7.


 ワタシには、頭は八つ。

 正確には、ワタシが共有している一つのからだ、それに、頭が八つついている。

 頭にはそれぞれ意思があり、意志があり、目指していることも思っていることも違っていた。

 ワタシには、尾も八つ。

 これも、正確には、共有している体に尾が八つある。太く長く大きく。それぞれ川の中に埋もれていたり谷間に横たわっていたりしていた。

 しかし、頭と尾がどれだけ多かろうと、体はたった一つ。

 それが悲劇であったのか、喜劇であったのか、今となっては分からない。

 ワタシは、八つの頭のうちの一つとして生まれた。

 生まれた、という言い方は正しくないのかもしれない。

 気付いたときからワタシは存在し、しかし体は自由に動かず、長い首から先だけがワタシが自由にできる部位。尾のうちのどれか一つも動いたが、うっかり隣の尾の持ち主とぶつかろうものなら大地が震動し、また尾の持ち主と激しい争いが起こると何度目かの失敗で学んだので、それ以降、ワタシは己の尾を動かすことは諦めた。



 ワタシの首は、川に横たわり、ワタシの頭は、泉に沈んでいた。長いこと、ずっと、そうだった。

 息をするために泉から鼻を出すことはあれど、顔を出す必要性も感じず、ワタシはひっそりと息を重ね、たまに、腹が減ったと思えば泉にいる魚ややってきた鳥を丸呑みにした。

 ワタシの体には八つの頭があり、ワタシ以外に七つのワタシがいたはずだが、ワタシたちに交流はない。

 ワタシたちはあまりに大きかったので、それぞれがバラバラな場所でバラバラな景色を見ていた。また、ワタシたちの意思が一つのものに向かって重なることもなかったので、ワタシたちはいつまでたってもバラバラなままであった。

 つまるところ、ワタシは、孤独であった。

 一日はまどろんでいるうちに過ぎていく。

 朝は、水面の向こうからゆらゆらと視界を射す陽の光で目覚める。時間がたつにつれ光の射し込みぐあいの変わる水面を見るともなく眺めていると、たまに鳥が通りすぎ、ワタシが生き物であることを知らない魚が目の前を泳いでいく。

 そのうち陽が暮れ、一日のうちで何番目かに美しい短い時間、夕暮れが訪れ、水面がだいだいに燃ゆる。

 空が燃え上がり、その火が消えると、世界は暗闇に染まる。

 水面の向こうで揺れる月は美しい。とくに、丸い形で揺れる月を見ていると、つい水面から顔を出したくなる。

 ワタシがクシナダという美しい女と出会ったのは、そんな満月の夜のことだった。

 彼女は泉のふちで水浴びをしていた。

 長くしなやかな髪。月夜に白く浮かび上がる肢体。指先一つからの洗礼されたような所作。すべてに目がいった。

 彼女はワタシのことを岩か何かだと思っていたようだったが、ワタシが二つの瞳でじっと見ていることに気がつくと、驚いたように目を丸くした。だが、悲鳴は上げなかった。…ワタシにはそれが少し、嬉しかった。

 ワタシの目は鬼灯のように赤かったので、暗闇の中で見るワタシというのは、さぞ恐ろしいものだったに違いない。だが、彼女はワタシのことを怖がらなかった。照れたように笑ってからさっと衣を羽織ると、ワタシに向けて手を差し伸べてくれた。



 ワタシは、彼女と話をしたくて、彼女と同じ、ニンゲン、という生物の姿を取るようになった。

 うまい表現ができないのだが、ワタシには首を伸ばすのと同じ要領でそのようなこともできた。

 ニンゲン、の姿をし、彼女が話す言葉を聞き、仕草を見、真似たり、練習したり、ときには教えてもらったりして、ワタシの人間語と人間味は少しずつマシなものになっていった。

 クシナダ、と呼ばれている彼女のことを、ワタシも、クシナダ、と呼んだ。

 ワタシの名を尋ねられたが、ワタシには、名乗るような名などない。ひっそりと泉の底で暮らすワタシには通り名などもない。ワタシは必要最低限のことだけして生きてきた。悪名名高いこともなく、しかしその逆でもない、ワタシは名無しであった。

 クシナダは、自分が自分たるには名が必要だと語った。あなたはあなたなのだから、とワタシにいた。

 ワタシが一つの体を共有する八つの頭のうちの一つであることを語っても、彼女の考えは変わらなかった。それでもあなたはあなた、と私の手を握ってくれた。

 ワタシは、ワタシを肯定してくれる彼女が嬉しくて、加減を間違えれば壊してしまうだろう細い手を慎重に握り返した。

 ワタシとクシナダは誰にも知られることもなく、ひっそりと逢瀬を重ねた。

 人のいない山の中で、その泉のふちで、彼女が現れればワタシは泉から出て彼女のそばへ行った。そして取り留めのない話をしたりした。

 それらの時間は、どうしようもなく孤独であったワタシを少しずつ、少しずつ、癒していった。

 ワタシはクシナダという存在にワタシを見出すようになり、彼女のために息をするようになった。それが間違っているとは思えなかった。ワタシはようやく、他の七つのワタシたちに追いついた。

 ワタシも好きに生きたいと思った。他のワタシと同じように、身勝手に、貪欲に、生きたいと思った。彼女とともに生きたいと思った。

 だが、それはきっといけないことなのだ、とどこかで分かっていた。

 ワタシは、人ではない。人の形をしてそのようなものを自分とすることはできるが、それはワタシであってワタシではない。ワタシはあくまで一つの体にある八つの意識のうちの一つにしか過ぎず、それ以上には決してなれず、家へと帰っていく彼女の姿を追いたくとも、人の姿をしたワタシは泉のふちから離れることなどできなかった。



 クシナダには、彼女のことを心配する両親、という存在がいて、生き物の親がいて、その二人には『泉で水浴びをしてくる』と言ってワタシのもとへ来ているらしい…。のだが、どうも最近、それも難しくなってきた、と彼女は難しい顔をしてワタシに語った。

 つまりどういうことなのか、というと、彼女は両親に、ここへは行かないように、と言われているらしいのだ。

 ワタシのもとへ行かないように。会いに行かないように。

 彼女はワタシという存在をひた隠しにしているようだが、それでもここに通いつめているという現実で、怪しまれてしまうものらしい。

 それに困ったなぁという顔をしているクシナダ自身は、ワタシのもとへ来たいのだと言ってくれた。だが、過保護、だという両親のことも気になる、と。大事な一人娘、と過保護なあまり、行き過ぎた行動をしやしないか心配だ、と。

 ワタシにはいないその両親という存在はよく分からなかったが、クシナダとワタシの時間を引き裂くものはなんであろうと許せる気がしなかった。

 ワタシは、今まで静かに凪いでいた心が突然ざわついて凶暴な風が渦巻き始めたことに気付き、困惑した。

 おそらくこの風を解き放てば、ワタシの心はまた静かになるのだろうが、この風の刃が向かう先はクシナダの両親だ。刃が両親を切り刻めば、優しいクシナダはきっと悲しむだろう。だからワタシはこの風をしずめなくてはならない。

 そんなふうにして、クシナダがワタシのもとを訪れる回数が少しずつ減っていき、寂しさと孤独を抱えたワタシは、人の姿でぼんやりと泉に佇むことが多くなった。

 クシナダとの時間が減ったことはとてもとても悲しく、寂しく、孤独だったが、彼女を困らせたくはなかった。

 ワタシにはクシナダしかいなかった。

 だが、クシナダにはそうではないということは、薄く、理解していた。

 だから彼女は、ワタシ以外にも時間を割かなくてはならないのだ。ワタシは自分にそう言い聞かせ、孤独な時間を過ごした。



 そして、クシナダが次にワタシのもとを訪れたその日が、ワタシの最期となった。

 行き過ぎた、と彼女が表現したその両親が、男を雇い、ワタシを殺させた。

 クシナダとの久しぶりの逢瀬で心がいっぱいだったワタシのその心を、左胸を正確に鋭い剣先で貫き、泉に沈んでいたワタシに悲鳴を上げさせた。

 ワタシはそのとき人の姿のワタシに全神経を集中させてクシナダとの逢瀬を味わっていたので、剣の一撃は、想像を絶する痛みであった。

 ……クシナダが涙を流しながら、倒れた人のワタシに縋りつく様子が、ぼんやりと見えていた。

 男は容赦なくワタシの首を切った。太く、剣の一振りでは断ち切れるはずのないワタシの首には、何度も、何度も、刃が振り下ろされ、ワタシはその度に悲鳴を上げたが、暴れることはできなかった。なぜなら、泉のふちにはクシナダがいる。彼女が怪我をすることはワタシの本意ではない。彼女には、美しいままで、いてほしい。

 そうして、ワタシはほとんど抵抗することなく一方的に切り刻まれ、殺された。

 のちに、大きなツボに肉片や骨を詰められ地中深くに埋められて、それでも生きていたワタシの意識は、地上で泣いているクシナダに涙を流した。

 彼女は、ワタシを殺した男と一緒になった。それは男の願いだった。『竜にたぶらかされていた娘を救った』と、両親は男の求婚を歓迎したが、彼女は、ただ、ワタシの死を悲しんだ。

 ごめんね、と彼女は泣いた。ワタシが埋まっている地中深くの、その地面を撫でながら、ごめんねホオズキ、と泣いた。

 ホオズキ、とは、彼女がワタシにつけた名前だ。

 泣かないで、とワタシは思うが、ワタシはもう言葉を発することもできず、この意思を伝えることもできはしない。

 のちに、ワタシ以外の七つの頭も退治され、ヤマタノオロチ、と呼ばれた怪物はこの世から消えた。それが八つの頭と八つの尾を持ち、体は一つだけだったワタシたちの最期だ。



 だが、ワタシは、クシナダを求めるワタシ、ホオズキの意識は、まだ、生きていた。

 時が経ち。クシナダが老いて死に。最期まで悲しそうだったその顔を見ながら、ワタシも眠った。これでクシナダと一緒にいられるようになるかもしれないと思った。

 だが、ワタシはまた目覚めた。

 目覚めた世界はワタシの知らないものとなっていたが、一つだけ、知っているものがあった。

 だ。

 クシナダが、生きている。

 彼女はあの頃と変わらない美しい髪と美しい肢体で、ワタシの意識の中に立っていた。ワタシに、手を、差し伸べていた。


(ワタシは)


 ワタシは、

 その手を、

 どうしても、

 握りたい。


(今度は、誰にも、渡さない)


 ワタシを縛っていた、ワタシを封印していたツボは、当の昔に崩れてなくなっている。ワタシは自由だ。ワタシの意識はどこへでもいける。そう、クシナダのもとへも、行ける。

 地面と同化していたワタシは、ありったけの力を込めて、自分、を想像した。

 ワタシはワタシがよく知っているワタシになった。長く太い首、そして頭。人であった自分が想像できなかったワタシは、恐れられたその姿で、彼女を求め、遥かな時間ときを越えて現世へと舞い戻った。



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