2.


 心さえなかったら楽だったんだろう。動物的な本能だけを頼りに、食物連鎖以上のことを考える思考などなく、心などなく生きる動物のようだったなら、きっと生きることはもっと潔く楽だったはずだ。

 ライオンを見たらパッと逃げ出す。水辺を見つけたらワニに注意しながらも飲水を求めてそっと近づく。チーターからは逃げ切ることだけを考え全力で走る。すべての生き物がサバンナに生きるそんな動物の一つになれたなら。

 最近ふとそんなことを考え、意味のないことだな、と我ながらその思考に呆れる。

 このサバンナ像は十年以上前に存在していた世界の姿だ。今あの大自然はどうなっているかといえば、瘴気しょうきにやられた動物の死骸が転がり、腐って地面に溶け出し、瘴気の霧と骨が転がるだけの死の大地だろう。木々は枯れ果て、水も毒され、この十年で生きていた動植物は死滅したはずだ。

 心がなかったら世界には何も間違いなど起こらなかったし、星の毒と言われるこの瘴気にも、抵抗する術なく素直に殺されていただろう。

 心があったから。

 思考があったから。

 その背には、ドラゴンのように空を飛べる翼がなかったから。

 人は自らを脅かす存在に恐怖し、瘴気それから逃げる術を考え、限られた数しか生き延びることのできない場所へ行こうと戦争が起こり、争いが勃発し、ただでさえ貴重な資源をすり減らし、すり減らして、人間は命に価値をつけて、一握りの同胞だけを選び、あとを捨てることにした…。

 、と思いながら、オレはかいりから離れた。「青玄せいげんいてな」とガスマスクを外したかいりに小さな声で言われたからだ。

 言葉にしなくたって思うだけでオレには伝わるけど、かいりはオレを一人前の存在として扱う。嬉しいことだ。

 青玄には何か言いたそうな苦い顔をされたが、邪魔するよーと断りつつうなじ辺りから侵入して小さなセイと同化する。

 日本の富士の施設から戻ったオレ達を待ち受けていたのは、大げさなマスク、大げさなゴーグルをつけた白衣の集団だ。

 救出してきた双子の姉弟はまず『身体に異常がないかどうか』をチェックされるらしい。かいりは心配だから二人に同行するそうだ。

 確かに、間に入れる人間が同行した方がいいだろう。この都市の人間は地上に残ったものを汚物だと思っている節がある。あのゴーグルやマスクがその証拠だ。身体検査と称され何をされるかもわかったものじゃない。

 おうは相変わらずエリュシオンの頭上でとぐろを巻き、向かってくる火山灰を跳ね返すために風を吹かせている。

 ゆっくりしか動けないこのエリュシオンが火山灰の影響範囲から抜け出すまで最低半日はかかるらしいから、風を吹かせ続けるのも、長い作業になるだろう。

 …あのドラゴンも物好きだな。下から應を見上げながらそんなことを思う。

 セイは苦い顔をしていたが、コウがろいろの尻尾を掴んでさっさと歩き出したのを見ると慌ててあとについていく。ろいろはかいりから離れたくないようだったが、問答無用だな。

 白衣の集団はオレ達の行動を目で追うだけで何も言わない。

 オレが少し手を伸ばして触れるだけで、大げさなマスクとゴーグルをつけた白衣の人間の胸の内を知ることができる。が、かいりに指示されたわけでもなし、好き好んで醜い心を覗く趣味もないからやめておいた。


「コウ、はなしがある」

「何よ」

「フジでのことだ。きづいたことがあるんだ」


 風に負けじと声を張り上げるセイの、思っていることが伝わってきた。かいりの視点からでは見えなかった富士での出来事。セイが見た『八岐大蛇ヤマタノオロチノ塚』『救えなかった八人』…。

 コウはいかにも面倒だという顔を作った。セイとの会話が面倒なのか、尻尾を掴まれたままなんとか抜け出そうともがいているろいろが面倒なのか。

 コウや應は力のあるドラゴンらしくオレをから、その心はよくわからないが、コウは基本的に好きなことをするために人間の中で生活している。應のように好んで人に手を貸すドラゴンではない。誇り高いドラゴンらしいといえばそのとおりの存在。


「それはあたしに言うこと? 應でもいいでしょう」

「はやいほうがいいとおもう。おうにもあとでつたえにいく。ドラゴンのいけんをききたい」

「…部屋に戻ってからにしましょ。ここはうるさいから」


 セイが食い下がることに諦めたのか、呆れたのか、コウはそうぼやいて面倒くさそうに歩いていく。

 やがて歩くことも面倒だと感じたのか、ふいにセイの頭を掴むと、そのまま瞬間移動した。瞬きの間にオレの視界は見慣れたあの部屋に戻っている。

 コウがろいろをポイッとベッドに放り出し、セイの頭から手を離す。その瞬間移動にセイは目を白黒させたあとにブンブン頭を振った。共有しているオレの視界もブンブン揺れる。

 しかし、部屋に戻ってきたのなら都合がいい。短い間だったが世話になったなセイ。

 ふわっと浮かび上がるようにしてセイから剥がれると、ソファでくったりしているマネキンのような人形に宿る。最後に支配したのがエディだからか、オレはたいていエディの姿を取る。

 むくりと自分の意志で起き上がって伸びをする。

 自分のからだというものができてから、オレはこっちの方が自由で好きだ。窮屈じゃない、というのかな。

 ガチャン、と自分の作業机前のオフィスチェアに腰かけたコウが不機嫌顔でタブレットを手に取った。「で?」ついさっきまで火山灰の降りしきる富士に行っていたとは思えない、普段通りの声に、普段通りに不機嫌そうな顔で問われ、突然の瞬間移動から思考が復帰したらしいセイがきょろりと辺りを見回した。かいりの端末を見つけると手に取り、『ヤマタノオロチ』と入力し検索する。

 ヒット数は膨大だ。有名な古事記や日本書紀の記述から、過去の人間の娯楽であったゲームというデータ上のヤマタノオロチまでさまざまな記事が表示される。セイはそのうちの古事記や日本書紀の記述を表示させると端末をコウへと突き出した。


「あのフジのしせつには『ヤマタノオロチノツカ』ってきざまれたいしがあった」


 その言葉に端末を一瞥していたコウの眉間に皺が寄った。「塚?」「ああ。ヤマタノオロチってじつざいしたのか?」「さぁ。あたしはそういうの詳しくはないから、應に聞いた方がいいわね。…それにしても塚、か」コウが面倒くさそうな顔で机に頬杖をつく。


「それで?」

「たぶんだけど、あのフジのしせつは、そのつかをドラゴンよけのまじないにしてたんじゃないか。

 エリュシオンはドラゴンにまもられてるけど、ほかはそうじゃない。ドラゴンにおそわれるきけんがつきものだ。なにかしら、まじないていどでも、やらないよりはマシだってたいさくしててもおかしくはないだろ」

「そうね」

「ヤマタノオロチがじつざいしていた、とかていする。

 フジのしせつは、かこのつよいドラゴンのつかをじぶんたちがくらすばしょまでもってきたんだ。それをまつってドラゴンよけにした。

 にほんはドラゴンについてけんきゅうしてたくになんだろ。ミドリがそういってた。ろいろも、にほんのしせつでせいたいかいぞうされたこたい、だろ。ほかのくによりドラゴンについてしってて、そういうことをほんきでしてても、ふしぎじゃない。

 ヤマタノオロチってきざんであるいしはふたつにわれてた。ふしぜんなくらいきれいにわれてたから、らくせきのせい、とかじゃないとおもう。

 つかだったいしがわれて、ふじがふんかして、マグマがうごいた。ぜんぶあわせたら、ヤマタノオロチがふっかつしたのかもとか、おもわないか」


 なんとか部屋から出られないものかとろいろが扉の辺りをウロウロしている。自分の名が出てきてぴょこんと反応したが、コウもセイもろいろの方を見ないでいると、また扉の辺りをウロウロし始めた。かいりのもとへ行きたいんだろう。ろいろの中にはそれしかないからな。

 仕方ないので立ち上がってろいろを抱き上げる。今真面目な話の最中だから、いい子にしてような。

 しかし、ろいろは見た目のわりに案外と重いな。ろいろは中身がほぼ機械らしいから、そのせいだろうけど。

 ろいろを扉から離してぼふっとベッドに座る。

 八岐大蛇。

 聞いたことはある。大昔に存在したドラゴンのような怪物…くらいしかわからないが、八つの頭に八つの尾、しかし体は一つ、という噂だったかな。

 一度世界に現れて以降、その後八岐大蛇のような怪物は生まれていない……。と、思うけど、オレはオレが生きるために人に取り憑いたりドラゴンに取り憑いたりと忙しかったから、耳に入ってないだけで、そういう怪物のようなものが生まれていた可能性はある。

 それに、とぼやいたセイは端末の記事を睨みつけた。「ヤマタノオロチがくらおうとしたって女は、クシナダ、っていう。たすけたふたりも、クシナダ、だ。ぐうぜんとはおもえない」「ふーん。なるほどね」コウはいかにも面倒くさそうにぼやいた。面倒くさい、と言いたげに燃えるような赤い色をしている長髪を手で払う。


「もしそうなら、このままで終わるとは思えない。あんたはそう言いたいわけ」

「そうだ」

「仮にが何かしてくるとして、もう富士での手は使えないわ。エリュシオンは今海の上にある。軌道調節で少しずつ動いてるけど、日本にはしばらく近づかないでしょうよ」

「…それであんぜんっていえるか? あいてはたいこのドラゴンだぞ」


 セイが顔を顰めるが、コウはこの話に興味をなくしたのかひらひらと手を振って自分の同人活動のためのタブレットに視線を落とした。

 これ以上コウに話しても意味がないと思ったのか、セイはムスッとした顔で「おうにはなしにいく」と言って部屋を出て行く。瞬間、ろいろが外に飛んでいきそうになったので全力でぶら下がって止めた。「ダメです! かいりに怒られるよ!」オレの体はあくまで人形なのでろいろよりもずっと軽い。全力でろいろにしがみついて、扉が閉まるまでの間ろいろが外に飛んでいこうとするのを阻止した。

 扉が閉まると、ろいろは諦めたようにベッドに転がった。

 よし、勝った。いや何か違うけど。そんなオレとろいろをコウが半眼で見ている。


「あんたはどう思った」

「八岐大蛇説?」

「そう」

「セイに憑いてるときに映像を見たけど、確かに『八岐大蛇ノ塚』って書いてあった石だったよ。セイが言ってることもまともだと思う。

 ただ、八岐大蛇が実在したのか否かって言われると…」


 肩を竦めたオレから視線を外すと、コウはペンタブを握ってタブレット相手に漫画の続きを描き始める。…誇り高い自由人だなぁ。いや、ドラゴン、か。

 言われるままに離れたけど、かいりの方は大丈夫だろうか。八岐大蛇なんてたいそうな名前が出てきたせいか、もやもやするなぁ。



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