるゆえに、瘴気と距離を取ることで現実から逃げていますよね。瘴気に関する研究はあまり進んでいないのではありませんか? なら、データは多い方がいいはずです。こちらのメモリースティックならこの都市にとっても捨てがたいデータとなる」

「な、なるほど……」

「そこで先生にお願いがあるんです。

 僕からの交渉では、上の人間まで届かず、現場だけでこのスティックを処理されてしまう可能性が高い。なので、先生に交渉を手伝ってもらいたいんです。…これは、フジから僕らを救い出したあなたへのお願いと、救ったものの面倒を見てくれ、という義務の提示でもあります。

 ……僕らは、まだ、子供なので。この都市の環境で生きていくには、大人の手が、必要です」


 最後の方はぼそぼそと小さな声だった。

 よくそこまで考えていたなぁと幸人の先読みの思考に感心すると同時に、手を伸ばして、黒髪の頭をぽんと叩いた。

 たいていのことができる人間にとって、人に物を頼むっていうのは、自分のプライドをへし折るものすごい勇気のいることだと聞いたことがある。頭のいい幸人は頭がいいとは言えない俺にプライドをへし折ってまで頼み事をしている。

 彼らにとって俺は大人で、そして、富士へ救助活動に行こうと言い出したのも俺だ。俺には確かに彼らの面倒を見る義務ってやつがあるのだ。


「わかった。さっそく連絡を取ってみるよ」

「……ありがとう。ございます」


 ぺこり、と頭を下げた幸人の表情は見えなかったけど、声は少し、安堵で緩んでいるような気がした。



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