5.


 風を切る。全身で、人の身には凍えるほどの寒さであろう、あたしには心地よい冷たさの風を浴びる。

 随分と久しぶりに空を飛んでいる気がする。

 バサリ、と自分の翼が風を掴み飛翔する音を聞きながら、天気の良さに、束の間の日光浴を楽しむ。風を受けて全身はほどよく冷え、それを陽の光が打ち消す。

 心地のいい時間だ。久しぶりに心地のいい時間。人型でないから常に靴を履いているような窮屈な感じもしない。実に解放的だ。

 海の青。空の青。似ているようで決して交わることのない二つの青で視界が埋め尽くされたのは本当に久しぶりだ。本来のドラゴンの姿でこれだけ遊飛ゆうひするのも久しぶりだ。この辺りは海の只中ただなかで陸が遠いせいか、瘴気しょうきの霧も見当たらない。

 空も海も何も変わらない…と言いたいところだけど、やはり少し、臭いな。火山灰がやって来るという進路からは大幅に距離を取ったはずだが。

 久しぶりの遊飛についふらりと逆さまになって飛んだら「おち、おちる…ッ!」と切羽詰まった、くぐもった声がした。自分の天井に海が見えての言葉だろう。仕方なくもう半回転して通常飛行に戻る。

 あたしの片手の中にはかいりとろいろと青玄せいげんがいる。ほぼ握るようにして運んでいるから絶対に落とすことはない。

 …こうして見ていると、あたしの手から首が二つ生えたようだな。青玄は不機嫌顔だが、かいりの表情は見えない。かいりだけが人の身であるから、念のためにとガスマスクをさせたのだが。いい感じにおかしい。あたしの手でガスマスクを被った首が喚いている。


『落とすことはない』

「そういう問題でもなく…!」

『落ちたとして拾う。青玄もろいろもいるのだから、万が一にも落ちることはない』

「いや、そういう問題じゃないって…背筋ヒヤヒヤだよ……」

『高いところが苦手だったか?』

「そうでもないと思うけど、これは誰だってヒヤッとするよ…」

『そうか』


 相変わらず、どうでもいい、人間らしいことを気にする奴だ。

 これからついさっき噴火したという富士の死地に向かうというのに。むしろそちらを心配しろ。

 バサリ、と両の翼で羽ばたき、もはや何が住んでいるかもわからない海からは一定の距離を保ちつつ空を切っていく。

 今日はとても天気が良く、雲も高く、そして、風がある。火山灰が遠くへ流れるにはうってつけの条件がいくつも揃った。エリュシオンが影響範囲を抜け出せないと情けなく嘆くから、おうが出て、人道的救助なんて名目であたしまで出る羽目になった。かいりに『今度デッサンモデルになるからお願いします!』とハルと二人頭を下げられなければにべもなく断ってやったものを。

 あたしの眼は人間よりも鳥よりもずっと性能がいい。

 遠く、彼方に、灰色の雲のようなものがもくもくと広がっている景色が見えている。黒い粒、降灰も。


何故なぜ助けようなどと思った』

「え?」

『富士の高さを思えば、瘴気に晒された人間は少ないかもしれない。だが、まったく無毒というわけにもいかないはずだ。呼吸の一つ、摂取する食物…なんらかの形で体内には少なからず毒が蓄積されている。

 何人かを救助できたとして、あの都市での扱いなど知れているよ。腫れ物のように病院に隔離され、瘴気の研究対象としてモルモットのような人生を送らせるより、いっそ死なせてやった方が楽だとは思わないのか』

「俺は、思わない」

『何故』

「というかさ、コウ。もっと肝心なところを忘れてるよ、お前は」


 首を捻って生首状態のガスマスクかいりを見下ろす。『どういう意味だ』問うあたしにガスマスクかいりは言う。


「まずさ、絶体絶命、もう駄目だってところで助けが来たら、誰だって嬉しいと思うんだ。人であれ、ドラゴンであれ」

『………』

「助けられてどうなるか、なんてそのときその人は考えないよ。助けが来た、これで死なずにすむ、って思うくらいじゃないかな。

 誰だって生きたい。死にたくない。

 どんなときも手離せない、生まれたときから持っている、生きる意志。生命の根幹みたいなものに引っぱられて、みんな生を望むんだ。どんなに愚かしくとも、どんなに情けなくとも、生きることをやめないんだ」

『その貪欲さが、人はとくに大きい。ゆえに間違い、とんでもないことをしでかす』

「そうだな。そのとおりだ。

 …それでも正せない道はないと俺は信じてる。きっとそんなものはないって、これからも、信じたい」


 夢を語るガスマスクかいりから視線を外す。

 皆が皆そんなことを語り、皆が皆そんな理想や夢を掲げていたら、世界はもっと上手くいっていたろうに。




 果たして、灰というより黒の降灰立ち込める富士の惨状はといえば、悲惨なものであった。

 あたし達が着いた頃には噴火による落石などは落ち着いていたが、施設、と呼べていただろう建物はほぼ崩壊していた。

 ここからあたしの目が利く範囲で人の名残のようなものがあちらこちらに倒れているのが見えるが、どれもピクリとも動かず、降る灰を被っている。噴火によって火砕流が発生し飲み込まれたのかもしれない。どのみち、生きてはいなさそうだ。

 触れればあたしでも長くはもたない灼熱の塊がドロドロと地面を這い、触れたものを融解し取り込んでいる。火山ガスが噴出している箇所も多い。とてもではないが、こんなところにかいりを下ろすわけにはいかない。

 本来なら、生身の人間はこの場にいるだけで危険だ。

 かいりには呼吸のためのすっぽり被るガスマスクのほか、應がありったけのドラゴン装備を身に着けさせた。

 ドラゴンの鱗が織り込まれた銃弾をも弾くベスト、ドラゴンの皮でできた見た目はダサいが耐熱機能は消防服顔負けのジャケットとパンツ。肌を出させないためその昔に流行はやったドラゴン捜索用のブーツと手袋も装備させている。見た目はすこぶるダサいが、この装備があって初めてかいりはこの場で普通の顔をしていられるのだ。そうでなければ降灰に咳き込み、熱に喉や肌をやられている。

 かいりにできるだけ対策はさせたが、それでも長居は無用だ。人道的救助とやらをして、とっととエリュシオンに戻ろう。

 そのとき、あたしの手の中でもぞもぞと動き、あろうことか飛び出したのは、それまで大人しかった青玄だった。「こら、セイ…っ!」かいりが手を伸ばすがすり抜けたあとで、あたしは青玄よりかいりを優先して握り込んだ。

 青玄は落下しながらドラゴンの姿へと戻ると、空へと舞い上がる。

 應は、あの子供はラベンダードラゴンという、あたしと似通った種類のドラゴンの子供だと言っていたが。あの姿はどう見ても和龍のものだ。父親の血を濃く継いだのか。

 そういえば、あの子供の父親は誰だ。母より力の強いドラゴンであろうが、和龍は数自体が少ない。あの深い青の鱗は誰のものだ。


『おれがみてくる』

「セイ! お前はコウみたいに熱いの得意じゃないだろ、無茶だっ」

『そうだ青玄。あたしが見てくる。ろいろとかいりを囲って待っているだけでいい』

『いやだ。このまましにゆくのをみてるだけなんて、できない』


 言うが早いか、青玄はまだそれほど大きくもないからだをうねらせ地上を目指そうとし、

 そこで、オオオオン、という唸り声を聞いた。

 あたしでもない。青玄でもない。ろいろであるはずもなく、またかいりであるはずもない。

 青玄が警戒するようにまだ小さい牙を剥いて周囲を見回す。あたしは無駄な動きはせず視線だけで辺りを窺う。「なに、今の」『黙っていろ』あたしが唸るように言うと生首かいりは大人しくなった。

 唸り声。いや、地面が鳴ったのか? 火山が噴火した直後の大地だ、どんな変動があったとしても不思議はない。

 かいりを握り込み考えるあたしの拳の、その下から、それまで地上を流れていたマグマがとても不自然な形でのを、あたしは確かに見た。

 考えるよりも先に体が動いた。翼をひらめかせて空へと飛翔し、手を伸ばすように意思を持ってあたしを追いかけるマグマをかわし、地上からかなりの距離を取る。

 青玄は別方向へとかわしたようで、マグマの腕を挟んであたしとちょうど真反対にいるようだ。

 あたしの手の中でぐわんぐわんと振り回されて、かいりは目を回していることだろう。


なにやつ


 あたしはマグマの腕に向けて唸るが、答えのようなものはなかった。

 マグマの腕。

 いや。腕ではない。拳のように見えるあれは頭。か? 長い首を持った竜の頭…?

 ただの物質だったマグマが生き物のように振る舞う、目の前のこの光景は何か。

 アレはドラゴンか否か。


(大地のエネルギーとともに現れたがドラゴンだとするなら、富士の噴火はドラゴンが引き起こしたということになる)


 それは決して歓迎されない現実だ。そして、ありえない現実だ。それほどの力を持つドラゴンが現存しているとは思えない。

 長寿で力のあるドラゴンは人に紛れることがうまいが、あの人の都市で己がドラゴンであることを誤魔化しながら存在し続けるのは到底不可能だ。食べるもの、飲むもの、眠る時間、そもそもの立ち振る舞いその他、どこかでボロが出る。そんなドラゴンは存在しない…と、あたしは思う。

 人の都市に頼らず、どこかの山の山頂に安住の地を見つけたドラゴンがいたのなら……その限りではない。かもしれないが。

 そうだと仮定して、人の暮らす場所を襲い壊滅させる目的などあろうか。すべてが滅びかけたこの世界で、その振り子を早めて何がしたい。まずかろうが、人間はドラゴンの食物ともなれるのだ。ただ殺すなど、力あるドラゴンの取る行動ではない。

 だからこれは、ドラゴンの仕業ではない。そう思うが、目の前のものが、ドラゴンの頭のような形をなし、自然現象では決してありえないものとして存在している。この事実をなんと説明する。

 ガスマスクかいりが首を捻ってあたしを見上げた。ガスマスクの向こうの右目にこの現実が記録されている。

 オオオオン、とマグマの拳が、腕が、ドラゴンの頭にも見えるようなソレは呻き、鳴き、緩慢な動作で移動を開始した。



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