3.


 時間は、ここから少しさかのぼる。


「おじーちゃん、俺です。かいりです」


 いつも、ここに来ると、おう、と達筆な筆文字で扉に大きく書かれた名前が目を引く。

 何かあれば自分から俺の部屋にやって来る應だけど(おじーちゃんのくせにこの人…いや竜? は動き回るのが好きだ)、前回上の指示なしに勝手に動いたことをとがめられ、不用意な外出は控えるようにと通達されたらしい。

 だから、おじーちゃんの『直接会って話したいことがあるのじゃ』という希望を通すには、俺がおじーちゃんの部屋に行くしかなかった。

 夜で、外はすこぶる寒かったけど、ろいろが寝こけているベッドを抜け出し、できるだけあたたかい格好をして、相変わらず我が道を行くコウに片手を振って自分の部屋を出た。

 携帯端末同士の便利な通話は、基本的に録音されている。それは避けたいと言われたから、こうしておじーちゃんの部屋までやって来た。

 扉をノックした俺に、「入るのじゃー」と中から声。

 認証機に端末をかざしてロックの解かれている扉を開けると、應が待っていたぞとばかりに両腕を広げて俺を歓迎した。

 えー、俺は抱擁されるべきなのか…? と疑問を抱きつつも、腕を下ろさないおじーちゃんに観念して中国の民族衣装の袖の中におさまる。よしよしと頭を撫でられ「よう来たのぅ」と言われると、なんだか本当にこの人がおじーちゃんで、俺が孫、みたいな気持ちになってくる。

 でも、顔を上げればおじーちゃんはおじーちゃんの外見であらず。俺の頭を撫でたのは、ピアスをジャラジャラつけて新緑色の髪をした青年なわけで。複雑だ。見た目はおじーちゃんより俺の方が年上っぽいのに。


「それで、話っていうのは」

「うむ、うむ。まぁ、まずは茶でも淹れようかの」


 抱擁から解放されてソファを勧められて、ふかっとした黒いソファに腰を下ろし、目頭に指を当てる。

 少し、疲れていたのかもしれない。教え子が刺されるなんてそうそうない経験だったし。コウはそういう方面で何かをカバーしようなんてしないから「大変じゃったのぅ、かいりや」と声をかけてくれるおじーちゃんの存在は素直にありがたかった。


「俺は、まぁ、大丈夫です」


 そう、言わなければいけない気がして。

 生徒が苦しんでるのに、親御さんが心配そうにしてるのに、教師である俺がめげてちゃいけない気がして。

 気丈に、胸を張って、生徒を安心させてあげられる先生でなければ。柳井やないとアウェンミュラーの前ではそうやって格好つけていたものだから、無駄に疲れてしまったのかもしれない。

 おじーちゃんはいつもどおりだ。「今日は特別に昆布茶にしようかのー。ほっとするぞ」…おじいちゃんなりの気遣いだろうか。昆布なんて、海が駄目になった今、どれだけ貴重なものか。

 こと、とテーブルに湯呑みが置かれた音に薄く目を開ける。

 向かい側に座ったおじーちゃんはズズズと音を立ててお茶をすすっていた。…そういうところはおじーちゃんらしい。「うむ、うまい」「…いただきます」今では貴重品である昆布の入った湯呑みを手に、息を吹きかけ、一口飲む。

 …おいしい。

 そのあたたかさは、外の寒さでこごえていた俺のからだみ渡った。

 なんだかすごく懐かしい味だ。十年前まで、こんなものは市場にありふれていたのに。

 こんな空高くに、すべてのものを捨てて逃げてまで、人は生き延びようとしたのに。人間は逃げたその場所で手を取り合うことすらできないのか。


「かいりや。そう思いつめるでないぞ。お主が悪いのではないのだから」


 ぽつりとしたおじーちゃんの声はそう言って俺を気遣う。

 おじーちゃんは、優しい。人が好きで、だから、無償で助けてくれる。この都市を守るために自分の鱗を剥がしたり、貴重なものを砕いてでも人命を救ってくれたり。

 おじーちゃんはとても優しい。

 ここの人間は、その優しさにつけこんでいる。


「今回わたるが刺されたことについてじゃがの。あれは、人間だけのせいではないのだよ。

 あの場に僅かじゃがの気配があった。エディが航を刺したことに違いはないが、その背を押した者がおる。それが蛇、此度の騒ぎの原因であるとわしは思っている」

「蛇……?」


 蛇、と言われて手も足も翼もない爬虫類の蛇を思い起こした。

 空の只中ただなかは寒い。蛇が生きていける環境じゃない。地上であっても気温が下がってくれば冬眠していた変温動物だ。空というもっと寒い場所で生きていけるはずがない。

 おじーちゃんは俺の思考を読んだかのようにパタパタと袖を振った。「ああ、違うぞ。蛇、というのは呼び名のようなものでな。現実に蛇の姿をしておるわけではない。というか、にはおそらく、姿はない」「……?」おじーちゃんが何を言いたいのかわからず首を捻る。



 おじーちゃんは俺に『蛇』と呼ばれているものが何かを説明した。

 昆布茶に、こっそりとっておいたのだというちょっと湿気しけったおせんべいをかじりながら、俺はその話を聞いた。

 應曰く、蛇とは、古来から存在するドラゴンの一種、らしい。

 肉体を持たず、他者…生きとし生けるものに精神を寄生させることで生きてきた存在で、悪神あくしんのようなものとして人の間では語り継がれているんだとかなんとか。

 ドラゴンにとっても害悪であるその蛇を滅ぼそうと、かつての賢いドラゴン達は今までにも何度か蛇と闘いを繰り広げたらしい。

 蛇が現存していることを見れば、その闘いは今のところ蛇が生き延びることで決着している。


「蛇はの。今でこそああして負の願いの背を押す者となってしまったが、最初は善神であったのだよ」

「善いことをしていた、ってことですか?」

「ああ。最初はの、寄生せねば生きていけぬ我が身を憂い、宿主との共存関係を望んでいたのじゃ。自らを宿してくれた代わりに、その者に益となるものを運んだり、とな。

 しかし、あるとき、手酷く裏切られたらしくてな。

 生きる者の醜さを思い知った蛇は、醜い己の生き様を開き直り、他者を利用し生きるようになってしまった。多くの生きる者がそうであるように、な」


 二杯目の昆布茶をありがたくいただき、ふー、と息を吹きかける。「ドラゴンでも、望み、ってものは深かったりするんですか?」尋ねた俺に、おじーちゃんは何かを思い出すように天井を見上げた。「そうさなぁ…。儂やコウのような者は、己の力でたいていのことはどうとでもなるが、多くの者は人間と同じだよ。自分のことで手一杯であり、生きていくのに必死だ。そのためなら、他者を踏み台にすることは充分じゅうぶんあり得る」「…そうですか」そうか。ドラゴンも、人間と同じ、か。

 権力や力やお金があれば、人間はなんだってできる。それがないと、何もできない。自分のことで手一杯になる。ドラゴンもそれは同じ。

 だからのぅかいり、と言われ、顔を上げる。おじーちゃんは少し悲しそうな目をしていた。


「蛇は悪神になってしもうた。寄生されたエディには申し訳ないが、その存在ごと、蛇とともに消滅してもらうしかない」


 おじーちゃんは優しい。それでも、やるべきことをやれないような、判断を見誤るような甘いドラゴンではない。

 何も言えない俺に、おじーちゃんが袖の中をゴソゴソとあさって何かを取り出した。

 テーブルの上に置かれたのは、ナイフが二つ。刃は少し歪な形をしている。手製、という感じがする。


「これはの、昔に折れた儂の爪と牙から作ったものじゃ。見た目はパッとせんが、力はある。これでエディの心臓か脳髄を突け。蛇もろとも息の根を止めることができる」

「…俺が、ですか」

「本来なら儂やコウがやるべきことだ。しかし、動くなと命じられたからの。これ以上この都市でのドラゴンの信頼度を下げるべきではない…。そうなれば、動けん儂らの代わりを頼めるのはお前くらいなんじゃ。かいり」

「でも、俺は。こんなの」


 震えている気がする手でナイフの柄に触れた。「人を、殺せと。俺に?」問うた俺に、おじーちゃんは悲しそうな顔をしている。


「のぅ、かいり。お前は十年間よくやって来た。

 そばで見てきて感じておる。お主はドラゴンを心から愛している。

 だからこそ、こんなことで、ここまで積み上げてきたものを崩させるわけにはいかんのじゃ。

 蛇は内側からの崩壊を招く。今はエディという学生にいているが、これが軍の上役などになったらどうなるか、わからんわけではあるまい?」


 もし、荷電粒子砲かでんりゅうしほうの発射許可を出せるような人間に蛇が取り憑いたら? ドラゴンの是非を問う審議会の議員に取り憑いたら?

 そこから広がる波紋。それによる被害はすぐに甚大じんだいになる。早急に、この事態に、蛇に、終止符を打たなければならない。

 おじーちゃんが言っていることは間違いなく正論だ。とても正論だ。だけど。


「そのためなら、エディと蛇は、捨て石だと」


 おじーちゃんは何も言わなかった。

 沈黙による肯定。

 俺も、もう何も言えなかった。やるべきことは決まっていたし、おじーちゃんの言っている道が一番正しいことはわかっていた。

 だけど。


(本当に、それしか、道はないのか)


 何かを守るためじゃなく、壊すために、俺達は出会ったんだろうか。

 俺達は。人は。ドラゴンは。そんなに悲しい生き物なんだろうか…。



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