5.


 両腕を広げて俺のことを庇っているろいろをそっと後ろから抱き寄せる。「ろいろ」命じても、ろいろは重力制御場を解こうとしない。まだ危険だ、とろいろの本能が感じ取っているためだろう。

 開けた右目は赤く濁っていて、叩き出される数値も警告のものが多く、これ以上酷使すれば俺自身に危険が及ぶとさっきからうるさい。

 そんなことはもうわかってるって。

 それでもできるだけのことをするって決めたんだ。

 ジクジクと痛む右目を凝らす。

 エディと同化している蛇の反応は、そのままエディに表れる。少しも乱れることのなかった息が少しだけ荒い。心臓も、同じ。

 エディは、蛇は、きっと疑問に思ってる。自分を滅する方法があるのに、それを捨てた俺を。戸惑いを覚え、混乱している。

 …それならまだ可能性がある。

 具体的に、何か策があるとか、そういうんじゃないけど。俺はまだ人殺しにはなりたくないし。エディにはまだ未来があるし、蛇にだって、未来はあっていいはずだ。

 誰にだって生きる権利がある。死にたいと願う奴はいない。

 生まれたら、生きていることを自覚したら、もっと生きたいと、そう願うのは普通のことだ。

 たとえ他人を蹴落とそうと、踏み台にしようと、生きたい。

 蛇は懸命に生きようとしている。恨まれながら、疎まれながら、たった一人で。


「なぁ」


 ろいろを抱きしめたまま蛇に問いかける。「お前、人の望みを読むのが得意なんだろう。俺の望み、読んでみなよ」「おいっ」青玄せいげんがまた俺の足を蹴飛ばした。痛い。痛いけどなんとか笑う。「大丈夫」と、そう言ったところで、青玄は信じてくれないけど。俺も、何が大丈夫なのか、根拠なんてないんだけど。

 蛇は警戒しているようにこちらと一定の距離を保っている。

 周囲を漂っている割れた石の欠片を指で払い、手を伸ばす。青玄が作った力の加護の外へ。「ほら、読んでみろって」「……何を考えてる」蛇はエディの顔で牙をき出す。牙、はないから歯になるけど。

 青玄が俺のズボンを掴んで思いきり後ろに引っぱった。踏んばるだけの力が残ってない俺はろいろを抱いたままドタッと尻もちをつく羽目になる。痛い。おかげでまた加護の力の中だ。


「いいかげんにしろ!」


 普段表情らしいものを見せない青玄が眉をつり上げて怒っていた。「おまえになにかあったらおれがおうにおこられるんだぞ!」と言われて、やっぱりそんなこと言われてたんだな、と他人事のように思う。

 おうが俺を気遣ってくれることは本当にありがたい。俺なんかを大事に思ってくれて、もったいないな、とも思ってる。

 今もきっと俺のことを心配してくれてるんだろう。應は優しいから。


「なぁ、青玄。

 どんな生まれにも罪はないはずなんだ。罪になるのはその生き方で、それはたとえ間違えたとしても、正しい道に戻れるはずなんだよ」

「はぁ? なんだよきゅうに」

「生まれてから死ぬまで、ずっと正しい道を歩いてる奴なんて、いないんだ。俺も、應も、セイも…あの蛇も」


 何か思い当たるふしがあったのか、青玄は俺から視線を逸らした。

 加護の力の中はどことなく琥珀色の空気をしていて、居心地がよかった。

 でも、居心地がいいだけが人生じゃない。山があって谷があって、ときには茨の道を歩いたり、川を渡って泳いだり。寒さに震えたり、暑さにうなだれたり、苦しいときもたくさんある。

 俺は今選択の時間ときに立っている。それが、わかる。



 蛇とエディを大義のために見殺しにするか、

 一人と一匹の手を取って、茨の道をともに歩むか。



 膝でにじり寄るようにしながら手を伸ばす。琥珀色の空気の外へ。ひんやりと冷たい気がする空気に指先が触れる。

 蛇が歯軋りした。


「訳のわからないやつだな。そんなに支配されたいのか? お望みなら、その心、読んでやるよ」


 訳がわからない、という言葉に少し笑う。

 俺が考えてることは至極単純なんだけど、そういうこと、たまに言われるな。コウにも。馬鹿ね、ってさ。

 何か冷たいものが指先を噛んだような気がした。指から全身にざわりと広がった悪寒。さあ、お前の望みはなんだ、と囁くくらい声。

 俺は目を閉じた。

 十年前から少しも変わらない俺の望みと、俺の夢は、いつも俺の中ここにある。


(お前に叶えられるかな。俺の、夢が。俺の、望みが)




✜  ✜  ✜  ✜  ✜




 應、と呼ばれている龍は、部屋で一人お茶をすすりながら、状況を見守っていた。

 彼の前には大きな器があり、その中には水がたっぷりと注がれている。その水面が映し出すのは葉山はやまかいりや青玄のいる病院であり、今蛇が葉山の指に噛みついた、まさにその瞬間であった。

 應は、願わくば、彼がエディと蛇を殺すことを願っていた。むごいことかもしれないが、それが一番楽な道であるとわかっていたからだ。

 しかし、彼がその道を選ばないであろうこともまた、應にはわかっていた。

 何かを選ばなければならない場面。たとえば、崖の淵にぶら下がった人間が二人いて、どちらかの手しか取れない場面であっても、両者の手を掴んで引っぱり上げようと力を尽くす。葉山かいりとはそういう人間であり、それで自らが崖下に落ちたとしても後悔はしないだろう。

 葉山かいりは、絶望さえ共感しようとする愚かな人間だ。

 万物が生まれることに罪はないと信じているし、どんな者の心にも良心は残っているはずだと信じている。あの蛇にも等しく、信じようとしている。かつての善神の面影を探している。

 そんな彼ならあるいは……。

 ズズズ、と音を立ててお茶をすする應は、金色に光る目で事の成り行きを見守っている。

 願わくば、絶望よりも、希望のある未来を。

 長くを生きた龍は、願い、祈る。




✜  ✜  ✜  ✜  ✜




 俺が止める暇もなく、あろうことか自分から心を読ませに行きやがった葉山を、俺は引っ叩いてやりたかった。が、引っ叩くよりも先に葉山のシャツを掴んで思いきり後ろに引っぱり、また加護の中に引きずり戻した。

 應に言われてたんだ。『何があってもかいりに蛇が乗り移ることだけは避けなきゃならん』…それがこんなにあっさり。まさか自分から武器を捨てて、あまつからださえ捨てるとは。そんな馬鹿だとは思わなくて。まさかこいつ、自殺願望でもあったのか? そんなことを考えつつも思考は目まぐるしく回転する。

 蛇に一瞬かれたかもしれないが、ここは琥珀の光の中だ。蛇って悪しきものは追い出されてこの外のはずだ。大丈夫のはず、だ。

 目を閉じたままの葉山を揺さぶる。「おい、しっかりしろ」「はい、はい。大丈夫だって」左目を開けた葉山はいつもどおりの葉山だった。蛇の存在は感じない。…琥珀の守護が効いてるのか。

 ほっと息を吐いた俺の前で蛇が、エディがよろけた。何かダメージを受けたみたいに胸を押さえている。俺も、葉山に抱かれてるろいろも、何もしてないはずだが。


「…これが、望み?」


 蛇はおかしなくらい震えていた。

 一瞬でも葉山に触れたなら、俺のときのように、心の奥底にある願いを囁いたはずだ。何かを吹き込みそそのかそうとしたはず。それで動揺するのは囁かれた側、葉山であるはずなのに、動揺しているのは蛇の方だった。「おかしいぞお前。そんなものが望みのはずがない。そんなもの、叶わない!」蛇はムキになるように叫んで、跳んだ。人間の跳躍力を軽く超えていた。病院の白い天井に張りつき、かと思えばコートの内側に並ぶナイフを抜き放ってくる。

 ろいろが両手を伸ばして重力制御場を展開した。半円を描くそれは俺と葉山とろいろ自身をナイフの雨から守っているが、消耗が激しいのか、ろいろの額に汗が浮かび始めた。

 ナイフの雨を降らせながら、蛇は叫んでいる。


「そんなものは望みでも願いでもない! ただの夢だ! お前は夢を夢だと思えない馬鹿なんだ! 大馬鹿野郎なんだっ!」


 右目を開けた葉山がろいろの頭を撫でた。「それはお前への負担が大きい。天井としての壁だけでいい。計算して落とすのは俺がやるから」ろいろがちらりと葉山を見上げる。そして、言うとおり、半円形の重力制御を解いて、頭上に壁としての重力制御の板を築いた。

 重力は上から下へ、地上に向けて流れるものだ。自分達の真上に到達したナイフの軌道を逸らすには計算しなくてはならない。自分の頭の上にあるものをそのまま重力に従わせたんじゃ、脳天に突き刺さるだけだからな。

 ろいろはそういった計算ができる頭はない。計算するのはろいろと同期しているというかいりなんだろうが、連続して投げられるナイフにすぐに表情が歪んでいく。カカカカ、と音を立てて床にナイフが突き立つ度、機械色に瞬く右目はさらに出血した。

 ろいろは重力制御で忙しい。

 俺が。俺に。できること。

 應には、派手に動くなよ、と言われた。ドラゴンだと悟られるのはよくないと。

 ここまでなんとか、奇っ怪な子供、くらいの振る舞いでやってきたが。このままじゃ、無理だ。このままじゃ葉山の処理に限界が来る。右目がパンクしたら終わりだ。

 それでも、俺を庇うかのように抱き寄せる姿に、なぜだか重なるものが一つ。

 ミドリが、最後に、そうして俺を庇ったように。


(いやだ)


 ミドリを、そうして、なくしたように。


(おれはもうだれもなくしたくない)


 ぐっと拳を握って、開く。

 誰もなくしたくないのなら。覚悟が必要だ。

 もう應に庇われかくまわれ、好きなことだけしている俺ではいられなくなるだろう。

 俺は、馬鹿ばっかりする葉山をぶん殴りたい。それは死体でやったって意味がない。生きててくれなきゃ、ぶん殴ってもスッキリしないだろうが。そのためなら俺の正体がバレることくらい仕方がない。

 服が破れるのも構わず、自分の頭の中で解の文字を浮かべる。普段から人の姿で制御している枷が外れる。

 ズルリ、と長い尾を生やした俺に気付いた蛇が距離を取ろうとするが、もう遅い。俺は陽が当たるとラベンダー色に輝く蒼い鱗が生えた尾を蛇へと叩きつけ、その体を床にねじ伏せた。



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