6.



 ……それは、いつかに見た夢の景色に似ていた。

 俺(私)は混乱していた。

 人、ドラゴン、すべての生きとし生ける者にこの精神こころを寄生させることで生きてきた私(俺)は、混乱していた。

 葉山はやまかいりという人間が抱く望みあるいは願い。その仄暗い願いの背を押し、望みどおりにさせてやることで俺(私)はそのからだの主導権を得ていく。その脳あるいは心の欲求を満たせるのは私(俺)なのだと錯覚させ、俺(私)が正しいのだ、と思わせることで私(俺)はこれまで宿主やどぬしの中で、あるいは宿主自身として生きてきた。

 俺(私)にとって、人の心を読み、その願いや望みを叶えることは難しくない。

 人間は生物の中で唯一文化を築き技術を磨き後世に伝えることで発展してきた一族だが、それゆえに個体としての能力は高くなく、その在り方は時代や文化、己を取り巻く環境に大きく依存していた。その心に隙間はありすぎた。私(俺)が入り込む余地は有り余るほどだった。

 俺(私)にとって人間は一番取りきやすい生物であるはずだった。葉山かいりとてそのはずであった。

 だが、この釜の蓋を開けてみれば、どうだろう。

 自ら私(俺)に得意とする囁きをしてみせよと言ってきた人間の中には仄暗い願いなど。後ろめたい望みもまた

 この人間はその代わりに、果てしない夢を見ていた。夢としか言いようのない願い、望みを抱いていた。


「ありえない…っ」


 蒼くきらめく鱗を持った尾を叩きつけられ、無力な人間の体は簡単に床に落ちた。

 遠慮のない尾の一撃で右脚の骨が折れたようだが、俺(私)には痛みはあまり関係がない。痛みはこの体の持ち主のもので、私(俺)のものではない。

 俺(私)のありえないという言葉は、この事態に対して、ではない。ドラゴンを守り、ドラゴンに守られ、足を引きずりながら立ち上がった、夢でできている人間に向けた言葉だ。

 あの人間は夢を見ている。途方のない夢を。

 瘴気しょうきのなくなった世界で、人が笑い、ドラゴンが笑い、手と手を取り合う、そんな夢を、全身全霊で、本気の願いとして、望みとして、生きている。

 そんなことはありえない。ありえていいはずがない。

 この人間は現実を見ていないのだ。ドラゴンを食い物とし、多くの同族を見捨て空へと逃げたこの人の都市の現実を見ていないのだ。私(俺)はそう否定したかった。声を大にして、否定したかった。


「お前は、現実を、見ていない…。ドラゴンを食い物にし、同族の多くを見殺しにし、今なお逃げ恥を晒している、人間の、生き様を」


 俺(私)はごほりと咳き込んだ。血が滲む。どうやらあばらのどこかしらも折れてしまったようだ。まったく人間の体はなんと脆いことか。

 足を引きずりながら、人間がこちらに近づこうと一歩踏み出す。「おい、はやま」そばにいる子供のドラゴンの瞳は紫色に光り輝き、私(俺)を睨みつけた。下手なことをしようものならまた叩きつけるぞ、と言いたげに小さな体に不釣合いな長い尾が揺れる。

 そう、それが正しい反応だ。俺(私)は敵対行動をしていた。傷つけようとした。殺そうとした。それが正しい反応なのだ。それなのにこの人間ときたら。まったく、意味が、わからない。

 夢の塊は、足を引きずりながら満足に動けない私(俺)のもとへやって来た。

 俺(私)はその存在を避けたかった。這いずるようにして移動を試みるが、人間の体は脆く、肋と足の骨をやられたくらいだというのに、私(俺)はそれ以上動くことはできそうになかった。

 果てのない夢に己を費やす葉山かいりの姿は、俺(私)の昔を思い起こさせた。

 その、夢は。途方のない、とうてい叶えようのない、その夢は。かつて私(俺)が宿り、無残に手折られた少女が見ていた夢によく似ていた。



 その少女は、山奥でドラゴンを崇めて暮らす村に待望の娘として生まれた。

 名を夢華モンファと言い、今思えば、その名のとおり、夢の華を抱いて生きる少女だった。

 私はその村の守り神のような存在として大事にされてきた。そして、村に生まれた新たな希望にどうか導きを、と願われ、彼女に宿り生きることになったのだ。

 当時、西洋ではドラゴンは『悪の化身』として描かれ、成敗される物語の中にしか登場しないものであったが、東洋では違う見方も存在していた。夢華が生まれた村はドラゴンを自然の使いとして崇める村であり、そういった村が点在していることは、その時代にはさして珍しいことでもなかった。

 私はその頃善神であったので、当然、私を生かすこの村のことを生かす助言をした。次に雨が降るのは何日後か、次の砂嵐がいつ起き、いつ鎮まるか、といった自然現象について、私からすればどうということもなかったが、人からすればありがたいらしい言葉を与え、私と村との共存関係はうまくいっていた。

 うまくいっていた。すべて。

 夢華はよく私と話をした。

 自然とドラゴンと人のこと。

 未だ隠れて暮らし続けている多くのドラゴンが、いつか自由にのびのびと空を飛ぶことを夢見ていると、彼女は語った。私はそういう未来をつくりたい、と笑った。彼女は心からそう願ってくれていた。世界が良き方向へ行くこと。そのために自分に何ができるのかを毎日考えながら生きる、とてもいい娘だった。

 名前のとおり、夢の華を抱いて育った少女は。しかし、その華の茎を呆気なく手折られ、無残に地面に捨てられた。


 あるとき。暗雲とともに西洋の人間が、『征服』をしにやってきた。

 世界が歴史で言う『植民地時代』に突入していたことはあとから知ったことだが、夢華のいる村にもその侵略の手が届いたのだ。

 征服者は、村がドラゴンを崇める集団であると知ると嫌悪した。

 本来なら村を支配し労働力や資源の調達場として利用するはずが、村人を殺して回り、家には火を放ち、女は捕らえて犯し、行為が終われば斬り捨て火の中に放り投げた。

 私は、夢華に、逃げろと言った。私の命が惜しいから、ではない。彼女という夢の華が手折られることを私は恐れたのだ。その夢は私の夢にもなりつつあった。私は夢を殺されたくなかった。

 征服者は、年端のいかない彼女の服も容赦なく剥ぎ取った。一つの例外もなかった。夢華は何人もの男に犯された。

 私は自分に持てる力のすべてをぶつけたが、それでも征服者を殺し尽くすことはできず、また、彼女を救うこともできなかった。

 風向きを変え、征服者達に火の粉を降りかけ、発生させた砂嵐で視界を奪い、木々を薙ぎ倒し、あらん限りの力を尽くした。

 それでも、私は彼女を救うことはできなかった。

 征服者達はこの村が『ドラゴンに呪われた村』だと口々に言い合い、唾を吐き捨てながら蹂躙した村を捨てていった。その頃には私の力は尽きかけ、夢華はボロ雑巾のようになっていた。

 それでもまだ生きていたことが、彼女にとっての絶望だったに違いない。

 彼女は知ってしまった。人間の醜さを。同じ姿形をしていながら、人間同士でさえ、こんなにもわかり合うことができない。こんなに理不尽な暴力に晒される。人間同士で無理なら、人間とドラゴンでわかり合うことなど、できるはずがない。

 夢の華はぽっきりと手折られ、地面に捨てられた。

 彼女は、私に乞うた。自分を殺してくれと。砂埃と男の身勝手な欲に汚された彼女は泣いた。彼女に夢を見る力はもうなかった。夢を見ていた彼女は、もう死んでいた。残ったのは絶望に泣く子供だけだった。

 私に、何が、できたろうか。実体をもたない私に。他者に寄生することでしか生きていけない私に。

 たった今目の前で酷い仕打ちを受け、苦しんでいる、ともに生きた少女の願いを、私はかろうじて叶えることができる。


 私は少女の願いを叶えた。その絶望を終わらせた。それは私自身を終わらせることに近かったが、そのことに躊躇いはなかった。

 そして、私は、獲物を追う蛇のような執念で、村を蹂躙し去っていった人間どもを追いかけた。一人に同意なく取りき、その部隊が破滅するように混乱と絶望を招き入れ、仕向けた。

 憎き征服者をそうやってどんどん片付けていくうちに、私はいつしか蛇と呼ばれ、疎まれる存在へと変貌していた。

 だが、それでよかったのだと思った。

 乗り移る人間もドラゴンも等しく醜い欲望を抱き、少し囁いてそそのかすだけで、簡単にかしいだ。人間も、ドラゴンも、その程度の存在だった。もはやその程度、と私も生物を見限ることができた。そうやって果てまでちるのが生物の末路だというのなら、そうしよう、とさえ思っていた。

 私が導いてやるから、ともに、滅亡しよう。

 そうして静かな世界を目指そう。もう誰の声も聞こえない、誰の絶望もない、真っ白な世界を目指そう。

 私はそう思っていた。心から。どこかで、哀しみを抱きながら。どこかで、彼女の笑顔を思い浮かべながら。



 だから、私(俺)は、葉山かいりの存在を認めるわけにはいかなかった。その夢は俺(私)にとって毒だった。優しく甘い毒だった。

 私(俺)はもうずっと恨まれ憎まれ疎まれるモノとして生きてきた。

 優しくしないでほしい(もう償えぬ場所まで来てしまった)、

 笑いかけないでほしい(向けられる笑顔に彼女が重なってしまう)、

 夢を、見ないでほしい(叶わない。その夢は叶わない。ともに見た夢が絶望に堕ちるときなどもう知りたくもない!)。

 俺(私)の思いなど知らず、葉山かいりは私(俺)を抱き起こした。「折れてる。痛いな」と変な方向を向いている俺(私)の足をそっと撫でる。その優しさが嫌いだ。「寄るな。触るな」と呻く私(俺)の声は弱い。

 俺(私)に優しさなどいらない。私(俺)は醜く冷たい感情に浸かっているのがお似合いだ。

 葉山かいりは俺(私)の悲鳴など構わず、私(俺)の頭をぽんぽんと優しく叩く。


「俺はずっと夢を見てる。これからも夢を見続ける。それが俺の生き方だ。絶望には落ちない。それは、今までの自分を否定することになるから。ここまで道を繋いできたみんなに顔向けができないから」

「……かなわない。そのゆめは、ぜったいに、かなわない」

「そうかな。お前が手伝ってくれたら、俺の夢はもう少し現実味を帯びると思うんだけどな」

「むりだ。ぜったいにむりだ…」

「根拠は?」

「………むりはものは、むりだ」

「それは理由になってない」


 葉山かいりはあくまで優しく笑うことをする。右目からは血が、涙のように溢れ、頬を伝って俺(私)へと落ちた。「俺はこれでもたくさんのものに守られてるんだ。開き直るわけじゃないけど、だから、死ににくいよ。置いてなんていかないさ。夢も、お前も、連れていく」だからおいで、と囁かれたのは初めてのことであった。私(俺)は囁き唆す者であり、その逆など、ありえるはずがなかったから。


(ああ、夢が、手を振っている。私に、手を、振っている…)


 かつての夢は、かつての少女の形をして、私に手を振っていた。おーい、と手を振っていた。おかえり、と笑っていた。

 私は。冷たい泥の中から顔を出して。恐る恐る、彼女を見つめて。両腕を広げて笑う彼女のもとへ、ない体で走り出す。

 その抱擁は、私が強く憧れ、焦がれ、求めていた、願いだった。



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