2.
ブリュンヒルデの大学は、偉い先生、またはたくさん科目を受け持つ先生、または人気のある科目の先生なら専用の個室というものが与えられる。
俺、
軍の更生施設から職員室へと戻ってきた俺は、ガチャン、と自分の席に腰かけた。鞄を机の上に投げ出して背もたれに背中を預ける。
上の層は疲れるな。お前は場違いだ、って空気に言われてる。
「ふう」
自然と吐息が落ちた。疲れてるのかな、と口元を腕で覆って誤魔化す。
溜息なんて吐くもんじゃない。その分だけ幸せとやらが逃げる…って、誰かが言ってた気がする。
ぼんやり天井を見上げながら、結局今日の授業には間に合わなかったなぁ、なんて思う。アウェンミュラーも柳井も楽しみにしてくれてるのに、悪いことをしてしまった。その分次の授業には気合いを入れないと。
俺が受け持っているのはドラゴン学だけなので、その授業が終われば学校にいる理由はほぼなくなる俺は、机の上に配布されたものがないか確認した。俺が学生の頃と違って今は教師への配布物も添付メールだし、現物として机に何かが置いてあるわけもないんだけど。うん、何もない。
さっき投げ出した鞄を掴んで席を立つ。
そろそろ試験だけど、問題を考えてレイアウトで並べるなら自室でもできる。他人がたくさんいてだだっ広いここじゃ集中できないや。
そう思った俺は早々に学校を出て、教師専用の宿舎へ帰ったわけだ。
扉横の認証機に携帯端末をかざして「ただいまー」と部屋に帰って、「おっかえりー!」という元気ハツラツな声を聞いたことで思い出した。そういや部屋に戻っても俺は俺のことに集中できないかもしれない、ということを。
解錠された扉の向こうにはエディがいた。正しくは、エディとよく似て違う人形、なんだけど、ついさっき更生施設で面会したエディと本当によく似ていて、俺は一瞬
コウが無表情にこっちを見てるのが怖い。あいつ、ネタとか考えるとき絶対ああいう真顔してる。嫌な予感がする…。
自分がまた本のネタにされそうな未来予想図を追い払い、飛んできたろいろを抱き止める。こっちは中身がほぼ機械なせいか、見た目に反して重い。
重いのと軽いのを引きずりながらなんとかソファに行って腰を下ろし、鞄を投げ出し、先生のときはらしく見えるようにしているネクタイを外してシャツのボタンを二つくらい開ける。
「エディは元気だった?」
「うーん、元気、とはまだ言い難いかな。折れた肋骨と足の骨の治療をしながらの生活だから…。でも頑張るって言ってたよ。認可の下りそうなものなら今度持ってくるから考えといて、って言ったら嬉しそうな顔してた」
エディの顔をしてるハルはにまにましている。「…何?」なんだその顔。「べーつにー?」ハルはそっぽを向きつつ俺の鞄を開け始めた。とくに何も入ってないけど、好きなようにさせておく。
真顔でこっちを見ていたコウがようやく眉間に皺を寄せた不機嫌顔に戻った。コウはあっちがデフォルトなのだ。気難しい顔で席を立ってベッドに行き、布団の中にある卵を引っぱり出すと、両手で掲げてふうっと
俺の横で鞄をいじってるのは、この間まで蛇と呼ばれていた生き物だ。
改心し、
ハルモニアとは、かつての概念の一つで『調和』を意味する言葉だ。蛇にはそういう存在になってほしいという願いを込めた。
應がハルに体として与えた人形については、コウもよくわかってないらしい。おそらく『何かの力の塊』であり、『生命を宿す』ことができ、だからハルも存在できて、マネキンみたいだった見た目はハルの思考に呼応してふさわしいものへ変わったんだろうとかなんとか言ってたけど……應って変なもの持ってるよなぁ。さすが長くを生きてる龍っていうか。
冷たい鼻先を押しつけてくるろいろのガラスのような質感の鱗を撫でる。「ハル、端末ちょうだい」「はい」ぽん、と膝に置かれた端末を指で叩く。
えーと、前回の試験の範囲を確認。で、今回の試験の範囲を算出しよう。
俺の教科書はマイナー中のマイナーなので電子データとして登録されてないから、ある程度は手作業する必要がある。「ハルー教科書」「はい」どさ、と膝に置かれたドラゴン学の教科書のページをめくっていく。自分のメモを信用するなら前回はこの辺りまで試験に出したはず…。
……なんか、横顔に視線を感じる。
ちら、と確認するとハルがじっとこっちを見ていた。「…何? なんかついてる?」なんか食べたっけ、と口元を袖でこする。別に何もついてない。
「かいりはさぁ、それ天然でやってるの?」
「…何を?」
言葉の意味がわからなくて首を捻る俺に、卵に息吹を吹きかけてあたためながらコウが「天然よ」と言い切った。ハルが納得したように頷く。「なるほどねー。罪だねー」とか言われても俺にはなんのことかさっぱりわからない…。が、二人はそれ以上この話題に触れる気がなさそうだったので、追求は諦めた。どうせはぐらかされるに決まってる。
あたたかい部屋にコートを脱いで、試験問題の内容について真剣に考え、王道な問題が六割、ちょっと意地悪な問題が二割、難しいのが一割、もう一割はサービス問題という分配でレイアウトをまとめ、とりあえずこれでいいか、と納得して顔を上げたときにはろいろは隣で丸くなって寝こけていた。すよすよと平和な寝息を立てている。
端末の右上で時間を確認すると、もう夕方だった。そろそろスーパーに行って何か買ってこないと、寒くて出歩くのが難しくなる。
じっと俺のすることを見ていたハルにはとくに食事は必要ない。應が言うには、空気中にあるエネルギー(空気中にあるエネルギーってどんなものだろう…)を自然と取り入れているので、よほどエネルギーの消耗が激しいとき以外は必要ない、らしい。應の秘蔵品って不思議すぎだ…。
ろいろを起こさないようにそっとソファを立つと、ハルも真似してくる。
「コウ、ご飯買ってくるけどお前はどうする?」
「適当に頼むわ」
「オッケー」
今日も今日とて我が道を行くコウにもエネルギーは必要だ。
コートを羽織り直して、人形であるハルを見る。「…さすがにエディの顔で外を歩くのはマズいよ」「はーい」ハルは素直に返事をして目を閉じた。淡い光を帯びたあと、エディの姿をしていた人形はマネキンに戻った。同時にうなじ辺りから何かが流れ込んでくるくすぐったい感触。
倒れる前に抱き止めたマネキンはソファに座らせておく。
ハルがこの人形から俺に移った。これからも、他人の前や外を出歩くときは、俺か、許可を得た誰かに
それが窮屈かと聞いたら、ハルはエディの顔で笑ったっけ。
俺の中で上機嫌な気がするハルを連れて宿舎を出る。
今日はずっと曇ってるなぁ。自分の中で落ちた声に視線を上げると、夕暮れをすっ飛ばして空はもう夜になろうとしていた。薄明は遠く、すぐになくなってしまうだろう。「明日は雨かもって」ぼやいて、他人から見たら独り言なんだろうと鼻までマフラーを上げる。
空の都市なのに雨も降るのか、と感心している声に小さく笑う。「軌道は考えられてるよ。雨もないと水に困るだろ」そうかぁ、と落ちる声。
ハルには俺の心が読めている。それでも喋って返事をするのはなんとなくだ。
すぐ近くのスーパーに行き、今日の夜と明日の朝ご飯を調達する。
店内には俺の他にもチラホラと職員の姿がある。みんな宿舎で寝泊まりしている先生だ。
俺は受け持つ科目が『ドラゴン学』という特殊性があるから、知り合いと言えるような人はいない。せいぜい会釈をする程度で二、三人とすれ違う。
えー、今日は。何食べようかな。たまには量のあるものでも…と商品の並ぶ棚に視線を巡らせる。
なぁかいり
(うん)
お前、寂しくないのか?
(寂しい? どうして?)
だってお前、ドラゴンに味方する人間だって、多くの人間から避けられてるだろ。変わり者だ、おかしな奴だ、ってさ。さっきの先生方もそういう目をしてた。関わって、余計なことに巻き込まれたくない、って目
(ああ。まぁ、そうかもしれない)
同族と触れ合えないってのは、思っているより寂しいはずだぜ。どうして耐えられる?
ハルの疑問に、食用に養殖された
どうして。どうして、か。どうしてかな。
たぶん、俺はみんなみたいに上手じゃないんだろう。皮を被って生きることが。
そういうことも必要だと知っているのに、上辺だけ取り繕うことが俺は下手くそだ。そうやって多くの人間に接して嘘を塗り固めていくぐらいなら、一人でいいと思ってる。馬鹿みたいに全力で、誤魔化すことができない、そんな俺の生き方を受け入れてくれる人といられればいいと思ってる。そんな馬鹿な俺に向き合ってくれる人は少ないけど、いないわけじゃない。だから、寂しくとも、耐えられないことはない。
アウェンミュラーと柳井の生徒二人にしたって、いい子だ。
エディも、ちゃんと社会復帰できたら、いい子になれると思う。その道は険しいけど、支えていく手伝いはするつもりでいる。エディが諦めないのなら、俺も諦めない。
手にしている買い物かごにドリアを入れ、コウには餃子入りスープとサンドイッチ、ろいろには甘口麻婆豆腐。明日の朝のパンも適当に選んでおく。レジに並んで会計を端末をタッチしてすませ、外に出ると、ビュオッと寒い風が吹き抜けた。マフラーをしっかり口元まで上げてから来た道を戻り始める。
ハルは、何か、感心してるみたいだ。お前すごいなぁ、と言われて「別に、普通だよ」と首を竦めてぼやいて返し、早足で宿舎の玄関口へ。
明日は雨という予報だったけど、もう雨の降る雲のある場所に入り始めたのか、ちらちらと白いものが舞い始めていた。雪だ。陽射しがあれば雨になるんだろうけど、今夜は少し降るかもしれない。
…雪だけは、変わらないな。白くて、冷たくて、きれいで。
かいりはロマンチストだなぁという声に肩を竦めて返し、紙袋を抱えながら階段を上がる。
あたたかい部屋に戻れば、俺のいないことに気付いて起きていたろいろが飛んでくる。ぼふっ、とぶつかってくるろいろを片手で押し返しながら部屋に入って「ただいま」と言いつつ扉を閉める。ソファでくたっとしていたマネキンはいつの間にかエディの姿をしたハルになっていて、元気よく立ち上がったところだ。
コウの机に邪魔にならない位置にあたためたスープとサンドイッチを置いて、レンジで順番にあたためた麻婆豆腐とドリアをソファ前のテーブルへ。
ぴょこん、と顔を上げて食べ物に反応するろいろに苦笑いしつつ、レンゲを用意する。
ろいろは甘えん坊だから、いつまでたっても人型で自分で食べるってことをしない。どんなにお腹が空いてても俺が食べさせないと食べない。
ろいろを膝に乗せて、自分は左手でスプーンでドリアをすくい、ろいろには右手で麻婆豆腐を与える、ということをしている俺をエディの顔をしたハルが見ている。そして、いいことに気付いた、って顔でパチンと指を鳴らした。
「そうだかいり、オレが食べさせてあげる!」
「え?」
「ろいろと自分と両方やるの難しいでしょ? ほら、こぼしてるし。だからオレが食べさせてあげる」
にこにこ笑顔でスプーンをもぎ取られた。「はい、あーん」ドリアをすくったスプーンを突きつけられて、仕方ないので口を開ける。
不機嫌顔でタブレットを見ていたコウが真顔になってる。…あとが怖い。
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