4.


 俺は子供でもドラゴンだから、閉じた扉の向こうの空気や気配というものは気をつければある程度は感知できる。

 …外がにわかに騒がしい。これは、悲鳴、と、どよめき。か。

 ぱたん、と本を閉じて鞄に押し込む。代わりにおうから預かった原石を取り出し、中華服っぽい袖の中に入れておく。

 道具をたくさん持っていたとして、使いこなせなければ意味はない。應の部屋からは使い道のわかるものだけ持ってきた。

 眼鏡男子の柳井やないと金髪少女のリアは外の騒ぎに気付いていない。人間なんだから当然といえば当然だ。この部屋、個室だし、外との音をよく遮断してる。

 気付かれないようこっそり移動して、ベッドのそばに黒っぽい石を一つ置いた。

 俺は應のようになんでも短縮してできる実力はないので、石が力を発揮するのに必要な手順をきちんと踏んでおく。

 必要なのは敬意と祈り。大地の結晶たるこの力の塊へ、助力を願うこと。


(けんこなまもりをもつけつぎょくせきよ。わがなはせいげん。ちからなきもののため、そのまもりのしゅごをこうものなり。

 だいちのちからよ、つみなきものをまもりたまえ。われらがははよ、あしきまをしりぞけたまえ)


 黒に赤い斑点のある石は当然何も言わないし、俺の敬意と祈りに言葉を返すことはないが、了承された、という感覚が俺の中に届く。

 俗にブラッドストーンと呼ばれるこの石はまもりに適した石だ。黒い石に血のような赤い斑点があることから、『イエスが磔にされた時、ちょうど十字架の下にあった石 にイエスの血が染込んで出来た』とか言い伝えがあるらしい。まぁそれはどっちでもいいけど、そう言い伝えられるくらいには効果のある石だ。

 これで、何かあったとして、二人は安全なはず。

 なぜ二人が狙われる可能性が高いかといえば、蛇にかれているエディ・シェフィールドが固執する可能性が高いのがこの二人だから、らしい。詳しいことは知らないが、應がそう言うんだからそうなんだろう。


「そういえば、今更、なんだけど」

「はい」

「リア、まだ高校生だったんだね」

「…本当に今更ですね。いえ、私がちゃんと言っていなかったというのもありますけど」


 外のことも、この状況も、何も知らないからこその他愛のない会話。それに背を向ける。

 こんなものを守りたいと思う葉山はやまも應もどうかしてるんだ。

 守ったところで何になる。この二人が世界にとってそれほど重要なわけでもあるまいし。

 こんな風景が一つ壊れたところで、世界は何事もなかったように続いていくだけだ。ミドリをなくしても、ずっとそうして世界が、時間が動いているように。

 ミドリをなくして。俺の心は止まったままなのに。世界はずっと動いている。

 忙しない景色の中で、俺だけが、モノクロの時間の中で止まっているような錯覚。


「授業、大丈夫なの…? ドラゴン学のときも、そうだけど。本来の受ける授業とか、あるんじゃ」

「実りがあるのはドラゴン学の方ですから」

「…まぁ、僕も、そうだけどさ」


 どうにもはっきりしない柳井にリアは『ドラゴン学』と題された紙の本を取り出した。「何もしてないのも暇ですし、予習でもしましょう、先輩」…あの教科書の監修には應やコウが付き合ったって話だから、まぁ、だいたい正しいことが書かれてるものなんだろうが。あんな一冊の本でドラゴンのことを知った気になっても困るけどな、俺は。取っ掛かりとしては……悪くないのかもしれないけど。

 はにかむように笑う人間が、二人。

 平和な風景はまるで映画のようだった。一部を切り取って目の前で再生されているかのように俺には遠いもの。

 昔、人間の文化を学ぶのに、こういうものを見たことがある。

 あの頃の俺は今よりずっとガキで、ミドリ以外を知る必要などないと、真面目に考えもしなかった。

 自然の中の一軒家にミドリと二人で住んでいた俺には、自分の手の届かないものは自分に関係のないもので、一緒に見た映画も、色のついた遠い世界の出来事だった。

 それがこんなにも呆気なく、俺は映画の世界の中に放り込まれて、ミドリと引き離されたままだ。こちらが現実だということを俺はまだ受け止めきれていない。

 ……外が、騒がしい。似つかわしくない金属の音もした気がする。

 ソファを立った俺に、つられたようにろいろがぴょこんと立ち上がった。俺と同じくらいの身長で、でも俺よりもずっと本能的な思考しかできないというろいろは、足音軽く病室を駆け抜けて引き戸へと手を伸ばす。

 ろいろは、ここにいろ、と葉山に言われていたはず。

 思考力がないって話だったろいろが自分から動くのは、動物的な本能が刺激されたときか、唯一頓着するという葉山に何かあったときか、だ。

 外のことになんて何も気付いてない二人のうち、リアが顔を上げた。眉尻をつり上げて「こら、二人とも。勝手に出ちゃいけません」と上から叱ってくる。…ろいろは葉山の親戚の子で、俺はその友達とかいう葉山の心苦しい嘘をまだ信じてるらしい。

 阿呆だな、と思いつつ「ちょっとトイレ。ろいろもだって」言いつつガラリと引き戸を開けてろいろを押し出し、ピシャン、と閉めてやる。

 封、の文字を頭の中で描いて病室の壁に叩きつけ、柳井とリアの二人を病室から出られないようにする。

 一歩外へ出れば、あちこちで人が倒れている。見たところ怪我はないが、逃げていく人間に踏まれたり蹴られたりして、そっちの方で怪我してそうだ。

 手間がかかるな、人間は。自分の身一つ自分で守れないのか。

 視線を巡らせて、ろいろが走っていく方向を見つめる。ろいろが駆け抜けていく通路にはこれでもかというほどの量のナイフが壁や床や天井に突き立っていた。血がついているものもある。…葉山の血か。


(あっちはろいろにまかせよう。まずこのあしでまといをどうにかしないと)


 ろいろはあれで雷竜らいりゅうだ。本能的な思考しか残ってないとはいえ、葉山の指示は守るだろうし、その身も守るはずだ。

 俺は気絶して転がってるじじいのパジャマの襟首を掴んだ。足をくじいたのか動けないでいる看護師の手も掴んでずるずると安全圏まで引きずっていく。

 葉山はたぶん、このへんで転がってる人間に怪我をさせないよう気を遣いながらやり合ってたはずだ。そういう邪魔を退かせばあいつはまだ自由に戦えるはず。

 転がってる人間を引きずりながら移動させ、とりあえず、病室の一つに全員まとめて放り込み、封をかけた。俺が解くか、力で破られるかしない限り、これで安全だ。

 踵を返して、誰もいなくなった病院の廊下を走り抜ける。

 突き立つナイフは剣山のようで、ろいろが走り去った方へ行けば行くほど、ナイフは赤い色で汚れていく。

 俺が追いついたとき、葉山は右目から血を流していた。

 向かいにはエディ・シェフィールドがいて、笑っている。嘲笑わらっている。わらっている。

 笑いながら放たれたナイフの投擲は人が出せる速度を超えた一撃で、両腕を広げて葉山の前に立ったろいろは空中でナイフを停止させた。重力制御。雷竜の特徴である力を駆使し、ろいろは葉山へのナイフの攻撃を無効化させる。

 続けて放たれたナイフもすべて同じように無効化したことで、ろいろの能力を悟ったらしいエディが舌打ちしてこちらと距離を取った。


「おい…っ」


 壁に背中を預けて肩で息をしている葉山に駆け寄る。

 右目から血どころか、葉山はあちこち負傷していた。胴体以外ボロボロだ。シャツもズボンもナイフで引き裂かれて血が流れている。

 ざっと見たところ致命傷はないが、出血箇所が多いまま動き回るのは賢くない。これ以上無理に動かない方がいい。

 声をかけたことで俺に気付いたのか、葉山が首を捻ってこっちを向いた。右目が開いていない。


「…セイ? 危ないから、下がってなさい」

「ガキあつかいするな。おまえよりたたかえる」


 場が動かないうちに先手を打つ。袖の中から琥珀の原石を取り出して放り投げ、敬意と祈りを捧げる。


(ときをながれしりゅうぜんこう。たそがれいろのこはくよ。わがなはせいげん。そのじょうかのちからをこうものなり。

 きぎがにさんかたんそをすいさんそをはくように、あたえたまえ。そのちからで、みちびきたまえ)


 琥珀はもともとが木だ。そういう意味では石とは言わないんだが、力の塊としては申し分ない。琥珀は三千万年の時間ときを有した力の結晶だ。

 俺の願いを聞き届けた琥珀から気配が膨らんで、弾けた。バキン、と石が割れて粉々になって俺達の周囲を漂う。

 これで、邪悪は遠ざけられるはずだ。蛇がそそのかし囁く声は遠くなるはず。

 エディ…いや、蛇は、苛立ったように靴先で床を叩いていた。「なんだ、お前もドラゴンか。ずいぶんとドラゴンの知り合いが多いじゃないか、先生」「…顔が広いんだよ。先生だからね」葉山は曖昧に笑って壁から背中を浮かせた。…足を引きずってる。もうこいつはあまり動かない方がいい。となれば、動けるのは俺とろいろか。

 あまり派手なことはできない。俺はここの政府にまだチクられてないドラゴンだ。派手なことをすれば勘付かれるだろう。

 ろいろは葉山の指示で動くだろうが、そっちだって派手なことはできないはずだ。今も人型を解かないのは、力に制限をかけてるからだろう。

 相手は人間に取り憑いた蛇。悪神あくしんとも言われる存在。生半可なことをしたってきっと無意味だ。確実に、仕留めないと。


「おい」

「ん」

「おうになにかいわれたんだろう。おれはそのためになにができる」


 蛇が琥珀の守護の力でこちらの動きを読めなくなっている今がチャンスだった。

 はっきり口にしなきゃ、蛇に俺達の次の動きはわからないんだ。應に何を託されたか知らないが、現状解決のため、仕方がないから、俺にできそうなことなら手伝ってやる。

 そういったことが伝わらないほど、葉山は馬鹿じゃないはずだった。應やコウに心を許されている人間なんだ。馬鹿なはずはないと思っていた。

 けど、葉山は持っているナイフを掲げて。「これでエディの心臓か脳髄を突け。そうすれば蛇もろとも息の根を止めることができる」と、そう言った。そう…。

 蛇は当然反応した。自分を滅するかもしれないものを警戒し、葉山が手にしているナイフを睨みつける。

 俺は、思わず、葉山の足を蹴飛ばしていた。「いたっ」「てめぇ、てのうちバラしてどうするんだ…っ!」は隠されていなきゃならなかったはずだろう。そうと知られることなく相手を刺せなきゃ意味がないだろうが、この、馬鹿!

 怒りなのか、呆れなのか、わなわなと震える俺に、葉山はあろうことか笑う。


「俺さ、いやなんだよね」

「はぁ?」

「そういうの、いやなんだ。だからこれは使わない」


 應に託されたナイフを簡単に放り投げた葉山という人間は、あろうことか自ら武器を捨て、手ぶらになり、閉じていた右目を開けた。人間ではありえない色に瞬く右目からは血が流れ続けている。

 こいつ、何考えてるんだ。馬鹿か? 馬鹿なのか? と、俺は頭を抱えたくなった。武器なしで、蛇を葬る手段なしで、一体この騒ぎをどうおさめるつもりなんだよ…。



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