徒花はニルヴァーナの宇宙へと、

1.


 ふと気がついたとき。眠る前。ご飯を食べているとき。シャワーを浴びているとき。そんなふとした瞬間に、誰かに呼ばれたような気がして我に返っても、そこには誰もいない。最近、そんなことが増えた。

 そのことを相談したら、弟の幸人ゆきとには姉さんしっかりしなよと無表情に、でも心配そうな声音で言われたっけ。


 クシナダ


 呼ばれた、と思って、わたしは顔を上げた。

 壁も天井も床もすべてがコンクリート色。配管などがむき出しになっている教室は殺風景で、花の一つも飾られていない。

 今は授業中。先生は黙々と黒板に必要なことを書き出している最中で、わたしたち生徒は黙々とその板書をノートにメモしている時間だった。

 誰も、わたしのことを呼んでなんてない。…また、気のせい、かぁ。

 一人肩を竦めたわたしは、みんなと同じようにノートに板書を書き写す作業へと戻る。

 今は大切な授業中だ。集中しないと、また幸人に迷惑をかけてしまう。

 わたしは一度見聞きしただけで物事を暗記できる弟とは違い、何度やっても凡ミスを繰り返したりする、出来の悪い姉なのだ。せめて授業だけはしっかり、真摯に、取り組まないと。

 今度からわたしたちが世話をすることになる『養殖みずち』。食べるためのドラゴンを問題なく健康に育てるための注意事項や、蛟の健康管理でチェックすべき点など、様々な項目が黒板にみっちりと書き出された。この先生はまず黒板に書き出してから説明を始める先生なのだ。性格、というやつだろう。

 カッ、とチョークで黒板を叩きながら、つるりとした頭の先生が大きな声で説明を始める。


「いいか? 蛟は水辺を好み、そこに生息するドラゴンの一種だ。だが、知能は低く、ドラゴンというより鳥並だと言っていい。きちんと世話をしていればお前たちでも問題なく管理できるはずだ」

「はい!」


 何人もの生徒が先生の大きな声に負けないように返事をする。そうしないとこの先生は『やる気があるのかお前ら!』とさらに大きな声で怒鳴ると知っているからだ。わたしも怒鳴られるのはいやだから、他の生徒に負けじと大きな声で「はい!」と返事をする。

 先生はわたしたちの大きな返事に満足したように一つ頷く。

 蛍光灯に照らされてつるりとした頭が光ったけど、誰も笑わない。そんなことをすればどうなるか、わたしたちは身をもって知っている。


「蛟は尾を切り落としても三日ほどで再生する。ドラゴンは生まれ持った生命力が高い。この養殖はその再生能力を利用したものだ。

 普段お前たちが口にしているのは蛟の尾の部分だ。足はたまに焼串として出たりするだろうが、あれは規定数に達した蛟を特別に調理したものだ。お前たちがしっかりと蛟の世話を続ければ、またあの串が食える日が来るだろう」

「はい!」


 焼串、と言われて、この授業が始まった最初の日を思い出した。

 焼き鳥みたいで、でも明らかに違う、こんがりしたお肉を食べた。昔々、世界が瘴気しょうきに染まってしまう前、屋台で食べた焼き鳥みたいな味がした串。蛟の世話をきちんとしていれば、またあの串が食べられる。

 ……蛟の養殖。

 先生が、大人が判断した。それが一番コスパのいい方法だ、と。牛や豚や鶏を食用とするより、蛟を食用とした方がいい、と。わたしはその現実に対して何も言葉を持ち合わせていない。

 教室を出ると、正面は廊下の果てまで強化ガラス。その向こうに広々とした空間があり、人の顔くらいの大きさのトカゲみたいな生き物がたくさんいる。それが蛟だ。

 わたしたちは来週から養殖蛟のお世話をする。

 普段から口にしている唯一のお肉、それが蛟。

 鶏だって、豚だって、牛だって、食用になる前はこうして生きていた。蛟もそう。生きている。

 ガラスの向こうで何も知らず水の中を泳いでいる蛟を見ると、わたしはなんとも言えない気持ちになってくる。

 これが現実。これが、わたしの現実。

 日々を生きるため、わたしたち子供も、できることを精一杯するしかない。それが日本の、このフジの現実だ。

 ここには、夢とか希望とか、そんな優しいものは存在しない。

 瘴気に囲まれ孤立したフジの、四苦八苦しながらどうにか食いつないでいるわたしたちの、仄暗い現実があるだけ。



 わたしと、双子の弟幸人、そしてわたしの両親は、富士山の六合目辺りの高さに建設された日本の施設に住んでいる。

 ドラゴン避けのお守りとして『八岐大蛇ヤマタノオロチノ塚』をまつり、瘴気からなんとか逃れた人々が暮らすこの場所の名前は通称『ファスィリティ・フジ』だ。ファスィリティは英語でFacilityと書いて、施設、設備、機関などを意味する言葉らしい。捻りも何もないけれど、海外から見てもわかりやすさはダントツな名前だ。

 フジ、とつけるのは、このフジの他にも施設があるから。

 たとえば、山梨にある北岳きただけに造られた施設『ファスィリティ・キタ』や飛騨山脈にある小さな施設『ファスィリティ・ヒダ』……空中都市エリュシオンに行くことのできなかった人々は、瘴気が空気より重く足元から溜まることに着目し、ならばとより高い場所に人が住まう場所を造り上げた。それが今わたしの暮らすフジであり、他のファスィリティができた理由だ。

 エリュシオンには選ばれた一億の人間しか行くことができなかった。

 わたしたちは、選ばれることのなかった人間。生き残る人間として相応しくないとされ、瘴気に侵され続ける地上に取り残された人類の、その生き残り。

 きっと世界中でこのファスィリティのような場所ができて、人々はそこに逃げ込んで、なんとか生きているんだろう。

 わたしはもうぼんやりとしかおぼえていないから、地上で普通に暮らしていた頃を懐かしいとは思わないけど。でも、だからって、この暮らしを良いと肯定することもできそうにない…。

 食べる物も、飲む物も、一日に制限があって、それ以上はお金を払わなくてはならない。毎日決められた時間に消灯されて、決められたスケジュールをこなすように生きて。それは大人も子供も変わらなくて。これからもこうやって生きていかなきゃならないのかと思うと、わたしは、とてもくらい感情に襲われる。そのせいでときどき、灯りの落ちた部屋で一人で泣いてしまう。

 誰か助けて、なんて言っても、誰も助けてくれるはずないのに。


 クシナダ


 呼ばれて、ぱっと顔を上げて振り返る。

 コンクリート色のいつもの通路。白い明かりが無機質に光を投げるだけの、窓もない通路。難しい顔をした大人が早足に歩き、明るいとは言えない表情の子供が何人か通り過ぎていく、いつもの通路。「どうしかしたの、姉さん」横から幸人がわたしの視界に入ってくる。無表情だけど整っている弟の顔に緩く頭を振って「なんでもない」と返して、歩き出す。そんなわたしの顔も、きっと明るくはない。

 わたしは、何かに呼ばれている。…ずっと、そんな気がしている。




✜  ✜  ✜  ✜  ✜




 僕には双子の姉がいる。

 二人一緒に母の腹から出ることはできないから、先に出ていたのが姉で、そのあとすぐ出ていったのが僕。世界に触れた時間が姉の方がほんの少し早いというだけで、僕は『弟』で、彼女は『姉』だ。そのことを今も不満に思っている。


「…姉さん? どうかしたの」


 姉のいのりは最近ぼんやりしていることが多い。僕が呼んでも気付かなかったり、何もない場所で突然振り返ったりする。今もそうだ。家族で夕食中突然後ろを振り返った姉は、僕の言葉に笑って「なんでもない」と言うけど、そばで見ている身としてはその言葉を素直に受け取れない。

 疲れているのかも、と言葉巧みに祈を誘導して何度か医師のもとへ連れて行ったけど、とくに病名もつかないし、疲労状態というわけでもなかったのもまた腑に落ちない。

 父と母も祈の体調を気遣う。「大丈夫? 今日は早く寝なさい」「無理はいけないよ、祈」二人に声をかけられて祈は困ったように笑って「はーい」と返した。僕はそんな祈を横目で気にしつつ、今日も蛟の肉が入ったスープを飲み干した。「ごちそうさま」一番に席を立って空になった器をキッチンのシンクに積んで、また席に戻る。

 暇潰しに参考書を取り出して広げると、隣の祈が眉間に皺を寄せてみせる。「それ、わかるの…?」僕が取り出したのは上級者向けの量子力学に関する本だ。「まぁまぁかな。面白いよ、わりと」そう返すと祈はさらに眉間に皺を寄せてみせる。彼女はこういったことがまったくわからないらしい。

 家族四人が食事を終えた頃を見計らい、参考書を閉じる。

 放っておけば洗い物もしようとする母を止めるためには、僕が代わりをするのが早い。


「いいよ母さん。僕がやるから」

「あら、いいの幸人」

「いいよ。ご飯作ってくれてるんだから、片付けくらいは僕がする。朝は姉さんがしてるだろ」

「悪いわね。助かるわ」


 そう言って笑う母の目元には疲れからきているクマが目立つ。

 父も母も仕事で頭を使い疲れている。早くシャワーを浴びて休んでもらった方がいい。明日も体調よく仕事をしてもらわないと、困るのは僕らだし。

 僕ら櫛名田くしなだ家の家、というか割り当てられた部屋は、リビング兼ダイニングと六畳一間ほどの部屋が二つある空間だ。

 年頃なんだから、と姉と僕の部屋は分けられていたけど、仕事をしている両親がゆっくり休めないのもどうかと思い、僕は普段リビング兼ダイニングで生活している。それがとくに不自由とも思わない。ソファで眠ることにも慣れた。

 そのうち、寝起きするソファをもう少しいいものに買い替えてもらいたいなとは思うけど、僕の身長が伸びるまではこのソファで我慢するつもりだ。

 暇潰しの参考書は章終わりで切り上げ、テーブルに置いた。時間も、もう少しで消灯の二十二時だ。ちょうどいい。

 ソファの隅にたたんである布団を広げて眠る準備をしているうちにふっと照明が消えた。消灯時間になったようだ。

 急に暗闇に沈んだ部屋でソファに横になり、布団を被って、目を閉じる。

 …フジでの日常は仄暗く、明るい未来の見えない逃走のようでいて、この山にこれ以上の逃げ場などなく、僕らは食糧問題を抱えながら瘴気から距離を取ることでどうにかやっていっている。それはおそらくエリュシオンと呼ばれるあの空中都市に行ったところで同じだ。

 ここにいる人間は『エリュシオンにさえ行ければ』と口にするけど、あの都市に行ったところで、瘴気から完全に逃げられるわけでもないし、ドラゴンの脅威がなくなるわけじゃないだろうと僕は思っている。隣の芝生は青く見えるというやつだ。

 そりゃあ、あの都市に行けばここよりマシな暮らしはできるかもしれない。空というきれいな空気を吸うこともできるかもしれない。そのかわり、大地の地面の感触とは永遠にさよならで、エリュシオンを浮かばせている心臓が機能停止にでもなれば、あの都市は一億の人間を乗せたまま墜落して、人類は滅亡するだろう。

 究極な話、瘴気がなくならない限り、ドラゴンと和解でもできない限り、人間が安心して暮らせる日なんて来ない。

 そんな簡単なことに気付かないほど人間は馬鹿じゃなかったはずだと思いたいけど、滅亡の文字が眼前まで迫った今、人類は焦っている。空へ逃げたり、山へ逃げたりして、瘴気とは何か、その毒を取り去るにはどうしたらいいか、と冷静に考えることを見失っている。毎日がいっぱいいっぱいで、それをこなすだけで疲れて、余力が残っていない。

 僕の両親は瘴気の研究機関に携わっているけど、成果らしい成果は出ないし、毎日疲れているように見える。


(あるいは、ここで滅びることが、人類の定めなのかも…)


 それまで生態系を支配していた恐竜が隕石の衝突をさかいに滅びたように、人間も、そういうプロセスに向かっているのかもしれない。

 ある系統の『絶滅』とは生物の進化において普遍的なプロセスだ。これまではたまたま人類が絶滅しずに生き残ってきただけで、今後この世界で生き残るのはドラゴンかもしれないし、もっと違う何かかもしれない。

 広い視野を持てばこの現実をそんなふうに受け止めることもできる。そういう人間はとても少ないと、知ってはいるけれど。



 僕は冷たい人間だとよく言われる。物事をいつも客観的に捉えるし、ときにはそれが過ぎて、冷たい、と言われることがある。自分でも自覚はしているけど、僕はある一つの事柄以外にはとくに執着しない人間らしい。

 では、僕が執着するものは何か、といえば、それは、姉である祈のことだ。

 祈が関係することになると、僕の胸はとたんに熱くなるし、諦めが悪くなる。どんなに合理的な答えでも、それで祈が泣くのなら、僕はその答えを覆したい。


「何してるの、姉さん」

「、」


 そのときもそうだった。

 夜、灯りの落ちた廊下をそろりそろりと歩く祈の後を追った僕は、当然、彼女を呼び止めた。祈は驚いたように僕を振り返り、バツが悪そうに視線を逸らす。

 リビング兼ダイニングで寝ている僕が、祈が部屋を出入りする音で起きないはずがない。その辺りが天然な祈は、僕の頬を軽く叩いたりつねったりしただけで『僕が寝ている』と思い込み、外へと抜け出したのだ。

 そんな祈が、馬鹿で、そして、かわいいな、と思う。

 僕のことを信頼してくれているのは嬉しい。そういう弟でいられるようにと振る舞ってきた。だけど僕は、決して、


「戻ろう。見回りの人に見つかりでもしたら大目玉だ」

「…どうしても、行きたい場所があるの」

「……行ったら、気がすむ?」

「うん」


 祈がまっすぐ僕を見て頷くので、彼女の頼みには弱い僕は、我ながら甘いな、と思いつつそのわがままに付き合った。

 結果的に、

 祈は、塚でしかなかった八岐大蛇を

 そうでなければ説明できない。彼女が手を伸ばし指先を触れさせた、それだけであの石が割れ、立っていられないほどの地鳴りがし、富士は噴火。僕は状況の変化についていけず呆然とする祈の手を引っぱってシェルターに逃げ込むのが手いっぱい。両親がどうなったとか、周りの状況とかは見えていなかった。祈を生かすことが、そのそばに僕がいることが、僕がすべき第一のことだったから。

 落石か何かでシェルターの扉の開閉ができなくなり、閉じられた場所で、祈と一緒に死ぬのだろうと、そう思っていた。そして、それも悪くないとも思っていた。縋るように僕の手を握る祈には僕しかいないのだと思うと優越感さえ感じた。そして、そんな自分に吐き気もした。


(…空を飛んでるのか…。飛行機でもなく、己の翼でもなく、ドラゴンに拾われて……)


 今、空の中にいる僕の肌に触れる風はとても冷たい。真冬の中に突然放り出されて酷い突風の中にいるようにからだは冷たい。

 僕と祈は。僕と祈だけは、生き残った。あの富士の惨状から、なんの因果かドラゴンに助けられて。

 エリュシオンからやって来たというドラゴン二体と、ガスマスクをした人間の男が一人。青いドラゴンに僕と祈はそれぞれ掴まれて、為す術もなく海や空を見ながら飛んでいる。

 祈は、僕が想像していたより、この状況に戸惑ってはいなかった。純粋にドラゴンに興味があるのか、赤と青のドラゴンによく視線をやっている。

 僕らに葉山はやまかいりと名乗った男はよく話しかけてきた。それで祈の緊張は徐々に解れたのだろう。

 やがて見えてきた、空中に浮かぶ丸い都市。あれが、


(あれが、エリュシオン)


 多くの人間を見捨て、空へと逃げた、臆病者が住まう場所。



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